明治45年(1912年)に明治天皇が崩御し、続いて大正3年(1914年)に皇后であった昭憲皇太后が亡くなると、その遺徳を偲ぶ国民から夫妻を祭る神社を求める機運が高まった。これを受けて政府は神社奉祀調査会を設置して審議し、大正天皇の裁可を受けて大正4年5月1日、官幣大社明治神宮を創建することが内務省告示で発表された。明治天皇が「うつせみの代々木の里はしづかにて都のほかのここちこそすれ」と詠んだ代々木の南豊島世伝御料地を境内地として造営が行われた。大正9年(1920年)11月1日に鎮座祭が行われた。東京都渋谷区の代々木に鎮座するまでには、さまざまな自治体が名乗りをあげ、現在の埼玉県の飯能市の朝日山に明治神宮を鎮座し、明治天皇が登られた同市の「天覧山」一帯を神宮の外苑にしようとの計画があった事もいわれていた。
昭和18年(1943年)に外苑にて出陣学徒壮行会が開催され雨のなか、約7万の入隊学徒が行進した。昭和20年(1945年)の空襲の際に社殿のほとんどが消失したが、昭和33年(1958年)に再建され、近年の初詣では、大晦日から正月三ヶ日の間で三百万人前後にものぼる日本一の参拝者を集めている。そのため、警察庁警備局主導の集中警備本部が設置され多くの警察官が警備にあたる。
第二次世界大戦後は宗教法人神社本庁の被包括宗教法人となり別表神社に指定されていたが、平成16年(2004年)に神社本庁との包括関係を解消し、単立神社となった。通常であれば単立神社に移行した神社に所属する神職の神社本庁から与えられた資格(階位など)は抹消されるが、明治神宮の宮司がしばらくしたら神社本庁に合流すると神社本庁に確約したため、特別に神職の資格はそのままとされていた。しかし、その特別措置は平成18年(2006年)8月末日をもって終了した。
内苑と外苑に分かれており、内苑には日本各地や朝鮮半島・台湾からの献木365種約12万本が計画的に植えられた。昭和45年(1970年)の調査時には247種17万本となっていて、都心部の貴重な緑地として親しまれているだけでなく、人工林が自然化したものとしても注目されている。設計は林学の本多静六、本郷高徳、上原敬二、農学/造園の原熈、折下吉延。
明治神宮外苑は明治19年(1887年)に近衛師団、第一師団に所属する部隊の教練場として作られた、青山練兵場の跡地に明治天皇崩御の後に造営されたもの。東京都新宿区、港区にわたり、国民の献金によって絵画館・憲法記念館(戦後は明治記念館)・陸上競技場・野球場などを備えた公園施設として整備された。
昭和18年(1943年)に外苑にて出陣学徒壮行会が開催され雨のなか、約7万の入隊学徒が行進した。昭和20年(1945年)の空襲の際に社殿のほとんどが消失したが、昭和33年(1958年)に再建され、近年の初詣では、大晦日から正月三ヶ日の間で三百万人前後にものぼる日本一の参拝者を集めている。そのため、警察庁警備局主導の集中警備本部が設置され多くの警察官が警備にあたる。
第二次世界大戦後は宗教法人神社本庁の被包括宗教法人となり別表神社に指定されていたが、平成16年(2004年)に神社本庁との包括関係を解消し、単立神社となった。通常であれば単立神社に移行した神社に所属する神職の神社本庁から与えられた資格(階位など)は抹消されるが、明治神宮の宮司がしばらくしたら神社本庁に合流すると神社本庁に確約したため、特別に神職の資格はそのままとされていた。しかし、その特別措置は平成18年(2006年)8月末日をもって終了した。
内苑と外苑に分かれており、内苑には日本各地や朝鮮半島・台湾からの献木365種約12万本が計画的に植えられた。昭和45年(1970年)の調査時には247種17万本となっていて、都心部の貴重な緑地として親しまれているだけでなく、人工林が自然化したものとしても注目されている。設計は林学の本多静六、本郷高徳、上原敬二、農学/造園の原熈、折下吉延。
