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2018/05/27 00:28 |
フョードル・ミハイロビッチ・ドストエフスキー
モスクワの貧民救済病院の医師の次男として生まれ、15歳までモスクワの生家で暮らした。作家時代を送ったペテルブルクは物語の舞台として数々の作品に登場する。

1846年、処女作『貧しき人々』を批評家ベリンスキーに激賞され、華々しく作家デビューを果たす。デビュー前のドストエフスキーから直接作品を渡されて読んだ詩人ネクラーソフが、感動のあまり夜中にドストエフスキー宅を訪れたという逸話は有名である。その後空想的社会主義サークルのサークル員となったため、1849年に官憲に逮捕される。死刑判決を受けるも、処刑間際で特赦が与えられ、1854年までシベリアで服役。この時の体験に基づいて後に『死の家の記録』を著す。 刑期終了後、兵士として勤務した後1858年にペテルブルクに帰還。この間に理想主義者的な社会主義者からキリスト教的人道主義者へと思想的変化があったとされる。その後『罪と罰』、『カラマーゾフの兄弟』などの長編を発表。短編も少なからず残されている。 自身の賭博好きな性質、シベリア流刑時代に悪化した持病のてんかん(側頭葉てんかんの一種と思われる。恍惚感をともなう珍しいタイプのてんかん)などが創作に強い影響を与えており、これらは重要な要素としてしばしば作品中に登場する。

また、小説以外の著作として『作家の日記』がある。これはいわゆる日記ではなく、雑誌『市民』でドストエフスキーが担当した文芸欄(のちに個人雑誌として独立)であり、文芸時評(トルストイ『アンナ・カレーニナ』を絶賛)、政治・社会評論、エッセイ、短編小説、講演原稿(プーシキン論)、宗教論(熱狂的なロシアメシアニズムを唱えた)などを含み、後年ドストエフスキー研究の貴重な文献として参照されることとなった。

1881年1月28日に家族に看取られながら60歳で亡くなる。死去するまでに残した著作は全部で35篇である。

ドストエフスキーが日本文学に与えた影響は計り知れない。ドストエフスキー熱は現在でも冷めることなく、「ドストエーフスキイの会」(木下豊房代表)、「ドストエーフスキイ全作品を読む会」などがある。

ドストエフスキーの末裔、ドミトリー氏は現在もサンクト・ペテルブルグで活躍中。関東(早稲田大学)、関西(天理大学)で2004年に来日記念講演を行った。

著作
1841年『マリア・ステュアルト』、『ボリス・ゴドゥノフ』(いずれも現存せず)
1846年『貧しき人びと』、『分身』、『プロハルチン氏』、『剃り落とされた頬髯』、『廃止された役所の話』(後の二作品は現存せず)、
1847年『九通の手紙にもられた小説』、『ペテルブルグ年代記』、『家主の妻』
1848年『他人の妻』、『弱い心』、『ポルズンコフ』、『世なれた男の話』(のちに改稿の上『正直な泥棒』と改題)、『クリスマス・ツリーと結婚式』、『白夜』、『嫉妬ぶかい夫』(のちに『他人の妻』と合わせて『他人の妻とベッドの下の夫』と改題)
1849年『ネートチカ・ネズワーノワ』
1857年『小英雄』
1859年『伯父様の夢』、『ステパンチコヴォ村とその住人』いづれも笑劇的な滑稽小説であるが、不当に無視されている。
1969年『死の家の記録』
1861年『虐げられた人びと』、『ペテルブルグの夢―詩と散文』
1862年『いまわしい話』
1863年『冬に記す夏の印象』
1864年『地下室の手記』
1865年『鰐』(未完)
1866年『罪と罰』、『賭博者』
1868年『白痴』
1869年『大いなる罪人の生涯』(創作ノート)
1870年『永遠の夫』
1871年『悪霊』
1873年『ボボーク』*
1875年『未成年』
1876年『キリストのもみの木祭りに行った男の子』*、『百姓マレイ』*、『百歳の老婆』*、『やさしい女』*
1877年『おかしな人間の夢』*
1880年『カラマーゾフの兄弟』
題名のあとに「*」をつけてあるものは『作家の日記』に収録された短編である。

一般に『罪と罰』、『白痴』、『悪霊』、『未成年』、『カラマーゾフの兄弟』が、ドストエフスキーの5大作品と呼ばれている

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2007/08/23 21:51 | 日記

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