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2018/12/10 23:52 |
少林寺激怒!少林寺は忍者に負けていない
中国武道「少林拳」発祥の地として知られる河南省の少林寺が「忍者の末裔(まつえい)とされる日本人武道家に道場破りされた」とする書き込みが、中国の主要ウェブサイトに掲載され、大騒動に発展。1500年もの歴史と威信を傷つけられた少林寺側は「悪質なデマ」と否定の声明を出して沈静化をはかったが、“少林寺VS忍者”論争は日中問題のあらたな火種になるかもしれない。

少林寺を激怒させた書き込みは8月25日、愛国主義的論調が目立つ中国のサイト「鉄血社区」に掲載。それによると…。

少林寺に乗り込んだのは“伊賀忍者の末裔”山本義清なる人物。30年間にわたり武道を修練し、日本で道場破りを繰り返してきた。あるとき、リー・リンチェイ(現ジェット・リー)主演の中国映画「少林寺」を見て新たな標的を発見。あらゆる武道の頂点に位置するのが少林寺であるとして道場破りを決意した。

5年間の準備期間を経て、深夜に道場破りを敢行。少林寺代表として出てきた武術僧を、山本はわずか数分で撃破。「今の少林武術は実戦用ではなく公演用だ」と捨てぜりふを吐き、5年後の再来襲を予告して去った―という。

少林拳が完敗したとの衝撃的話題は中国全土で反響を呼んだ。ウェブサイトには「映画出演とか金もうけばかりに熱心だから、日本人なんかに負けるんだ」などと少林寺を厳しく批判する書き込みまで登場。河南省の地元紙「河南商報」(電子版)によると、閲覧者は書き込み掲載後の3日間で4万4000件を超えた。

少林寺拳法の本来の目的は、宗教法人金剛禅総本山少林寺に伝承する霊肉一如の修行法であり、その修練をとおして、健康増進・精神修養・護身練胆の三徳を兼備し、金剛の肉体と不屈の勇気、円満な人格、思いやりと優しさを持った人々を多く育てあげて、それにより人々が平和で幸福な理想社会を実現する為の力を獲得する宗門の行であるという。つまり、人作りによる国作りの大道が本来の目的であるとされる。そうした意味で、宗教団体というより、また、武道団体というよりも、社会教育団体という言葉の方が似合う位であるとされている。

ちなみにここでの「宗門の行」とは、「人が心の迷いを去って真理を会得し、自らがよりどころと出来る自己を確立し、それによって社会の平和と幸福に奉仕、貢献する為に行じる」という意味だという。(財団法人少林寺拳法連盟著・図解コーチ・スポーツシリーズ「少林寺拳法」(成美堂出版)より抜粋。原文ママ)

明治44年(1911年)生まれの宗道臣は、昭和初期に「日本民族発展の捨石になろう」という理由で、中国大陸に渡り、陸軍の特務工作員の仕事をしながら、仕事に必要な教育を受ける為に道教の十方叢林(宗教専門学校)に連れて行かれて、陳良という中国人の老師に身柄を預けられて、そのまま弟子になった。陳良老師は、1900年前後に興った義和団事件の生き残りの中国拳法の達人で、その老師に少しずつ拳法の技を学んでいったという。その渦中に、ある任務の為に中国東北地区(当時の満州)を大旅行する事になり、その際に義和団事件の生き残りの拳法家達に拳法の技術を少しずつ学んでいったという。その中の一人が、陳良老師の師匠であり、北少林義和門拳二十代師父の文太宗老師で、文老師の下で修行を積んだ宗道臣は、その技の全てを習得、昭和11年(1936年)祖師達磨大師のゆかりの地・嵩山少林寺で義和門拳の法脈継承の儀式を行った。

そして、終戦の年の昭和20年(1945年)8月9日に当時の満州で、ソ連軍の攻撃に遭遇、それからの約一年間をソ連軍軍政下の満州にて生活する事になる。その生活の中で法律や政治のあり方は、その立場に立つ人の人格や考え方によって大きな差が出る事を発見し、「人、人、人、全ては人の質にある」という事を悟ったという。もし、生きて日本に帰る事が出来れば、私学校を開いて、青少年を集め、道を説いて、勇気と自信と行動力と正義感と慈悲心に満ち溢れた、強くて、優しくて、正しい若者を多く育てたいと念願するようになったという。

