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2024/05/17 18:25 |
年金保険
公的年金保険
社会保障制度の一種で、主に政府が運営する。給付事由は、老齢・障害・遺族の三種類ある。財源は基本的に保険料であるが、税が投入されることもあり、日本の国民年金は保険料の3分の1を国が負担しており、2009年度までに2分の1へと引き上げがなされることとなっている。


民間年金保険
民間金融機関が運営する。保険料の運用リスクが公的年金よりも高い。「個人年金保険」ともいう。

年金の受け取り方には、主に以下がある。

終身年金 - 受け取り開始年齢に達してから、被保険者が死亡するまで受取人に年金を支払うもの。
保証期間付終身年金 - 終身年金の内、初めの10~15年間に関しては被保険者がその間に死亡しても、受取人またはその相続人に保証期間の終了まで年金を支払うもの。
確定年金 - 被保険者の生死に関係なく、5~20年など定められた期間は受取人に年金を支払うもの。貯蓄の取り崩しに形態的には最も近い。
有期年金 - 5~20年などの定められた期間の内、被保険者が生存している間のみ年金を支払うもの。
保証期間付有期年金 - 有期年金の内、初めの5~10年間は保証期間として、被保険者の生死に関わらず年金を支払うもの。
保険金にかかる税金は、日本の税制では以下の通りになる。

契約者=受取人 の場合(被保険者は無関係) - 所得税
契約者≠受取人 の場合(被保険者は無関係) - 所得税、贈与税
かつては保険会社・郵便局(簡易保険)・農業協同組合などで専ら取り扱ってきたが、1990年代後半の金融改革に伴い、銀行や証券会社でも販売されるようになった。


定額年金保険
契約した段階で、将来受け取る年金額が確定するもの。契約時の予定利率に保険の受取額が大きく左右されるため、1990年代後半~2000年代のようにそれが低い段階での契約は一般的に損とされる。

また、インフレーションなどへの対応がしにくいといった問題もある。

終身保険や養老保険など、貯蓄型生命保険は多くの保険会社において、満期時ないしは支払い終了時に、定額年金へ切り替える事が出来るようになっている。


変額年金保険(投資型年金)
1990年代に現れた個人年金保険で、投資信託の制度を取り入れたものである。基本的に契約者が保険の運用に対する指示を行い、その成果に基づいて年金額が決定する。元本の保証は基本的になされないため、自己責任に基づく年金制度といえる。ただし納付額の100~110%等、年金原資の最低保証を定めたタイプも生まれてきている。

また被保険者が死亡した場合は、最低でも納付金額分の死亡保険金が支払われる。

月払い・年払いといった分割払いのものよりも、一時金を一括して納めて運用するタイプのものが多い。
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2007/09/28 13:24 | 未分類
アダルトショップの歴史
「大人のオモチャ屋」という呼称は、東京オリンピック前(昭和30年代初頭/赤線防止法と同時期)から使われるようになった。

街道沿いやターミナル駅周辺の裏道、温泉街や歓楽街などにひっそりと存在する店舗で、主に電池駆動式のバイブレーターや性交補助器具ほか、淫具や淫薬、ブルーフィルム(8ミリ投影機用エロ映画)や猥褻画、海外ポルノ雑誌やSM雑誌等を販売していた。

特に、昭和47年に誕生した「熊ん子」と、それに続く挿入型バイブの隆盛は広く好事家に受け入れられ、アダルトマーケットの拡大に大きく貢献した。


電気マッサージャーや媚薬類の取り扱いは「薬事法」による制約があっため、線引きの微妙な商品を扱うこの業界は、ポルノ規制とともに公安当局からの圧力も多く、どこの店主も非常に警戒心が強かった。

「大人のオモチャ屋」は全て外から中を覗けない造りで(風営法による指導もあった)、客と店主あるいは客どうしでお互いの顔が見えないよう、店内を薄暗くする四ツ目屋以来の習慣もあったので、暗い店内に目つきの鋭い店主が睨みを利かすイメージは、繁華街にあろうとも「気軽さとは対局の雰囲気」を放っていて、入店するには屈強な男性ですら覚悟を決める必要に迫られる場所だった。