明治神宮外苑は明治19年(1887年)に近衛師団、第一師団に所属する部隊の教練場として作られた、青山練兵場の跡地に明治天皇崩御の後に造営されたもの。東京都新宿区、港区にわたり、国民の献金によって絵画館・憲法記念館(戦後は明治記念館)・陸上競技場・野球場などを備えた公園施設として整備された。
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活躍の要因として、試合展開や相手選手の心理を読む能力に長けていたことがあげられる。当時の鶴岡監督率いる南海は根性野球のイメージが先行しがちであったが、実際は他球団に先駆けてデータを取り活用する体制を取り入れており、データの収集に当たっていた尾張久次は日本プロ野球のスコアラー第1号ともいわれている。野村は蔭山和夫コーチらとともに、こうしたデータを試合展開や相手選手の観察結果とあわせて分析し、打撃にも配球にも生かした。
投手の癖を盗み、ボールを投げた瞬間に球種・コースを見破る技術を身につけたことも活躍の要因となった。初期の頃はカーブが全く打てず、「カーブのお化けが来るぞ」などと野次を浴びるほどだった。しかし、この欠点も投手の癖から球種を盗み、カーブを投げることを事前に見破ることで克服した。こうした能力は、徹底的な観察と各投手との駆け引きの中で身につけたものであった。なかでも西鉄のエースとして活躍した稲尾和久投手とは、野村が苦心を重ねて癖を見破れば稲尾はそれに気づいて対策を講じるという、ハイレベルの駆け引きを繰り広げた。
オールスターゲームでも、パ・リーグの捕手の地位を最大限に利用し、同リーグの投手のデータ収集を行った。稲尾は、この意図を見抜いていたため野村のサイン通りにボールを投げることはなかった。パ・リーグの投手にとってオールスターはセ・リーグの打者との戦いではなく「野村との騙し合い」であったと言われている。稲尾は「オールスターでは野村さんとの駆け引きに専念せざるを得ず、セ・リーグの打者の記憶はまったくない」と後年語っている。
キャッチャーマスクをかぶったときには、相手チームの打者に私生活の話題などをささやきかけ、集中力を奪うこともあった。この策は「ささやき戦術」として知られる。ただし、この戦術が全く通じない選手が5人だけいた。張本勲、大杉勝男にささやきかけると「うるさい」と一喝され、王貞治は集中のあまり話を全く聞かず、長嶋茂雄は違う話を持ちかけられ、白仁天にいたっては耳栓をつけておりまったく効果なかったという。広島の達川光男も、同様の戦術をとっていたことで有名。
1970年、最下位に終わって辞任した飯田徳治監督の後任として就任。監督と選手を兼任するプレーイングマネージャーとして「四番」「捕手」「監督」の三重責を担うことになった。彼の著書によればこのときの年俸は、選手、監督分を合わせて、1億円を超えていたという。1973年にはリーグ優勝を果たし、MVPに輝く。当時、パ・リーグで採用していたプレーオフ制度を最大限に利用し、当時実力ではかなわないと考えられていた阪急を退けての優勝だった。ただし、日本シリーズでは巨人に敗れ、巨人のV9を許す結果となった。
このころの選手には、投手の高橋里志・佐藤道郎・山内新一・江本孟紀・福士敬章(当時は松原明夫)・金城基泰、野手の島野育夫・藤原満・富田勝・松井優典・門田博光・島本講平・黒田正宏・柏原純一・片平晋作・新井宏昌・和田徹・相羽欣厚・河埜敬幸・久保寺雄二らがいる。このうち、江本は東映、山内・福士(松原)は巨人、金城は広島からトレードで獲得して再生した選手であった。また、コーチにはドン・ブレイザーや高畠導宏(当時は康真)、古葉竹識などがいた。
