忍者ブログ
[PR]
×

[PR]上記の広告は3ヶ月以上新規記事投稿のないブログに表示されています。新しい記事を書く事で広告が消えます。


2024/03/29 04:07 |
モーツァルトの死と死因
1791年、モーツァルトは『皇帝ティートの慈悲』、『魔笛』、クラリネット協奏曲と大作を次々に書き上げ、精力的に仕事をこなしていたが、レクイエムに取り組んでいる最中の11月20日から突然病床に伏し、わずか2週間後の12月5日午前0時55分に死亡した。死亡時には全身が腫れ上がっていたという。ウィーン市の公式記録では「急性粟粒疹熱」とされる。実際の死因は「リューマチ熱」であったと考えられている。

モーツァルトは病に伏す前に、妻コンスタンツェに「自分は毒を盛られた」と語ったことがある。また、死の後にウィーンの新聞は「毒殺されたのではないか」と報じた。しかし、当時モーツァルトの周囲の人間で毒殺を信じていていた者はいない。1820年ごろになって、ウィーンでは「サリエリがモーツァルトを毒殺した」という噂が流行した。老いたサリエリは、1825年に死ぬまでこの噂に悩まされることとなる。この噂をアイデアとして、『モーツァルトとサリエリ』や『アマデウス』などの作品が作られた。 その後、サリエリが毒殺したと言う設定で映画が作られた。

葬儀と墓
葬儀の日取りは「12月6日説」と「12月7日説」の2つがある。 最低料金(あくまで庶民扱いであった)の葬儀後、遺体はウィーン郊外のセント・マルクス墓地の共同墓穴に埋葬された。誰も霊柩車に同行せず、墓碑もないため、実際に埋葬された位置は不明である。

没後100年の1891年、中央墓地(ベートーヴェン、シューベルト、ブラームスら著名音楽家が多数眠る墓地)に当時セント・マルクス墓地にあった「モーツァルトの墓とされるもの」が記念碑として移動した際、またもや位置が分からなくなってしまった。現在セント・マルクス墓地にある「モーツァルトの墓とされるもの」は、移転後に墓地の看守が打ち捨てられた他人の墓の一部などを拾い集めて、適当な場所に適当に作ったものである。もちろん、「墓とされるもの」の下に骨があるわけではない。

なお、セント・マルクス墓地は1874年にウィーンの市街改造の一環で閉鎖されており、現在は墓地公園となっている。ヨハン・シュトラウス2世の弟、ヨーゼフ・シュトラウスも最初はここに埋葬されていた(1909年に中央墓地に移設)。

現在、国際モーツァルテウム財団(ザルツブルグ)にはモーツァルトのものとされる頭蓋骨が保管されている。頭蓋骨に記された由来によれば、埋葬後10年目にモーツァルトを埋葬した墓地は再利用のため整理され遺骨は散逸してしまったという。この時、頭蓋骨だけが保管され、以来、複数の所有者の手を経て1902年に同財団によって収蔵された。遺骨の真贋については、その存在が知られた当初から否定的な見方が多いが、2004年、ウィーン医科大学の研究チームがモーツァルトの父レオポルドほか親族の遺骨の発掘許可を得て、問題の頭蓋骨とのDNA鑑定を行うと発表した。鑑定結果はモーツァルト生誕250年目の2006年1月8日にオーストリア国営放送のドキュメンタリー番組として公表された。これによると、調査の試料となったのは頭蓋骨の2本の歯と、モーツァルト一族の墓地から発掘した伯母と姪のものとされる遺骨から採取されたDNAであった。検査の結果、頭蓋骨は伯母、姪の遺骨のいずれとも縁戚関係を認められなかったが、伯母と姪とされる遺骨同士もまた縁戚関係にないことが判明し、遺骨をめぐる謎は解決されなかった。

モーツァルト大全集
PR

2007/09/08 14:36 | 未分類

<<いきなり団子 | HOME | ロレンツ国立公園>>
忍者ブログ[PR]