忍者ブログ
[PR]
×

[PR]上記の広告は3ヶ月以上新規記事投稿のないブログに表示されています。新しい記事を書く事で広告が消えます。


2024/05/04 14:25 |
やしきたかじんデビューまで
幼少の頃、遊んでいた時にダーツの矢が左の眼球に刺さり、視力低下した。これに伴う視覚障害により、ファッションのためだけでなく、常にサングラスをかけている。又、喫煙による肺気胸の症状も患っている。肺に穴が開いており、医師から「煙草を止めなければ死にますよ」と宣告されるも、未だに止めていないようである。最近(2006年4月)では、持病の腰痛(ヘルニア)の治療のためレーザー手術を行い、さらに、歯の治療や喉のポリープの治療も行った。(歯の治療といっても歯を抜いたわけではない。表面を削ったうえで抗菌パネルを張る事でワイン焼けやヤニで歯が汚れないようにした。)又、片目に白内障を患っており、近日手術をするようだ。

桃山学院高校在学中は新聞部に所属。朝日新聞社主催の全国新聞コンクールに入選。高校時代、生まれて初めて作曲した『コーヒーインタイム』が、NHK『あなたのメロディー』に採用され、歌手の奥村チヨが歌った。桃山学院高校から同大学経済学部に内部進学したが、新聞記者を志したため、父親の権三郎と対立し勘当。大学を中退して京都で生活するようになる。後に龍谷大学経済学部へ入学するが、これも中退する(ちなみに龍谷大学に入学するまで"リュウコク"と読むことを知らなかった)。

龍谷大学在学中に歌手を目指し、京都市祇園のクラブでギターとピアノの弾き語りとして歌い始め、又、たかじん自身作曲活動を行っていた。当時たかじんの曲の作詞は高校時代からの友人の荒木十章が手がけていた。この時期のたかじんは自暴自棄になっており、弾き語りで態度の悪い客には生卵・ママレモン・タバスコ等をぶっかけて暴れていた。そのため、次々とクビになったという。


歌手活動
1971年に京都レコードから『娼婦和子』でレコードデビューするが、刺激的かつ頽廃的との理由で即発売禁止になる。

1973年京都文化芸術会館で初めてのコンサートを開く。ニッポンレンタカーの後援で、当時のチケットにはたかじんよりニッポンレンタカーの文字が大きく入っていた。観客のほとんどがホステスで、コンサートの終盤にはホステスの出勤時間のため観客はほとんどいなくなったという。

その後1976年、キングベルウッドからシングル『ゆめいらんかね』、アルバム『TAKAJIN』で再デビュー。同年、FM東京が選ぶ最優秀新人賞のベスト5に入る。

1977年に宝塚史上初のリサイタル(「私の肖像画」)を鳳蘭がやるということで、初めて外部の力を導入する試みを行った。そこで、作曲部門担当を選考する際、宝塚の演出家である草野旦がデビュー曲の「ゆめいらんかね」を聴いてたかじんの歌唱力と作曲センスを評価。たかじんに白羽の矢が立つ。鳳蘭の曲を手掛けた縁から、宝塚大劇場で共演。男性として宝塚史上初、宝塚歌劇の舞台に立ち、宝塚の舞台に立った唯一の男性となる。この時に、宝塚に5曲(「うわさ」「ゴロ寝」「ゆめいらんかね」「ひょっとしたらのお話」「ラスト・ショー」)提供している。その中の1曲「ラスト・ショー」(作詩:荒木十章 作曲:やしきたかじん)はたかじん自身歌ってレコード(アルバム:プロフィールの10曲目)を出している。また、1993年には「パパラギ」で「心はいつも」(作詩:及川眠子 作曲:やしきたかじん)を提供する。この曲もたかじん自身歌っている(アルバム:MOOD-夢見る男のために-の3曲目)。

