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2024/03/28 23:12 |
F3000のジンクス
国際F3000のチャンピオンになったドライバーは、F1ではチャンピオンになれないというジンクスがあり、レースファンの間ではしばしば話題となる。

この話は、ヨーロッパF2時代からあり、事実としてヨーロッパF2、国際F3000ともに、そのチャンピオンドライバーはまだ1人もF1世界チャンピオンになっていない。国際F3000チャンピオンの中からはF1における優勝ドライバーもなかなか現れず、チャンピオンを獲得したドライバーで初めてF1で優勝を果たしたのは1995年カナダGPにおけるジャン・アレジである。

国際F3000でチャンピオンを逃したものの、F1でチャンピオンを獲得した者としてはデイモン・ヒルとフェルナンド・アロンソの二人がいる。

全日本F3000選手権
日本でもかつて1987年~1995年まで全日本F3000選手権として開催されていた。

国際F3000より2年遅れて1987年に全日本F2に取って代わった。JAF(日本自動車連盟)は、1987年の全日本F2選手権にF3000マシンの混走を認めたが、いざ蓋を開けると、参加車両が全てF3000車両であり、統括者と参加者の思惑が違った形でシーズンが開幕された、厳密に言うと1987年に全日本F3000選手権は存在せず、全日本F2もチャンピオン該当者なしという形となる。

翌1988年に正式に全日本F3000選手権として開催されるようになった。エンジンは、非過給3000ccのV型8気筒まで、9000回転以上回らないようにリミッター装着が義務付けられ、約450馬力前後を発生(最終的には約500馬力まで発生)。 参加メーカーは、無限、フォード・コスワース、ジャッドなどでいずれもV型8気筒を採用。シャシーは、マーチ、ローラ、ラルト、レイナードといったヨーロッパの量産コンストラクターが主流で、日本の童夢、ムーンクラフトも参戦し、1994年には純国産シャシーでタイトルを獲得している。タイヤは、ワンメイクを採用せず、ブリヂストン、ダンロップ、ヨコハマタイヤの3メーカーが参加、その為グリップ力が国際F3000より強力でよりF1に近いカテゴリーとなる。

全日本F3000は1980年代後半のF1ブームとバブルの好景気が重なった事と、若手外国人ドライバーの多数参戦によって驚異的な充実振りを見せ、片山右京やエディ・アーバイン、ハインツ=ハラルト・フレンツェンのようにF1にステップアップしていったドライバーも多数生まれた。しかし、バブル景気が崩壊し、好景気時の地固めを怠ったツケが回り、次第に参加台数の減少、観客の減少につながって尻すぼみになっていった。また、国際F3000がワンメイクになったことで、独自性を見出す事を進める形で、1995年でF3000を廃止。フォーミュラ・ニッポンに移行する事となった

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2007/08/29 22:31 |

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