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2024/05/09 04:41 |
馬インフルエンザ
発熱を伴う急性の呼吸器疾患で、届出伝染病に指定されている。主な症状としては発熱、咳、鼻水の垂下などが所見される。

感染力が高く、感染速度も速い。馬から馬へは感染するものの、馬から人などへの感染はない。ただし、犬には感染する(犬インフルエンザの原因になりうる)。インフルエンザウイルスの特徴として種特異性は極めて高い。冬に感染することが多いが、基本的には季節に関係なく流行しうる(たとえば、フランスでは1990年代後半から年間を通じて流行していた時期がある)。

ウマ1型ウイルス(A/equine/Prague/1/56(H7N7)。1956年、チェコのプラハで初めて分離)、ウマ2型ウイルス(A/equine/Miami/1/63(H3N8)。1963年、アメリカのマイアミで初めて分離)の2系統があるが、1980年以降ウマ1型ウイルスが確認されたことはなく、それ以降に流行しているのはウマ2型ウイルスである(ただし、1989-1990年に中国東北部で流行したものを除く)。毒性は、ウマ2型ウイルスの方が強いとされる。なお、1987年頃に,ウマ2型ウイルスは、ヨーロッパ系統とアメリカ系統の2つの系統に分岐し、それぞれヨーロッパとアメリカに定着している。

多くの患蓄が連続的に発生し馬の移動などが大きく制限され、また患蓄はしばらくの期間は競走に使用できなくなる事で、出走可能な競走馬の数的確保が困難になるため、競馬の開催については一定の期間は事実上不可能となる。

馬インフルエンザウイルスには鳥インフルエンザウイルスの様な死に直結する程の強い毒性は無い。また、馬伝染性貧血の様に治療やワクチンによる感染予防が不可能というものでもない。これら家畜伝染病予防法で指定されている疾病の場合、行政からの命令に基づいて患蓄の強制的な殺処分などの措置がとられるが、届出伝染病のレベルである馬インフルエンザに関しては基本的に殺処分される事はなく、患蓄である馬には治療が行われ、体調が回復すれば再び競走に出走できる。また、体調が回復し再度トレーニングを行えば、競走能力への影響もない。

なお、治療については基本的には、対症療法と安静が基本である。また、治療薬については、人間と同じく抗生物質などが状況に応じて選択されるが当然ウイルス自体に抗生物質はまったく無効で、二次細菌感染の予防目的で使用される。

日本国内で馬インフルエンザが初めて発生したのは1971年の12月で、関東地区を中心に大流行した。

これはニュージーランドより乗馬クラブが輸入した5頭の乗用馬が感染源となったものであったが(これには異説もあり、本当の感染源はフランスから輸入された種牡馬で、ニュージーランドから輸入された馬はこの種牡馬からウイルスを移されたに過ぎないという説もある。また、当時馬インフルエンザの清浄国であったニュージーランドの輸入馬がどのような経路で感染したかは不明であるとされている)、このインフルエンザウイルスに対して当時の日本は処女地であったため、日本のウマ類全体に広がり(最終的には26箇所)、とりわけ東日本地区の競走馬の間では発症する馬が続出、エピデミック(地域流行)の様相を呈した。

競馬場で最初に馬インフルエンザ患蓄が発生したのは南関東公営競馬の4競馬場である。馬インフルエンザはたちどころに猛威を奮い、これにより4場いずれも1971年の年末開催から開催の休止や開催日程の大幅な変更を強いられ、本来ならば年末の大一番である第17回東京大賞典は競馬再開後の翌1972年3月13日まで順延された他、浦和競馬場のニューイヤーカップなどの重賞競走が中止されるなどの影響が出た。

そして、これが中央競馬にも波及してゆく。中止前最後の開催となった1971年12月第3週(18、19日)の有馬記念の開催週の中山競馬で、感冒により出走を取りやめる馬が続出する異常事態が起き、これにより中央競馬でも『馬流行性感冒』が発生している事が明らかとなる。有馬記念も出走表の段階では9頭立てであったが、出走すれば一番人気が確実だったメジロアサマの他、アカネテンリュウ、カミタカの計3頭が出走を取り消し、実際に出走出来た6頭によるレースとなった(なお、有馬記念優勝馬は清水英次騎乗のトウメイであり、当日の一番人気だった横山富雄騎乗のメジロムサシは5着と敗れた)。

そして、1971年中央競馬のフィナーレを飾るはずだった中山大障害も中止に追い込まれ、南関東4場に続く形で中央競馬の東京・中山の厩舍群でもその後も感染の拡大は続いた。

年が明けた1972年、中央競馬における馬インフルエンザ流行のピークは感染騒動が始まって3週間目の1月8日で、この時点で1,986頭の患蓄が発生していた。

それから2ヶ月間、中央競馬の関東地区では1971年5回中山競馬7、8日目、1972年1・2回東京競馬の述べ9週にわたり全日程が開催中止のやむなきに至った(関西地区は平常日程通りの開催だった)。最終的には南関東地方競馬四場(大井、浦和、船橋、川崎)と中央競馬の関東地区の在厩馬のほとんど全てが感染したとも言われる(当時はまだ現在のように美浦トレーニングセンターがなく、東京競馬場と中山競馬場、中山競馬場白井分場に厩舎があった。それら関東地区の在籍馬が合計1,893頭だったのに対し、発症馬は1,766頭にも上った)。

なお、中央競馬の栗東トレーニングセンター、地方競馬他地区は入厩制限などの懸命の防疫体制を敷いたことが奏功し、感染防止に成功した為、競馬開催は通常通り行われた。

1972年の馬インフルエンザ流行の影響で、その年の上半期の関東地区の中央競馬開催日程について大幅な変更を余儀なくされることとなった。具体的には中央競馬では日本ダービーの開催が7月9日に延期されるなど、春季クラシック戦線にまで大きな影響を及ぼした。ちなみに日本ダービーの開催が阪神競馬場の宝塚記念より遅かったのは1968年(東京競馬場のスタンド改築のため)とこの1972年だけである。また、この年のクラシック戦線は牡馬で例を挙げればロングエース・ランドプリンス・タイテエムの『関西三強』が中心軸となるなど、インフルエンザの影響を受けなかった関西馬が全体的に優勢な状況となった。

1971年の馬インフルエンザ騒動は、競走馬の生産(繁殖)部門にも大きな影響をもたらした。例えば、メジロアサマは引退後種牡馬になったものの、無精子症に近く受胎率の低さに悩まされる事になったが、これは馬インフルエンザ治療で使用した抗生物質の副作用といわれている。その為、種付けをしても思うように受胎成績が上がらず種牡馬として廃用寸前に追い込まれたほどである。馬インフルエンザの影響でメジロアサマ同様に種牡馬及び繁殖馬失格に追い込まれた馬もいたと思われる。


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2007/08/19 23:00 | ニュース

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