1977年に中村敦夫の推薦で「新・木枯らし紋次郎」の主題歌「焼けた道」(作詩:中村敦夫 作曲:猪俣公章)を歌う。この時、ゲスト出演で旅人役に出演するも、散々な内容でノイローゼになり自殺寸前に追い込まれたという。「ガンダムの『砂の十字架』と同等で生涯最大の汚点」と本人は語る。この時の経験がトラウマとなり、ドラマ出演や芝居の依頼がきても一切拒否するようになる。ちなみにこれを機に猪俣公章と親しくなり、CMソング「サントリーレッド」「桃屋の塩辛」を歌うようになる。

1978年に、歌手を辞めようと決意するが、周囲の勧めで渋々フェスティバルホールで行われた「大阪大衆音楽祭」に出場し、「ながばなし」(作詩:荒木十章 作曲:やしきたかじん)というタイトルどおり10分ぐらいある長い歌でグランプリを獲得(本人曰く、1分1秒でも長くフェスティバルホールの舞台に立ちたくて長い曲を作ったという)。これが歌手活動を続けていくきっかけとなる。

1980年にファンクラブ「CONCORDE」を設立(2004年度末にたかじんの意向により解散)。作詞家来生えつこと出会い、シングル・アルバム『明日になれば』をリリース。活動拠点を京都祇園から東京下北沢に移す。当時、レギュラー番組であった文化放送ラジオ「セイ・ヤング」の構成作家で作詞家デビュー前の秋元康と出会い親密な関係になる。作詞家デビューする前に、相談も兼ねて歌詞を持ってきた秋元に対して「全然アカン、話にならん。持って帰れ」とたかじんは散々こき下ろしたが、その後に秋元作詞の曲は多数ヒットすることになった(この時の歌詞について、たかじんは「詩じゃなくて作文、文章であって歌詞とは呼べない」というように評価していた)。のちに、たかじんは「あの時、なんぼかもろとったらよかったわ」などと冗談めかしたネタとして度々話している。また、この当時大阪のほかに東京・仙台・名古屋などにもレギュラー番組を持っており、雑誌「明星」に日本一移動距離の長い芸能人として取り上げられていたこともある。

1981年には谷村新司が作詞作曲し、たかじんが歌ったアニメ映画『機動戦士ガンダム』の主題歌『砂の十字架』が13万枚のヒットとなるが、無理矢理歌わされた曲がヒットしたため本人にとっては生涯最大の汚点だという。これには事情があり、当時鳴かず飛ばずのたかじんにレコードを出してもらうように当時のたかじんを担当していたディレクターがキングレコードの部長に涙ながらに土下座し、たかじんにレコードを出す機会を与えるように直訴する。その結果、キングレコードはレコードを出す条件としてたかじんにガンダムの主題歌を歌うように指示する。たかじんも歌詞に「ガンダム」という固有名詞がないことを条件に、土下座したディレクターのこともあり、渋々承諾する。しかし、あまりにも常軌を逸した歌詞と、ジャケットに自分の写真がなくガンダムの絵だったため、たかじんがクレームをつけて発売が延期になった。だが結局そのまま発売することになる。そんな歌がヒットしたため、本人にとって人生の汚点となる経緯となる。

1982年に大阪駅前第二ビルの一角にマネージャーであった野田幸嗣とともに個人事務所「P.I.S(パブリック・インフォメーション・スタイル)」を設立。


大阪を代表する歌手に
その後、1983年にビクターに移籍し『ラヴ・イズ・オーヴァー』をリリース、1984年にリリースされた『あんた』が上昇気流のきっかけとなり、1986年に『やっぱ好きやねん』、1987年には『ICHIZU』が関西で大ヒット。このころには、関西でのたかじんのコンサートのチケットは入手困難となりプラチナチケットとなる。この当時、ラジオ番組(「ウィークエンド・イングス」「ハローナショナルショールーム」など)で泰葉と共演し、海老名家公認の結婚寸前にまで発展した親密な仲となる。また、根岸の実家に頻繁に出入りしたこともあった。そのためか、母・海老名香葉子から林家こぶ平(現:正蔵)を預かってくれるように懇願される。その後、しばらくこぶ平はたかじんのところに住み込みするようになり、たかじんのかばん持ちをする。実質たかじんの弟子入りのような形になった。