阪急の1番打者として活躍していた福本豊の盗塁を阻止するため、投手に素早いモーションで球を投げさせた。これが後のクイック投法の原型となった。クイック投法は現在ではどの球団でも採用している。また、1976年に江本らとのトレードで阪神から江夏豊を獲得し、「プロ野球に革命を起こそう」という決め台詞で1977年6月にリリーフ専任の投手へ転向させた。江夏はこの年、最多セーブ投手のタイトルを獲得するなど活躍。江夏のリリーフエースとしての活躍はプロ野球に大きな影響を与え、リリーフの役割が重視されるようになった。
1977年、シーズン終了まで2試合を残して解任される。この年は2位ということで、優勝こそ逃したものの、けっして悪い成績ではなかった。解任理由は、当時はまだ愛人関係にあった現夫人・沙知代(当時は、伊東芳枝)の「チーム・選手への口出しおよび度重なる公私混同」。最終的には野村に同情的だった当時の川勝傳オーナーが苦渋の決断を下したという(もっとも川勝オーナーはこの件以後も野村を大事にし、個人的な付き合いはあった)。なお、広瀬新監督が決定するまでの残り2試合は穴吹二軍監督が代行した。
結局、野村はロッテに移籍。野村一派と言われていた柏原、江夏、高畠の三人はこの解任に反対し、結果柏原は日本ハム、江夏は広島に移籍。高畠は当時コーチであったが、野村と共にロッテに移籍した。この年を最後に南海はAクラスに入ることなく1989年にダイエーに身売りされた。なおホークスの連続Bクラスは1997年まで20年続いた。
1978年、金田正一監督のロッテに移籍。ロッテ時代の同僚に村田兆治、山崎裕之、有藤道世、弘田澄男、八木沢荘六、外国人のレロン・リー・レオン・リー兄弟、水谷則博、仁科時成、水上善雄がいた。標榜した「生涯一捕手」は流行語となり、野村の代名詞の一つとなった。しかし、若手に対するアドバイスにコーチ陣から批判が出るなど確執が生じ、同年オフで自由契約となる。このときロッテフロントから監督就任を要請されるも、金田らに遠慮して固辞したという。
1979年、根本陸夫監督率いる西武へ移籍。西武時代の同僚に田淵幸一、ロッテ時代の同僚・山崎、かつてのライバル・土井、大田卓司、山村善則、立花義家、鈴木葉留彦、楠城徹、伊原春樹、行沢久隆、山本隆造、外国人ではジャック・マルーフ、トニー・ミューサー、テーラー・ダンカン、ジム・タイロン、スティーブ・オンティベロスがいる。投手陣では東尾修、永射保、森繁和、古沢憲司、松沼博久・松沼雅之兄弟がいた。なかでも松沼博久は野村の配球に強い印象を受けたと語っている。
1980年8月1日に前人未到の3000試合出場を達成。同年に引退。実働27年、45歳であった。
野村の著書によると引退を決めたのは、現役最後の年となった1980年9月28日の阪急戦だという。この日、野村は捕手としてスタメン出場していた。試合は8回裏まで4-3と西武が一点を追う展開、この場面で西武は1アウト満塁と逆転のチャンスを作り、野村に打順が回る。しかしここで西武ベンチは、野村に代打鈴木葉留彦を送る。犠牲フライくらいはいくらでも打てると思っていた野村は愕然とし、ベンチに下がった後内心で代打策の失敗を祈っていたという。結局鈴木がショートゴロのダブルプレーに倒れてチャンスは潰え、野村はこの瞬間「ざまあみろ」と思ったという。この逸機が響いて西武は試合に敗れ、野村は帰途の車の中、自らの気持ちがチームを無視して卑しい方向に向いてしまったことを憂い、引退を決めた。
引退セレモニーは捕手だった野村にちなんだ形式で、ピッチャーマウンド上にマイクがあり1塁から3塁の間の横一列に西武全選手が並び、一人ずつマイクで野村に対するメッセージを言い、その後打席の後ろで(通常の捕手の位置に)構える野村に向かいボールを投げ野村が受けるというものであった。その後の記者会見終了後の野村の肩にはキティちゃんのカメラを持ったまだ小学生だった息子の克則が乗っていた。
ID野球
