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2024/05/19 07:58 |
織田 信長の人物像
西洋伝来の物を好み、正親町天皇を招いて開催された『馬揃え』にビロードのマントや西洋式の帽子を着用して参加した。晩年は戦場に赴くときも、南蛮鎧を身に付けることが常だったと言われている。ヴァリニャーノの使用人であった黒人に強い興味を示し、身元を譲り受け彌介(やすけ)と名付け側近にしている。
イエズス会の献上した地球儀、時計、地図などをよく理解したと言われる(当時はまだこの世界が丸い地球という物体であることを知っている日本人はいなかったと言われ、地球儀が献上された際も家臣の誰もがその説明を理解出来なかったが、信長だけは「理にかなっている」と言って即座に理解したという)。好奇心が強く、鉄砲があまり一般的でない頃から火縄銃を用いていたことは有名。苛烈な性格で知られる信長であるが、ルイス・フロイスには普通の人物に見えたようだ。
青年の頃は女性とみまがう美男子であった。他の戦国武将と同様に男色も嗜み、小姓の前田利家、堀秀政、後には森蘭丸ら多くの稚児と関係を持ったと伝わる。また、側室は権力の強大さにくらべて少ないが数多くの子をなしている。
囲碁、幸若舞を好み、猿楽(能)を嫌った。『敦盛』の一節「人間五十年 下天のうちをくらぶれば 夢幻の如くなり ひとたび生を享け 滅せぬもののあるべきか」という部分は、信長の人生観と合致していたのか、特に信長のお気に入りで、よく舞ったと言われている。大の相撲好きで、安土城などで大規模な上覧相撲をたびたび開催した。水泳、鷹狩、馬術、弓道などの身体鍛錬、武術鍛錬に繋がるものを趣味としていた。
ルイス・フロイスは信長の人物像を「長身、痩躯で、ひげは少なく、声はかん高い。常に武技を好み粗野」と評している。
肖像画
愛知県豊田市の長興寺にある。このほかヨーロッパから来た画家によって写実的な肖像画が描かれていたともいわれている(天童市三宝寺蔵)が、第二次世界大戦時の空襲により消失した。現存する写真によれば、太く力強い眉毛、大きく鋭い目、鼻筋の通った高い鼻、引き締まった口、面長で鋭い輪郭、男らしくたくわえられたヒゲなど、現代想像される信長像に近いものがある。ただし、この肖像画に関しては史料的裏付けが無く、明治時代に行われた「忠臣」の顕彰事業時に作成されたとも言われている。

対人評価
信長は、人間を巨視的に捉えた社会を指導する技量には優れていたが、ごく周囲の人間の理解を得ようとする努力には関心が無かったらしい。周りに自らの政治姿勢を理解させる努力が信長に足りなかったと言えるかもしれない。このためアスペルガー症候群ではないかと言われることがある。
本能寺の変が起きた原因については、軍事・政治両面においても当時において前代未聞のことを行い、また延暦寺の焼き討ち・幕府を滅亡させるなど、当時では大悪人といってもいいことをも行っていた信長は、常識人の明智光秀からすると規格外すぎてついていけなかったのではないかという説がある。
信長を実際に裏切った者の多くは信長が上洛してからの、いわば外様の家臣が大半であり、尾張・美濃時代から仕えていた譜代の家臣の中で、信長を裏切った者はほとんど見受けられないという側面もある。また、戦国時代に寝返りや裏切りは日常茶飯事であったため、必ずしも信長の家臣に対する対応だけを問題にしてはいけない。
天正8年(1580年)、信長は老臣である林秀貞を「25年前に自分に逆らい弟の信行についた」、佐久間信盛を「大して成果を出していない」という理由で追放。信長の家臣全員に大きな衝撃を与えた。秀貞の件はただの言いがかりでしかない。信盛の件も攻略目標が堅城で名高い石山本願寺であり、信盛の軍団だけではいかんともしがたいものがあった。(ただ、信盛にも何も落ち度がないわけでもなかった。)美濃三人衆のひとりとして信長の美濃統一に貢献した安藤守就は、武田氏への内通と言いがかりをつけられ追放、丹羽氏勝は秀貞と同じく25年前の逆心や、武田家への内通疑惑を理由に追放された。老臣重臣が唐突に追放されていくのを目の当たりにし「次は自分の番では」と織田家臣団は疑心暗鬼に陥った。丹波近江領の突然の召し上げという理不尽な沙汰を下された光秀が、「次は自分だ」と切羽詰った上で謀反に及んだという説も根強い。
信長存命中に彼の側近の中に軍師・参謀的な人物は全く見受けられず、信長の命令を遂行するために必要な堀秀政、森蘭丸というような優秀な秘書官だけが登用されたという例がある。竹中半兵衛や黒田如水らは、信長存命中は名目上は信長の家臣だったが、実際には秀吉の軍師として仕えていたのが、その証左といえる。半兵衛自身は信長を性格的に嫌っていたようだが、如水の場合は信長の実力を高く認めながらも、信長に仕えても軍師として活躍の場が与えられないとして、あえてその下で台頭していた秀吉を選んだのだとされているのが有力である。ここまで成功・改革した人物にそういったものがいないケースはそう多くない。だが信長自身が他人の意見に従う事を好まない独裁者であったことが、周囲の人物が信長の意図を読み取れずについていけなくなっていった要因のひとつであるともいわれている。ただ急速に改革を遂行したい時には独裁者方式は有効な手法であり、意見の分かれるところでもある。

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2007/08/31 13:43 | 未分類

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