その後、1989年には『大阪恋物語』、1990年には『なめとんか』が関西でヒットし、関西色を前面に出したバラードシンガーとして関西に根付く。

1992年にポリスターに移籍し『泣いてもいいか』をリリース、1993年には『東京』が約60万枚の自己最高のヒットとなり、翌1994年全日本有線放送大賞「特別賞」「読売テレビ最優秀賞」を受賞する。

コンサート・ディナーショーは関西ではプラチナチケットで、常に前売り即完売。コンサートでは2時間40分から3時間強の内大半(約6割)がトークに費やされる。歌はかつては15曲前後、近年は12、3曲歌う。歌の間に3~4箇所2、30分程度(大ネタになれば4、50分)のトークがある。トークでオチをつけないと次の曲の演奏が始まらないのも特徴である(予想外のオチにバックバンドが慌てて演奏にはいることもしばしば)。特に大ネタのときのバックバンドのバンマスでピアノ・キーボード担当の土井淳とのかけあいは最高である。

そのため、観客からも「曲はレコード、CDで聞くからそれよりも話をして」と言われる。それゆえほとんど歌えなかったこともあり、かつてコンサートやライブで歌ったのがたった2, 3曲だけだったことがある(たとえば、かつてのコンサートで円広志をゲストで迎えたとき、漫才に熱が入りすぎたため(2時間近くやっていたらしい)、たかじんが「緊急事態宣言」を行い、急遽バックバンドに目配せで当初予定していた曲数を大幅カットさせたため、スタッフは大慌てだったという)。

また「シンガーソングコメディアン」の異名をとるスターダスト・レビューの根本要が「(コンサート全体に占める)トークの割合はだいたい25%が我々で、30%がさだまさしさん、40%が松山千春さん、50%を超える(実際は60~65%程度)ようなお方はやしきたかじんさんしかいらっしゃらないでしょう」と言うように、トークにかけては、歌手のトークではなく、トップクラスの芸人のトークであり、トッププロのMCですらも賞賛されている。上岡龍太郎はたかじんのコンサートを「あれは独演会や」と言っている(たかじんのコンサートがこのようなスタイルになったのは、ヒット曲が全くなかった頃にどのようにすれば満員になるか試行錯誤した結果、喋りを磨くしかないと結論付けたと本人が言っている。もっとも、現在のように常時満席の状態になったのは芸人としての喋りの面白さだけでなく、関西人に長く愛される歌を創りあげてきたことが一番の要因であることは言うまでもない)。

コンサートになると、極度の重圧から自律神経失調症や重度の胃腸炎やノイローゼになり、かつてのコンサートでアンコールの緞帳が下りたとき意識を失い生死をさまよったことがある。また、客席をまともに見るのが怖いためステージに立つときは必ずサングラスをかけている。トークのときにステージの端から端までウロウロするのはサービスや演出ではなく、精神的に落ち着かないからである。

普段の喋るときのだみ声の地声と歌うときの高く澄んだ甘い歌声とのギャップがあまりにも違うため、関西地方以外で、時々たかじんが歌手であることが疑われることがある。関西では「すずむしの声を持ったゴキブリ」などといわれることもあった。また、上岡龍太郎はたかじんを評して「普段のしゃべり声は芸人の声、歌っているときの声は歌手の声」と言った。

本業の歌手としては、1999年10月5日にフェスティバルホールで行われた50歳記念のバースディコンサートで一度休業しており、2001年12月12日岡山国際ホテルで行われたディナーショーで活動を再開し、2002年8月31日にフェスティバルホールで行われた「復活スペシャルコンサート」を行った際、歌い終わったあとに「やっぱ山口百恵のようにはいかんな、またマイク握っとる」と発言し、ファンは待望の活動再開を喜んだ。なお2002年12月30日に行われた帝国ホテル大阪のディナーショーを最後に、2003年以降コンサートツアーは休んでいる。CDも2003年10月の『冬のソナタ』のカヴァー曲で2004年にNHKで放送された冬のソナタ(日本語吹き替え版)の挿入歌・主題歌となる『My memory/最初から今まで』以来シングルリリースしていない。この曲は関西テレビ『たかじん胸いっぱい』エンディングテーマだった。