薄暗い店内に陳列された商品には使用法はもとより、価格表記さえ無いのが普通で、使用法の説明を求めたり商品を手に取ったりできる雰囲気とは程遠い状況下で、「値段は客を見て決める」「何も買わずには帰さない」といった無言の脅迫感に怯える、一種異様な空間だった。

また東京や大阪の比較的大きな店舗は、三流男性雑誌に広告を掲載して(二流雑誌までは掲載を認めなかった)通販も行っていた。

他業種との融合
昭和40年代の後半頃から、世間にはヌードページを売りとしたグラフィカルなエロ系雑誌が蔓延するようになったが、流通経路と利益率の違いから出版社が発行する「エロ雑誌」は「大人のオモチャ屋」にはほとんど並ばなかったため、ビジュアル面での品揃えに関しては、街中の小型書店にさえ及ばない時代が長期間続いた。

この潮流を境に日本のポルノは、外人の裸から日本人の裸へ移行し、ポルノという言葉も風化してゆく。


一方、昭和53年頃から神田神保町を起点に発生した息の長い「ビニ本ブーム」は、日本中の繁華街に「ビニ本屋」を増殖させながら、その後の「レンタルアダルトビデオブーム」、「裏本ブーム」へと発展する過程において、一斉摘発や風営法による締め付けをくぐり抜けながら、既存の「大人のオモチャ屋」と新勢力の「ビニ本屋」を融合させる流れを生んでいった。

新製品に乏しかった大人のオモチャ業界は利幅が薄くも需要の多いビジュアル系商材を、薄利多売傾向が目立ってきたビニ本AV業界は利幅の魅力的なオモチャ系商材を、それぞれ取り込んで顧客の囲い込みに努めた結果、アダルトショップ入店時の「命がけ」的イメージは徐々に薄らいでいった。

女性市場の誕生
さて、江戸時代後期の四ツ目屋から400年来脈々と続く「未成年お断り店舗」の長い歴史の中で、世間に最大のインパクトを与えたのは、1993年、 渋谷に突如誕生した「女性専門 アダルトショップ キュリウス」の大成功である。

「女性はオナニーをしない」という定説がまかり通っていた1990年代初頭、「性的快楽の主導権は自分たちで握る」「恋愛から切り放してSEXや自慰を愉しむ」というショッキングな提案を掲げたキュリウスは、多くの女性から後押しを受け、連日のテレビ番組や多数の女性ファッション誌、さらには一般情報誌から経済誌までに繰り返し取り上げられ、何世紀にも渡って続いた男性主導のセックス観を、まさに一夜にして覆す結果を生んだ。

自ら「セックスブティック」と名乗る店舗は、アジア最大の流行発信地区「渋谷センター街」の一角にありながら、路面でも地下でもなくオフィスビルの最上階という、店舗としては考えられない立地条件を持ち、これを「女性顧客の安全利用を図るため」として「看板や広告をも廃した秘密スタイル」と「男性客お断り」を徹底する事で、メディアと口コミの力を最大に利用し、開業2年目にして30万人を越える顧客を得たと言われている。

つまりキュリウスは誰のパイも奪う事なしに、自力で「女性向けの」潜在的な巨大市場を開拓し、それを独占した事になる。

アダルトグッズは「男性が購入し女性の快楽を支配する怪しげなモノ」という図式が定着していた時代に「Curious = 好奇心」というハンマーで「女性が自分で楽しむために...」という楔を打ち込み、同時にそれまで「日陰者的存在」として扱われていた「大人のオモチャ」と「大人のオモチャ屋」を、一気に「陽の当たる場所まで引き出す」事にも成功した。


インターネットの力を全く用いずに(日本のインターネット元年は利用者が100万人を越えた1996年とされる)世間にこれだけの影響を与えた事は特筆すべきだろう。

このムーブメントは当然アダルト業界全体にも大きな方向転換を迫り、商品の色使いやパッケージに価格帯、さらには機能性から耐久性まで、女性の目を意識した製品以外は売れなくなり、変革の波に乗り遅れたメーカーや店舗も生き残れない状況となった。


