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2024/04/26 04:22 |
宮本 武蔵の生涯
寛永20年(1643年)に60歳となり、天正12年(1584年)に播磨国(現在の兵庫県)に生まれたと考えられるが、江戸後期にまとめられた小倉宮本家系図(弘化3年1846以前に養子伊織の子孫作成)並びに武蔵を宮本氏歴代年譜の筆頭に置く『宮本氏正統記』には天正10年(1582年)壬午の生まれ、正保2年(1645)享年64と記されていることから、天正10年生誕説を主張する研究者もいる。また、江戸後期の地誌『東作誌』が主張する美作国(現在の岡山県)生誕説は吉川英治の小説『宮本武蔵』に採用され有名である。

武蔵の養子伊織が武蔵の死後9年目の承応3年(1654年)に記した小倉碑文によると父は兵法家の新免無二である。同時代に活躍した當理流の宮本無二斎藤原一真と同一人物とされる。武蔵の養子伊織による『泊神社棟札』にある「有作州之顕氏神免者天正之間無嗣而卒于筑前秋月城受遺承家曰武蔵掾玄信」という記述から、天正年間に秋月城で亡くなった新免某を無二とし、武蔵は無二の養子となったと主張する研究者が多いが、新免無二は明らかに天正年間以後も生存している。また、江戸後期にまとめられた小倉宮本家系図の「新免無二之助の養子となる《為新免無二之助養子》」の記述を根拠に無二は養父であると主張する研究者もいる。美作国(現在の岡山県)の名家であった新免姓は無二の代から用いていたと伝えられる。小倉宮本系図には伊織の祖父田原家貞の次男とされているが、伊織自身による『泊神社棟札』や小倉碑文にはそのことは記されていない。また武蔵や伊織に関する多くの記事を載せている江戸中期に平野庸脩が作成した地誌『播磨鑑』にも武蔵が田原家の出であるとはまったく触れられていない。なお、『東作誌』等で、武蔵の父親を「平田武仁」とする説が有名であるが、「平田武仁」は武蔵の誕生以前に死んでいる。また、それらの史料では、他の武蔵関係の記述も他史料との整合性が全く無く、武蔵に関しての史料価値はほとんど否定されている。

『五輪書』には13歳で初めての勝負を新当流の有馬喜兵衛と決闘して以来29歳までに60余回の試合を行い、すべてに勝利したと記述される。

慶長5年(1600年)の関ヶ原の戦いでは従来、父無二の旧主君であった新免氏が宇喜多秀家配下であったことからそれに従って西軍に参加したと言われてきたが、父の新免無二が関ヶ原の戦い以前に東軍の黒田家に仕官していたことを証明する黒田家の文書(『慶長7年・同9年黒田藩分限帖』)が存在することから、父と共に当時豊前を領していた黒田如水黒田孝高に従い東軍として九州で戦った可能性が高い。黒田家の二天一流道統に伝わる武蔵の伝記『武州傳来記』には、黒田如水の軍に属して九州豊後の石垣原(今の別府)で西軍大友義統軍との合戦に出陣し、出陣前の逸話や、冨来城攻めでの奮戦振りの物語が記されている。

武蔵21歳の時に京に上り兵法家吉岡一門と戦ったことは、文芸作品等でさまざまな脚色がされ有名である。

現在の研究では年月は特定できないが慶長年間に長門国(現在の山口県)の舟島(関門海峡に浮かぶ巌流島)で、巌流なる兵法者と戦った。古くは演劇・講談、現在は小説・映画・漫画等で有名な舟島(巌流島)での戦いは、『二天記』に書かれているような御前試合ではなく、『沼田家記』などに書かれているように、父無二または武蔵本人の門人と巌流の門人との争いから生じた私闘であると考えられる。また、相手の巌流は、佐々木小次郎という名で世間に知られるが、世間で紹介されている説明のほぼすべてが、文芸等で作られてきた虚像、または虚像をもとに考察されたものであり、その姓名・生涯等は一切不明である。

大坂の役(慶長19年(1614年) - 元和元年(1615年))では従来、豊臣方として参戦したと通説の如く語られるが、根拠のない俗説である。実際は、水野勝成の客将として徳川方に参陣し、勝成嫡子勝重(のち水野勝俊)付で活躍したことが数々の資料から裏付けられている。

その後、姫路城主本多忠刻と交渉を持ちながら活躍。明石では町割(都市計画)を行い、姫路・明石等の城や寺院の作庭を行っている。『海上物語』ではこの時期、後に神道夢想流杖術を創始した夢想権之助と明石で試合したことが伝えられている。(同記事のある『二天記』ではこの試合は江戸でのこととされるが、この記事は『二天記』の原史料である『武公伝』には記載されていない。)

元和の初めの頃、水野家臣中川志摩助の三男三木之助を養子とし、姫路城主本多忠刻に出仕させるが、三木之助は寛永3年(1626年)に亡くなった忠刻に殉死する。宮本家は三木之助の実弟が後を継ぎその後も存続したが、同じ年に播磨の地侍田原久光の次男伊織を新たに養子とし、宮本伊織貞次として明石城主小笠原忠真に出仕させている。伊織は寛永8年(1631年)20歳で小笠原家の家老となっている。

寛永15年(1638年)の島原の乱では、小倉城主となっていた小笠原忠真に従い伊織も出陣、武蔵も忠真甥の中津城主小笠原長次の後見として出陣している。小倉滞在中、忠真の命で宝蔵院流槍術の高田又兵衛と試合したことが伝えられている。

寛永17年(1640年)熊本城主細川忠利に招かれ熊本に移る。待遇は客分として7人扶持18石に合力米300石が支給され、熊本城東部に隣接する千葉城に屋敷が与えられ、同じく客分の足利義輝遺児足利道鑑と共に忠利に従い山鹿温泉に招かれるなど重んじられている。翌年忠利が急死したあとも2代藩主細川光尚により変わらず毎年300石の合力米が支給され賓客として処遇された。『武公伝』は武蔵直弟子であった士水(山本源五左衛門)の直話として「士水伝えて云、武公肥後にての門弟、太守はじめ長岡式部寄之、沢村宇右衛門友好、その他、御家中、御側、外様、及陪臣、軽士に至り千余人なり」とこぞって武蔵門下に入ったことを伝えている。この頃余暇に製作した画や工芸などの作品が今に伝えられている。

寛永20年(1643年)熊本市近郊の金峰山にある岩戸の霊巌洞で『五輪書』の執筆を始める。また、亡くなる数日前には「自誓書」とも称される『獨行道』とともに『五輪書』を兵法の弟子寺尾孫之允に与えている。

正保2年5月19日(1645年6月13日)千葉城の屋敷で亡くなる。墓は熊本市弓削にある通称武蔵塚。北九州市手向山に養子伊織による武蔵関係最古の記録のひとつである『新免武蔵玄信二天居士碑』、通称「小倉碑文」がある。

武蔵の兵法は、初め円明流と称したが、『五輪書』では、二刀一流、または二天一流の二つの名称が用いられ最終的には二天一流となったものと思われる。また、後世では武蔵流等の名称も用いられている。熊本時代の弟子に寺尾孫之允・求馬助兄弟がおり、兄孫之允の流系はその弟子柴任三左衛門が肥後を出て福岡藩黒田家などに伝えて広がり、弟寺尾求馬助の系は肥後熊本藩の二天一流兵法を隆盛させた。

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2007/08/28 13:21 | 未分類

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