歌手でありながら、1986年に日本放送演芸大賞「ホープ賞」、1993年に上方お笑い大賞「審査員特別賞」を受賞(本来なら大賞であったのだが、たかじん自身が「歌手が大賞を受賞するのは芸人に対してシャレにならない」という理由で辞退し、審査員特別賞に落ち着いた経緯がある)。お笑いの賞と歌の賞と両方獲得しているのはたかじんただ一人である。

もともとトークには魅力があったが、一時期桂春蝶や「MBSヤングタウン」で共演した桂三枝のもとに付いたり、さまざまな名だたる上方芸人と交流を深め、喋りや遊びの勉強をしていた事がある(祇園の弾き語り時代には、六代目笑福亭松鶴や藤山寛美にお茶屋遊びを教えられ、また、桂米朝には大阪宗右衛門町の南地大和屋で遊びの基本を学んだ)。そのため、芸人以上に芸人としての意識が強く、若手芸人に対して厳しい一面もある。歌手でこれほど芸人とのつながりが深いのはたかじんただ一人である。

1994年にアサヒビールの関西限定ビール「生一丁」のCMに出演。「あけまっせ」「これやがな」の台詞がうけ、同製品が爆発的なヒットとなる。

2003年「やっぱ好きやねん」がバックに流れ川藤幸三がCM出演した、「大阪ソウルバラード」(全15曲のうち5曲がたかじんの歌が収録されている「やっぱ好きやねん」「生まれる前から好きやった」「なめとんか」「大阪恋物語」「あんた」)が阪神タイガースの18年ぶりの優勝に猛進しているのも相まって関西で15万枚の売り上げを記録し、改めて関西での歌手「たかじん」の存在を大きさを示した。

バツイチで再婚。あまりプライベートなことは語らないが、20代前半で別れた前妻(故人)との間に一女がいる。現在、再婚した妻もたかじんの傍若無人ぶりに耐え切れず失踪する。




たかじんバンド
初期の「フライング・リバティー」<Pf/Key:土井淳(バンマス) G:近藤芳弘 B:奥田勝彦(後に細木隆広→小笹了水) Dr:五十川清(後に浅川ジュン)の4人構成で、後に、Key:森俊之(後に鈴木賢) Sax/Flute:河田健(後にエレファント酒井)らが参加>に始まり、現在の「アンビエンス」<1994年春にファンクラブの募集でバンド名が決定した。正式には英語のambienceの発音記号がバンド名。Pf/Key:土井淳(バンマス) Key:鈴木賢 G:近藤芳弘 B:小笹了水(2002年代役で福栄宏之が参加) Dr:浅川ジュン Sax/Flute:小梶博司(2001年から横山貴生)の6人に1995年秋~1999年に当時たかじんの弟子であった佐々木清次Ag/Choが参加。>また、かつては、尾崎亜美(ピアノ)や河島英五(ギター)らが参加していた。 


ナニワの視聴率男
歌手としての魅力をもつ一方、放送禁止用語や放送局の出入り禁止や名誉毀損も恐れないストレートな発言でテレビ・ラジオのパーソナリティーとしても、関西では不動の地位を誇り、すべてのレギュラー番組が高視聴率を誇ることから「浪速(関西)の視聴率男」と呼ばれている。本人は自著の中で「僕を視聴率男と呼ばないで」と記しているが、これまでに数多くの番組をヒットさせてきた。現在もその関西における高視聴率ぶりは変わらない。