1990年、野村はデータを重視するという意味の「ID野球」(IDは、Import Dataを意味する造語)を掲げてチームの改革を図る。主砲の池山や広沢らに三振を減らすことや状況に応じたバッティングを指導。結果として、広沢は後に打点王のタイトルを獲得する(1993年)など成長を遂げたが、池山は本塁打数を野村就任前より減らすなど打者としては伸び悩んだ。また、ドラフト2位で入団した古田らをレギュラーに抜擢、前年まで控え捕手だった飯田哲也を二塁手にコンバートした。しかし1年目は改革が勝利には結びつかず5位に終わり、前年の4位を下回る成績となった。しかし心配されていた健康面はよほど現場が楽しかったのか、一年経過すると信じられないほど良化。おかげで太ってしまい、それまでのスーツを全部買い換える羽目になってしまったというエピソードも。
1991年はキャンプ時から若手の成長が注目され、Aクラスの3位に躍進。野村が徹底的な英才教育を施した古田は、守備面で大きな進歩を遂げるとともに首位打者を獲得して一流打者への仲間入りも果たし、二塁手から中堅手へコンバートされた飯田は強肩俊足を生かした華麗な守備と走塁で注目を浴びた。
阪神監督
1999年、阪神の監督に就任。ヤクルト監督勇退直後であること、阪神は例年生え抜きの人材を中心に監督人事を進めていたことから、電撃的な就任だった。就任直後はチーム再建を高く期待され、ファンの人気も絶大だった。実際にこの年は6月9日には単独首位に立ち(結果的にこの年優勝した中日ドラゴンズを唯一首位から蹴落としたチームとなる)、野村の誕生日である6月29日に発売される予定だった純金製の野村監督像が前倒しで発売されたほどである(ちなみにこの純金像を最初に購入したのは、落語家の月亭八方)。また新庄剛志の投手兼任プランや、遠山奬志の松井秀喜キラーとしての再生、遠山と葛西稔のスイッチ(遠山-葛西-遠山-葛西、通称「遠山-葛西スペシャル」)などで話題を呼んだ。しかし期待されていた好成績には遠く及ばず1999年、2000年と2年連続最下位。実際1年目終了後野村自身このチームの再建は不可能であるとして、阪神フロントに辞意を求めたが、阪神フロントの必死の説得によりやむを得ず続投したといわれる。
2000年オフに新庄がFAで大リーグへ移籍するなどさらに厳しい状況で迎えた3年目の2001年は若手選手育成を掲げた。ルーキーの赤星憲広、藤本敦士、沖原佳典、上坂太一郎ら7人の俊足選手をF1セブンと名付けて売り込んだのはこの年である。また、桧山進次郎をホームランアーティストからアベレージヒッターに変貌させ、当時23歳の濱中おさむをブレイクさせて、現在の常勝阪神の礎を築いたとも言える。しかし結果はまたもや最下位。この年のオフ、一度は続投も報じられたものの、沙知代夫人が脱税容疑で東京地検特捜部に逮捕された当日に辞任を発表した。結局、阪神監督としては3年連続最下位と最低の成績で終わった。ヤクルトを4度リーグ優勝させた名将でも、深刻な戦力不足の眠れる虎を目覚めさせることはできなかった。
投手の癖を盗み、ボールを投げた瞬間に球種・コースを見破る技術を身につけたことも活躍の要因となった。初期の頃はカーブが全く打てず、「カーブのお化けが来るぞ」などと野次を浴びるほどだった。しかし、この欠点も投手の癖から球種を盗み、カーブを投げることを事前に見破ることで克服した。こうした能力は、徹底的な観察と各投手との駆け引きの中で身につけたものであった。なかでも西鉄のエースとして活躍した稲尾和久投手とは、野村が苦心を重ねて癖を見破れば稲尾はそれに気づいて対策を講じるという、ハイレベルの駆け引きを繰り広げた。
オールスターゲームでも、パ・リーグの捕手の地位を最大限に利用し、同リーグの投手のデータ収集を行った。稲尾は、この意図を見抜いていたため野村のサイン通りにボールを投げることはなかった。パ・リーグの投手にとってオールスターはセ・リーグの打者との戦いではなく「野村との騙し合い」であったと言われている。稲尾は「オールスターでは野村さんとの駆け引きに専念せざるを得ず、セ・リーグの打者の記憶はまったくない」と後年語っている。