しかし、実際に帰国してみると、祖国は道義も秩序も無い弱肉強食の修羅場のような状況で、特に次代を担う青少年の荒廃は目を覆うばかりだったという。「これではいけない、これからの半生を骨のある青少年の育成に捧げよう」と決心し、四国の香川県・多度津町にて主として釈尊の正統仏教の教えを説きながら、人作りの重要性を訴えたが、中々人々はついてきてくれなかった。肝心の若者達も同じで、中々長続きはしなかったという。そんな状態で思い悩んでいた時に、歴史上の人物で、中国・河南省・嵩山少林寺に座禅行と易筋行を伝えたとされる菩提達磨の夢を見て、そこからはっと閃くものがあった。「そうか、はるばるインドから中国に正統仏教を伝える為に渡った達磨が、この行を弟子達に学ばせたその故事に倣って、今こそその達磨の行動を日本に再現させよう」と思い立ち、その為に人集めの手段として、餌として、少林寺拳法を開創する事を思い立ったという。これを長期間に渡って教えながら、道を説けば、必ず次代を担う青少年に不屈の精神力と、金剛の肉体とを合わせ持ち、その上で自信と勇気と行動力を与える事が出来ると確信したという。

こうして、釈尊の自己確立・自他共楽の教えを「力愛不二・拳禅一如」の法門として編成し、中国で学んだ各種の拳法を再編整理して、理論の裏付けを行い、さらには戦中・戦後を通しての貴重な白兵戦の体験と創案を加えて、宗門の行としての形を整えた。こうして少林寺拳法が開創されて、その拳法の修行の合間、合間に口が酸っぱくなるほど、釈尊の教えを中心に祖国愛や民族愛等の人生観・世界観を当時の青少年達に説き続けたという。そして、昭和55年(1980年)に宗道臣が心不全で69歳で死去するまで、この金剛禅運動と名付けられた運動は続けられて、現在は娘の宗由貴氏に引き継がれている。

実際に宗道臣自身が、後年に、単に武道団体を創始したかったのではなく、「敗戦した後の日本の若者の堕落ぶりは目を覆わんばかりであった。荒廃した日本民族の自立を再度うながすべく、一人でも気骨ある若者を育てる教育の場を創造したかった」と回顧している。

法衣と呼ばれる仏門の服装をまとい、おもに二人一組で行われる演武は、飛燕と呼ばれる突きと蹴りの攻防、そして鋭い気合の応酬、床にたたきつけるがごとくの投げ技と関節技、そして圧法と呼ばれる技法で行われる。静と動を同時に行う禅の拳法と称された。創始当時には他流派武道から多く転籍があり当時としては魅力ある技術体系であったと想像される。一方、少林寺拳法は戦後発祥であるが、日本九大武道(日本武道館認定)の一つとなった。また金剛禅と呼ばれる思想は、創始60年を経過した今も、剛柔一体の技法と同様に多くの人々の共感を呼び、さらに会員数は増え続けているとされている。

同時に別派を認めない世界で唯一の宗教団体及び武道団体として結束力が強い。宗が戦前に中国の臨済宗の総本山である嵩山少林寺を訪れた際に、彼が修業中であった義和門の法門継承式を少林寺にて行い、またその際に白衣殿北壁の羅漢練拳図に描かれた相対演練を見て深く感銘を受けた意味から後日「少林寺拳法」と流派名をつけた経緯がある。したがって技法的には少林拳、少林寺の歴史とは直接は関係が無い。宗道臣が中国滞在時に指導を受けた各種中国拳法を取り入れ、また幼少時より祖父宗重遠から教わった不遷流ほか日本の古武道を混合させて試行錯誤のうえ作り上げた(出典:「秘伝少林寺拳法(光文社)」)日本独自の武術であり、宗派である。終戦直後の香川県多度津町で宗道臣は「これはシナの武術じゃ。喧嘩の仕方を教えてやる」と言って少林寺拳法を広めていった。

嵩山少林寺には昭和50年代に宗道臣の記念碑が建てられており、日本から多数表敬訪問している。同寺の公式ホームページに「日本武士宗道臣」の記述がある、リーリンチェイ主演映画「少林寺」に少林寺拳法の山崎博通氏(現・禅林学園校長)が出演している、リーリンチェイ氏が日本の香川県少林寺拳法本部を訪問している、など交流面は多く、嵩山少林寺と日本少林寺拳法連盟はお互いを認め合っている。ちなみに嵩山少林寺の武術は単に少林拳と呼ばれていることが多く「拳法」と言う呼称は中国においてはあまり使われない。


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2007/09/23 14:58 | ニュース

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