番組中の発言量(語数)と放送禁止用語の量は、他の追随を許さず、ダントツで日本一の量を誇る(普段の収録でもあまりの放送禁止用語の多さに編集が追いつかず、ついには放送時間が足りなくなることもしばしば)。この背景には、在阪各局の制作費が非常に少ないためVTRなどの予算が出ないことと、たかじん自身がワンマンであることと、さらに、たかじんが喋っているときは瞬間視聴率が上がり、たかじんが喋らなくなると瞬間視聴率が下がるという事実がある(特に、たかじんが放送禁止用語を連発しているときは、瞬間視聴率が上がる傾向にある)。これは、たかじんの全レギュラー番組で現実に検証されている事柄である。そのため、たかじんが機関銃の如く喋らざるを得なくなるのである。

デビュー以降、数々のラジオのレギュラー番組を持ったが、1985年にABCラジオの昼ワイド番組『聞けば効くほどやしきたかじん』で初めて帯番組を務める。この時、金曜日に円広志と行っていた大阪駅ビルのサテライトスタジオ『ABCエキスタ』での公開生放送で注目を浴びる。「音曲漫才(ちゃうのんブルース)」や生ライヴ、さらにはCMを無視した1時間以上に亘る内輪話が大人気となり、観客がスタジオに殺到。その人気ぶりを写真週刊誌『フライデー』が取材。「昼休みにサラリーマンがわざわざ営業車に乗ってまで聴くほどのお化け番組」と紹介された。この番組がたかじんにとって、上昇気流のきっかけとなる。

この余勢を駆って、朝日放送ではラジオ・テレビの他のレギュラー番組にも進出。「聞けば」は1987年10月に終了するが、その直後にラジオ「サタデーたかじん ~午後はイッキに~」のパーソナリティー、さらに夕方のテレビ報道番組「ニュース・ウェーブ」のコメンテーターを務める。


新しいTV番組スタイルを築く
1988年、ABCテレビ午後のワイドショー『晴れ時々たかじん』に出演(1988年~1992年)、彼の人気を決定づけた。この時に既存の主婦向けのワイドショーとは、一線を画した企画を自ら提案。政治・経済などにも注目し(月曜:政治経済 火曜:ミニドキュメント 水曜:テレビ大人電話相談室 木曜:対談 金曜:輝け花の金妻たち)新しいスタイルを確立する。結果、昼の2時台にもかかわらず番組当初2%にも満たなかった視聴率が平均13%を超える(最高は20%を超える)にまでなった。たかじん自身が歌うオープニングテーマ「晴れときどきTAKAJIN(なめとんかC/W)」がこの番組の名物となる。この番組で指し棒を使った彼の「パネル芸」という新しいスタイルを確立させる。特に人気があった、政治・経済では「なめとったらあかんど」「文句あるんやったらかかってこい」という台詞が口癖のようになり、政治家(役人・官僚)に対しては生放送にもかかわらず放送禁止用語や名誉毀損ものの容赦ない毒舌を浴びせかけ、指し棒を折りまくる傾向が強かった。このパネルと指し棒を使ったスタイルは以後、雨後の筍の如く様々な番組で見られるようになる。

1時間番組の収録で指し棒を最低3本は折っており(常に数十本のストックを備えている)、今まで指し棒の折った本数は少なくとも1万本を超え、消費量は間違いなく日本一を誇る。

ちなみに、たかじんはこの『晴れ時々たかじん』を3回休んだ事があるらしく、理由は全て二日酔い(午前11時頃まで飲んでいた為)である。スタッフには当然「二日酔いだから休む」とは言えない為、高熱が出たや気管支炎など仮病を使ってその日の生放送を欠席したらしい。

1992年、当時関西ローカルで放送されていた、土曜日深夜の『たかじんnoばぁ~』(讀賣テレビ放送)にビートたけしがゲスト出演したことで、共演のトミーズ雅と共に彼の存在が全国で注目を浴びるようになる。この番組はセットがバーであり、ゲストと共に酒を飲んでヘベレケの状態で、編集(「ガオー」という効果音)無しでは放送できないような発言、暴言を繰り返したが、そのトークの面白さが評判を呼び、キー局の日本テレビでも放送されるようになる。また、たかじんがカラオケやギターの弾き語りで歌うこともあった。この「ガオー」がこの番組の名物となる。放送時間が深夜12~1時台を過ぎているにもかかわらず、最高視聴率が25%以上を超え(関西地区)、読売テレビ史上深夜番組の最高視聴率記録を更新する快挙も達成した。