以下に、女性にアダルトショップを解放するにあたり、キュリウスが革新した手段の一部を下記にまとめてみる。

女性専用アダルトショップ
アダルト系小売店としては初めて法人登記を行い、安全性を徹底的に追求したショップ環境を構築する事で、安心感を与えた。
店舗の所在を非公開とし、電話で問い合わせた女性にのみ場所案内するという、前代未聞の顧客安全策をとった。
直射日光を取り入れた明るい店内で、全商品を全て手にとって動かせるように展示した。
店員や通販受付は全て女性とし、選び方、使用方法、衛生面を中心に手入れ方法までを懇切丁寧に説明した。
大量に出回る商品群を機能と品質で評価選別し、独自の分類セレクトと解説を行うことで、消費者へ広く深い商品知識を広めた。
アダルトグッズの社会的立場、顧客情報流出の危険性まで、世間と顧客に対して安全利用に関する啓蒙を続けた。
顧客情報管理の本質は社内意識の徹底にある、との信念を創業時から内外に徹底布教した。(個人情報保護法発令の12年前)
設立後3年間はカップルでも買い物できる時間帯を夜間に設け、男女間の営みに健全に性具導入をはかる指南を行った。
商品カタログを有料化する事で、顧客情報管理には費用が掛かることと、それに掛かる自社責任を明確に利用者の前に示した。
自社構築の顧客管理システムで、通販顧客の秘匿情報を責任持って管理する事を明言し、創業以来無事故記録を更新し続けている
ヤマト運輸との緊密な協力関係により、現在では常識となった「代引きシステム」と「到着日時指定便システム」を完成させた。
徹底した在庫管理と商品検査により、翌日到着と不良品根絶を保証した。(女性顧客特有の心変わりによる返品を避けるため)
独自の無音梱包、化粧品メーカー偽装箱など、通販時に内容物をわからせないための数々の工夫を生み出した。 ....等々

これら多数の改革の中でも、商品知識や安全な使用法の啓蒙、顧客情報秘匿に対する啓蒙、通販商品出荷と受け取り方法などは、通販業界全般にも大きな影響を与え、その後のアダルト製品業界やネット販売店、さらには個人情報保護法への礎となった。


「キュリウス」の大成功は、以後またたく間に何百店という後続模倣店を日本中に生む結果となった。

これに対して本家キュリウスも1994年~1995年に掛けて、大阪・名古屋・広島・博多 と、続々支店を増やしていったが、1996年には渋谷本店以外の支店を全て閉鎖した。全世界を見渡しても「完全な女性専門店」は現在でもキュリウスただ1件だそうで、ネットショッピング全盛の現在、女性専門実店舗の経営の難しさが、推し量れる。

2007/09/28 13:14 | 未分類
ジャイアンツ・コーズウェー
ジャイアンツ・コーズウェー(「巨人の石道」)の名は、アイルランドの伝説の巨人フィン・マックールに因む。伝説では、彼がスコットランドの巨人ベナンドナーと戦いに行くためにコーズウェーを作ったとされる。

フィン・マックールはスコットランドへ辿り着く前に眠くなってしまった。フィンがいつまで経っても来ないので、ベナンドナーは彼を探すために橋を架けた。ベナンドナーがフィンよりも大きいことを見て取ったフィンの妻ウナは、フィンに毛布を掛けて、フィンが子どもであるかのように見せかけた(異伝では、ベナンドナーの大きさを見て逃げ出したフィンは、赤ん坊のふりをさせてくれと妻に頼んだ)。ベナンドナーは、「赤子」の大きさを見て、父のはずのフィンはもっと大きいのだろうと推測した。そして、恐れをなして、コーズウェーを蹴散らしつつ逃げ出したという。

