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2024/05/07 22:06 |
藤井フミヤ、奉賛歌
歌手の藤井フミヤ(45)が25日、奈良・橿原神宮で「第62回神宮式年遷宮奉賛コンサート」を行った。フミヤは伊勢神宮が20年に一度、社殿などを造り替える式年遷宮の奉賛曲「鎮守の里」を奉納。2013年の遷宮へ向けた行事の一環で開催された。

「電車に乗って来ると、教科書に出てくる地名が…。(昔から)つながったDNAを感じる。ファンそれぞれの気を、私が(歌とともに)まとめて奉納するという心構えです」引き締まった表情で内拝殿に設けられたステージに立ったフミヤ。約400人のファンとともに神殿に向けて祈りをささげると、早速、「鎮守の里」を披露。歴史にちなんだトークを挟みながら、全22曲を歌い上げた。

藤井フミヤ
旧・日本国有鉄道(以下単に『国鉄』という。)職員の父と美容師の母のもとに第1子として出生。中学生の時、キャロルに出会い音楽を始める。久留米市立南筑高等学校卒業後、国鉄門司鉄道管理局(現・九州旅客鉄道北部九州地域本社)鳥栖駅で半年間の見習期間の後、同(現・同長崎支社佐世保鉄道事業部)早岐駅に配属。国鉄在職時は国鉄労働組合(国労)に所属し、国鉄改革時と重なりパージの対象にされたと本人が後に語っている。国鉄退職後の1983年にチェッカーズのリードボーカルとしてデビュー、数多くのヒットをとばした。歌唱力のみならず外見や言動も注目され、彼の先進的なファッションを真似する若者が増加した。また、オリジナル作品をシングルとして発売した以降の殆どの作詞を担当。他のメンバーと共に楽曲製作の中心的存在となった。なお、チェッカーズがデビューした頃は国鉄が国鉄分割民営化を控えた大変な時期だっただけに郁弥の大活躍は当時国鉄の現役車掌兼シンガーソングライターで『ザ・トップテン』や『ザ・ベストテン』の常連であった伊藤敏博の活躍と共に国鉄マンにとっては希望の星であった。

1992年にチェッカーズは解散、翌1993年から『藤井 郁弥』を『藤井 フミヤ』と改めソロ活動を開始した。同年リリースした『TRUE LOVE』は大ヒットし、200万枚を超えるセールスを記録した。

歌唱力を武器に歌手活動を行うかたわら、『FUMIYART』名称で個展を開催したり、愛・地球博の名古屋市パビリオン『大地の塔』をプロデュース(世界最大の万華鏡としてギネスブック認定)したりと、幅広く活躍する。数多くのテレビドラマにも出演。

楽曲提供では、猿岩石への『白い雲のように』(作詞、作曲は弟の尚之)や、MISIAへの『星空の片隅で』(作詞・作曲)などがある。

地域への協力も数多く、出身地の福岡県久留米市へ久留米市歌『ふるさとのささやき』の作曲、くるめ市民カードのデザイン提供、FBS福岡放送のロゴマーク作成、母校久留米南筑高校の制服デザインなどがある。

私生活では1990年6月29日、長年交際していた女性(一般人)と結婚、フミヤと妻の間には息子・娘がひとりずついる。実弟尚之と、兄弟でF-BLOODを結成し、時折活動している。尚、尚之が一時期長髪だったが、フミヤから「髪を切るな」と言われた事があり、3年間伸ばしたと言う逸話がある。それ程、フミヤはファッションと髪型には非常にこだわった片燐を見せ付けている。


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2007/08/26 18:01 | 芸能

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