1992年10月より、東京の放送局でテレビ・ラジオ合わせて3本のレギュラー番組を持つも、東京に嫌気が差し半年後に降板。関西ローカルで数本のレギュラーを持ちながら、コンサート活動を続けている。また1994年10月から2年半の間は大阪発全国ネット番組『たかじん・ナオコのシャベタリーノ』(毎日放送)の司会を務めた。1998年3月の『たかじんnoどォ!』(よみうりテレビ)の打ち切り以降、たかじんのレギュラー番組は関東地区では独立UHF局を除き放送されていない。

「浪速(関西)の視聴率男」と呼ばれている一方、様々な番組スタイルのパイオニア的存在でもある(指し棒を使ったパネル芸やバー形式のトーク番組など、枚挙に暇がなく)。そのため、たかじんがあみだしたスタイル(アイデア)や企画をそのまま他番組が真似ることも多々ある(特に東京キー局に多い)。

テレビでもなかなか歌わないことで有名だが、2004年12月、フジテレビ、細木数子の『幸せって何だっけ~カズカズの宝話~』に出演。東京キー局の番組で23年ぶり(ちなみに、23年前に出演したのはTBSの「ホリデー」で「Too Young」「Fly me to the moon」「It's a sin to tell a lie」といったジャズをサングラスにパンチパーマのタキシード姿で熱唱していた)に歌を歌った(曲目は『東京』『やっぱ好きやねん』)。「東京」を歌っている時、極度の緊張から、マイクを持つ手が異様に震えており(ライブではいつものことである)、その後のトークで細木に突っ込まれていた。その後、レギュラー出演者の一人、ネプチューンの堀内健に「お台場とか(に来るのは)初めてですか?」の問いに「初めて」と答え、更に「海あんねんね、前に」と照れながら答えた(この出演も、たかじん本人は出演したくなかったが、細木の執拗なまでの電話攻勢で銀座に渋々出向き、そこで細木とフジテレビの首脳陣が待ち構えており、細木の仕掛けた接待の罠にかかり、「あかん、罠にはめられた。もう断られへん」と悟り渋々出演を承諾した経緯がある)。

司会を務める『たかじん胸いっぱい』(関西テレビ)と『たかじんONEMAN』(毎日放送)では、テレビ各局の番組改編期になると、新番組の平均視聴率を予想するのが恒例となっている。また、この視聴率予想の的中率が異常とも言えるくらい高い。これも「晴れ時々たかじん」の司会就任の頃、自宅に複数のビデオデッキ(最近では1テラ【1Gの1000倍】のHDDデッキを6台購入したと「たかじんのそこまで言って委員会」で述べている)を買い求めて、テレビ番組の動向をたとえたかじん本人が嫌いな番組であってもチェックしていて以来続いている、彼のネタのひとつである。


「アンチ東京」「アンチNHK」主義者
関西原理主義者で大の東京嫌いでも知られ、島田紳助や明石家さんまと反対に、めったなことがない限り東京(関東)では仕事をしないため、ほとんどがローカル番組で全国ネットの番組での出演は年に1回あるかないかである(2006年現在、強いて出演するとしたら、紳助やさんま司会のバラエティ番組程度である)。加えて昨今は生放送番組にはあまり出演せず『すてきな出逢い いい朝8時』2001年9月22日放送のゲスト出演は珍しいと言える。しかし最近では『ムハハnoたかじん』はニュース性の高い番組のため、時折生放送を行う。