異伝では、妻ウナが岩に彩色してステーキに見せかけたものをベナンドナーに出し、「赤子」のフィンには普通のステーキを出したところ、「岩のように硬い」はずのステーキを「赤子」が易々と食べるのを見て恐怖したベナンドナーが逃げ出した、というものもある。

コーズウェーの伝説に対応する伝説は、スコットランドのスタッファ島のフィンガルの洞窟 (Fingal's Cave) にも見られる。

古第三紀に、アントリムは激しい火山活動にさらされており、高い流動性を持った溶解した玄武岩が、白亜質の地盤に流れ込み、広大な溶岩台地を形成した。溶岩は急速に冷却したので収縮作用が起こった。垂直方向の収縮は流れの厚みを削減したが、水平方向の収縮は、ひび割れによって限定的なものになった。そして、広範囲にわたるひび割れの伝播が、現在見られる奇観を形成したのである。

柱の天辺はさながら踏み石のように平らで、柱の付け根は断崖の下から伸びているが、下の方は海の下に沈んでいる。柱はほとんどが六角柱で、中には、四角、五角、七角、八角のものもある。最も高い柱は12mに達し、崖で凝固した溶岩には厚さ28mになるものもある。

ジャイアンツ・コーズウェーの「発見」を世に知らしめたのは、トリニティ・カレッジのフェローだったリチャード・バルクリー卿 (Sir Richard Bulkeley) による王立協会の報告書(1693年)であるが、実際にはデリーの司教が1年早く訪れていた。

ジャイアンツ・コーズウェーの石柱群は印象的なものであるが、構造自体はそれほど珍しいものではない。もちろん、規模は世界的に見ても珍しいものではあるけれど、玄武岩の柱は、柱状節理によって生じるものに過ぎず、世界には様々な規模のものがある。より早く冷却されれば、それだけ石柱の規模も小さくなる。

この地域の構造物には、数百万年にわたって風雨にさらされてきた結果、何らかの形になぞらえうるものもある。「オルガン」、「巨人のブーツ」、低い円柱が風雨で丸くなった「巨人の目」、「羊飼いの足跡」、「蜂の巣」、「巨人のハープ」、「組み合わせ煙突」、「巨人の門」、「巨人のこぶ」などである。


2007/09/28 13:01 | 未分類
世界遺産、熊野古道
熊野古道とは、主として以下の5つの道を指す。多くは、2004年に「紀伊山地の霊場と参詣道」としてユネスコの世界遺産(文化遺産)として登録されたが、紀伊路は登録されていない。なお、これは「サンティアゴ・デ・コンポステーラの巡礼路」(スペイン)と共に珍しい道の世界遺産である。

小辺路(高野山-熊野三山、約70km)
中辺路(田辺-熊野三山)
大辺路(田辺-串本-熊野三山、約120km)
伊勢路(伊勢神宮-熊野三山、約160km)
大峯奥駈道(吉野-前鬼-熊野三山、約140km)
紀伊半島は、日本でも有数の降雨量の多い地域である。このため、所々に石畳で舗装された道跡が残っている。また江戸時代、紀州藩により整備された一里塚が残っている個所もある。

しかし、熊野古道の中には、国道や市街地に吸収されてしまったものもある。たとえば、かつて十津川街道として知られていたルートは国道168号線に吸収されており、紀伊路(大阪-田辺)が登録外であるのも同様の事情による。また、登録されたルートでも、大辺路・伊勢路の大部分は国道42号線に吸収されている。

こうしたことが生じるのは、ひとつには紀伊半島の地理による。すなわち、紀伊半島の中央部は、際立った高山こそないものの、どこまでも続く山々と谷に覆われているため、古来より交通開発が困難であり、交通路が敷かれうる場所も限られていた。そのため、小辺路や大峯奥駈道のような例外はあるものの、古人の拓いた道と現在の主要な交通路が、並行(中辺路と国道311号線、JR紀勢本線・国道42号線の紀伊半島部分と大辺路・伊勢路)していることや、重複していることが少なくないのである。また、熊野詣それ自体の盛衰もあって、正確なルートが不明になっている区間があること、歴史的な変遷から生じた派生ルートの扱いなどの問題もあり、世界遺産に登録されたものが熊野古道の全てではないことに留意する必要がある。また、そうした「忘れられた」ルートを再発見しようとする地元の動きもある。


