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2018/05/27 00:17 |
東京の「そば」志向
立ち食い店を中心に日本全国には蕎麦とうどんを両方提供する店は多いが、東京では一般にこの様な店を「蕎麦屋」と呼ぶ。

古く江戸では、うどんも盛んに食べられていた。 しかし江戸時代中期以降、江戸での蕎麦切り流行に伴って、うどんを軽んずる傾向が生じたという。江戸でうどんよりも蕎麦が主流となった背景には、ビタミンB1を多く含む蕎麦を食べることで、当時江戸では、「江戸わずらい」と呼ばれ白米を多食する人に見られた脚気が防止できたことにもよる。

蕎麦とうどんの抗争を酒呑童子退治になぞらえた安永期の珍品黄表紙『化物大江山』(恋川春町作)は、当時の江戸人の蕎麦・うどんへの価値観の一面を描いていて、意外な資料価値がある。源頼光役は蕎麦、悪役の酒呑童子はうどんである。なぜか、「ひもかわうどん」だけは蕎麦側についており、蕎麦一色だった江戸でも例外的に人気があったようだ。

以後、江戸→東京では、蕎麦を手繰ることに一種のステータスさえ生じるようになり、「夕方早くに蕎麦屋で独り、天ざる(天ぷら付のざる蕎麦)肴に酒を飲む」ことが、スノッブ(俗物)な趣味として横行するまでに至る。

夏目漱石の『吾輩は猫である』(1905年)でも、粋人を気取るハイカラ遊民・迷亭が「うどんは馬子の喰うもんだ」とうそぶき、上がり込んだ苦沙弥先生宅で勝手に蕎麦の出前を取って一人で喰う描写がある。蕎麦食いの講釈をとうとうと垂れ、薬味のわさびの辛さに涙しつつやせ我慢で耐えて蕎麦を呑み込む迷亭のスノッブぶりに比べ、胃弱症の苦沙弥先生が「うどん好き」であることで、うどんのイメージは相対的に冴えないものとなる。

また、同じく漱石作品の『坊っちゃん』(1906年)においても、江戸っ子の主人公である“坊っちゃん”が松山くんだりで天ぷら蕎麦を注文するシーンが見られる。

漱石が江戸文化の影響を色濃く受けていた事を想起すれば、『猫』での描写は、江戸・東京におけるある種のステレオタイプにのっとったものだったろう。その観念は容易に抜き難く、現在でも東京では、うどんより蕎麦の方が優勢なままである。蕎麦を食べる前提で作られた濃厚な出汁をうどんに用いるのも、これに起因すると見られる。

江戸っ子の蕎麦における「美学」とされるものを示すと以下のようになる(多分に誇張がある)。

うどんは食わない。江戸ではうどんといえば鍋焼きうどんが一般的で、これは風邪引きのときに食べるものとされた。
種物は邪道。「かけ」か「もり」。天麩羅などは無粋のきわみ。
もりを食うときは蕎麦の先だけをつゆに浸す。蕎麦の風味を台無しにしないためと、江戸前のつゆは辛いせいであると言われる。
口に入れたらあまり噛まずに飲みこむ。噛みすぎると風味がうすれるからだという。
腹いっぱいになるまで蕎麦を食うのは野暮。あくまで虫やしないである。
大きな丼にたっぷりと蕎麦が入っているのは野暮。少なければ二杯食べるのが粋である。
箸は割箸。塗箸は好まれなかった。
酒を飲むのでなければ、さっさと食ってひきあげるのが粋とされた。したがって注文してから出てくるまで時間がかかる店は論外。
蕎麦は「手繰る」と言うのが一般的であった。(前出)
江戸・東京市中では、そばが圧倒的に優勢だったとはいえ、関東地方の農業地帯では小麦栽培が広く行われ、江戸・東京以外の地域ではうどんも好まれた。武蔵野台地(武蔵野うどん)をはじめとして、うどん優勢だった地域も多い。現在でも多摩地区・埼玉県西部および北部・群馬県などではうどん・そば共によく食べられている。

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2007/09/03 13:13 | 日記

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