かつて『たかじん胸いっぱい』(関西テレビ)の全国ネット化をキー局のフジテレビから打診され、『たかじんのそこまで言って委員会』(読売テレビ)はキー局の日本テレビからゴールデンタイムでの全国ネット化を熱望されたが、たかじん自身や出演者からの猛反対で在京キー局(関東)ではネットされていない(すなわち全国ネットではない)現状である(『たかじん胸いっぱい』に関しては、2006年現在では神奈川県のtvk、埼玉県のテレ玉、群馬テレビといった独立UHF局でネットされ、アンテナを立てたりケーブルテレビなどを介して東京でも観られる場合がある)。

そんな極端なまでのたかじんのアンチ東京主義の背景には、1992年10月より半年間、たかじんが東京の放送局でテレビ・ラジオ合わせて3本のレギュラー番組を持った事が決定的な理由とされる(それ以前にも東京のテレビに出演した際に、利権やしがらみのために制約が多いことやすぐ掌をかえす体質や極端に横柄な態度に激怒し収録途中で幾度も帰っている)。この時たかじんは、自分のやり方を否定する東京キー局のやり方が気に入らず、プロデューサーやディレクターを殴り、時には土下座させ、ついには生本番中に帰るなどのトラブルを起こした(味の素事件)。

そして、あまりのストレスからノイローゼになり、東京のラジオの生本番中に倒れて救急車で運ばれるということもあった。その時の苦い経験から来る遺恨が未だに残っており、そのため、在京キー局に対して異常なまでの恨みやアレルギーを持っている。そのため、たかじんが出演する番組は関東の独立UHF局の一部でしか放送されていないのもあって首都圏での知名度は余り無い。最近は北海道、東北、中国、九州等でもたかじんの番組が放送されており、特に中京圏では現在出演中の番組のうちの3番組を放送している。そのため関東以外での知名度は上がっている。加えて関東地方ではたかじんが在京キー局に番組を流させないため、関東(特に東京)ではたかじんは死んだのではないかと死亡説が流れた事さえもある。現在でも、普段のレギュラー番組で東京キー局や東京(関東)に関するものを放送禁止用語が飛び交う内容で容赦なく批判している。関西色を前面に出し、毒舌を連発するたかじんのやり方は東京(関東)の人間には敬遠され受け入れられないため、たかじん自身にとって東京(関東)との相性は水と油である。特にここ近年は以前より東京嫌いがひどくなくなってきているようで、2005年1月1日付朝日新聞東京本社版別刷り特集にインタビューが掲載されたこともある。

また、大のNHK嫌いでも有名で、この背景には、歌手デビュー時のオーディションでNHK側のあまりに横柄な態度にたかじんが噛み付いたために不合格になったことがあり、それを皮切りに「役人・官僚体質」「中身のない番組を垂れ流して受信料を取る」などもあり、それゆえにNHKに対して異常なまでの憎悪を抱くことになる。実際、普段のレギュラー番組でも「腐ったヤクザな放送局」「アホの集まり」などと非難したり、放送禁止用語を連発することも頻繁にある。「紅白歌合戦」に関しては年末年始の特番で特大パネルを用いて徹底的に酷評するのは定番で、NHK側も「たかじんの出演が紅白のイメージに合わない」と、たかじんの紅白出場の可能性を完全否定している。さらに、NHK大阪ホールの杮落としの歌番組の出演依頼されるも「誰がNHKなんかに出るか」と即座に断った唯一の人物でもある。

ほとんど関西でしか仕事をしていないとはいえ影響力については全国クラスである(地元関西においては、その影響力は多大で、在阪各局の首脳陣と深いつながりがあり、自分の番組以外でもキャスティングや企画・編成にも関わる事がある。中でも宮根誠司がフリーになったのも、たかじんがABC社長の西村嘉郎に直談判をした事がきっかけである。また一部の出演者からは同じく影響力が大きいみのもんたと同レベルとも言われている)。その毒舌や短気な性格は、上岡龍太郎と横山やすしに似ている故に、ついには裁判沙汰になるというケースも生じている。

PR

2007/08/30 13:06 | 芸能人

<<混浴入浴マナー | HOME | 京野菜>>
忍者ブログ[PR]