歴史
熊野周辺は、日本書紀にも登場する自然崇拝の地であった。

907年の宇多法皇の熊野行幸が最初と言われる。

熊野三山への参詣が頻繁に行われるようになったきっかけは、1090年の白河上皇の熊野行幸からと言われている。白河上皇はその後あわせて9回の熊野行幸を行った。これにより京都の貴族の間に熊野詣が行われるようになった。その後、後白河上皇も33回の熊野行幸を行っている。

江戸時代に入ると、伊勢詣と並び、熊野詣は、広く庶民が行うようになったといわれている。一時は、熊野付近の旅籠に1日で800人の宿泊が記録されたこともあったようだ。

明治維新後、神仏分離令により熊野古道周辺の神社の数は激減。熊野詣の風習も殆どなくなってしまった。

熊野古道自体は、大正から昭和にかけて国道が整備されるまで、周囲の生活道路として使用されつづけた。


2007/09/27 22:03 | 未分類
世界の主なリゾート地一覧
マリンリゾート
海水浴やマリンスポーツなどに適した、比較的温暖な地域に多い。

アジア
日本 (沖縄、石垣島)
韓国 (済州島)
中国 (海南島)
フィリピン (セブ島、ボホール島、ボラカイ島、エルニド、アマンプロ)
タイ (プーケット島、クラビ・ピピ島、ホアヒン、サムイ島、パタヤ)
マレーシア (ペナン島、ランカウイ島、コタキナバル、ティオマン島、レダン島、タワウ《ボルネオ島》)
インドネシア (バリ島、ロンボク島、ビンタン島、バタム島、メナド(スラウェシ島))
ベトナム (ニャチャン、クイニョン、ファンティエット、プーコック島、ダナン)
カンボジア (シアヌークビル)
スリランカ (ネゴンボ、ベントータ、ベールワラ)
インド (ゴア)
モルディブ
UAE (ドバイ)
トルコ (ボドルム)
アフリカ
モーリシャス
セーシェル
ケニア (モンバサ)
南アフリカ (サンシティ、ケープタウン)
ヨーロッパ
モナコ (モナコ、モンテカルロ)
フランス (コート・ダジュール《カンヌ、ニース》)
スペイン (コスタ・デル・ソル《マルベーリャなど》、イビサ島、マジョルカ島)
イタリア (リビエラ海岸、リミニ、マルケ州、カラブリア州、サルディーニャ島、シチリア島)
ギリシャ (ミコノス島、サントリーニ島など、エーゲ海の島々)
北中米
アメリカ合衆国 (サンタモニカ、マイアミビーチ、キーウェスト、フォートローダーデール、ポンパノビーチ、ハワイ諸島)
メキシコ (カンクン、アカプルコ、ベラクルス、カボサンルーカス《ロスカボス》、プエルトバジャルタ)
ベリーズ
キューバ (バラデロ)
バハマ
ドミニカ共和国
ジャマイカ (モンテゴベイ)
英領 (ケイマン諸島)
小アンティル諸島 (バルバドス、仏領マルティニーク島など)
オセアニア
オーストラリア (ケアンズ、ゴールドコースト)
ニュージーランド (クリアウォーター)
パプアニューギニア (マダン)
米領 (グアム島、サイパン島、テニアン島、ロタ島)
仏領 (ニューカレドニア島、タヒチ島)
パラオ (ペリリュー島)
フィジー

山岳リゾート
山や高原など標高が高く冷涼な地域が多い。主に避暑地として好まれ、冬はスキーリゾートとなることも。火山帯が近いと温泉保養地を兼ねることもある。

日本
上高地
那須高原
蔵王連峰
湯沢町
軽井沢町
スイス
ツェルマット
ローザンヌ
フランス
シャモニー
カナダ

2007/09/27 21:56 | 未分類

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