キャッチャーマスクをかぶったときには、相手チームの打者に私生活の話題などをささやきかけ、集中力を奪うこともあった。この策は「ささやき戦術」として知られる。ただし、この戦術が全く通じない選手が5人だけいた。張本勲、大杉勝男にささやきかけると「うるさい」と一喝され、王貞治は集中のあまり話を全く聞かず、長嶋茂雄は違う話を持ちかけられ、白仁天にいたっては耳栓をつけておりまったく効果なかったという。広島の達川光男も、同様の戦術をとっていたことで有名。
1970年、最下位に終わって辞任した飯田徳治監督の後任として就任。監督と選手を兼任するプレーイングマネージャーとして「四番」「捕手」「監督」の三重責を担うことになった。彼の著書によればこのときの年俸は、選手、監督分を合わせて、1億円を超えていたという。1973年にはリーグ優勝を果たし、MVPに輝く。当時、パ・リーグで採用していたプレーオフ制度を最大限に利用し、当時実力ではかなわないと考えられていた阪急を退けての優勝だった。ただし、日本シリーズでは巨人に敗れ、巨人のV9を許す結果となった。
このころの選手には、投手の高橋里志・佐藤道郎・山内新一・江本孟紀・福士敬章(当時は松原明夫)・金城基泰、野手の島野育夫・藤原満・富田勝・松井優典・門田博光・島本講平・黒田正宏・柏原純一・片平晋作・新井宏昌・和田徹・相羽欣厚・河埜敬幸・久保寺雄二らがいる。このうち、江本は東映、山内・福士(松原)は巨人、金城は広島からトレードで獲得して再生した選手であった。また、コーチにはドン・ブレイザーや高畠導宏(当時は康真)、古葉竹識などがいた。
阪急の1番打者として活躍していた福本豊の盗塁を阻止するため、投手に素早いモーションで球を投げさせた。これが後のクイック投法の原型となった。クイック投法は現在ではどの球団でも採用している。また、1976年に江本らとのトレードで阪神から江夏豊を獲得し、「プロ野球に革命を起こそう」という決め台詞で1977年6月にリリーフ専任の投手へ転向させた。江夏はこの年、最多セーブ投手のタイトルを獲得するなど活躍。江夏のリリーフエースとしての活躍はプロ野球に大きな影響を与え、リリーフの役割が重視されるようになった。
1977年、シーズン終了まで2試合を残して解任される。この年は2位ということで、優勝こそ逃したものの、けっして悪い成績ではなかった。解任理由は、当時はまだ愛人関係にあった現夫人・沙知代(当時は、伊東芳枝)の「チーム・選手への口出しおよび度重なる公私混同」。最終的には野村に同情的だった当時の川勝傳オーナーが苦渋の決断を下したという(もっとも川勝オーナーはこの件以後も野村を大事にし、個人的な付き合いはあった)。なお、広瀬新監督が決定するまでの残り2試合は穴吹二軍監督が代行した。
結局、野村はロッテに移籍。野村一派と言われていた柏原、江夏、高畠の三人はこの解任に反対し、結果柏原は日本ハム、江夏は広島に移籍。高畠は当時コーチであったが、野村と共にロッテに移籍した。この年を最後に南海はAクラスに入ることなく1989年にダイエーに身売りされた。なおホークスの連続Bクラスは1997年まで20年続いた。
1978年、金田正一監督のロッテに移籍。ロッテ時代の同僚に村田兆治、山崎裕之、有藤道世、弘田澄男、八木沢荘六、外国人のレロン・リー・レオン・リー兄弟、水谷則博、仁科時成、水上善雄がいた。標榜した「生涯一捕手」は流行語となり、野村の代名詞の一つとなった。しかし、若手に対するアドバイスにコーチ陣から批判が出るなど確執が生じ、同年オフで自由契約となる。このときロッテフロントから監督就任を要請されるも、金田らに遠慮して固辞したという。
1979年、根本陸夫監督率いる西武へ移籍。西武時代の同僚に田淵幸一、ロッテ時代の同僚・山崎、かつてのライバル・土井、大田卓司、山村善則、立花義家、鈴木葉留彦、楠城徹、伊原春樹、行沢久隆、山本隆造、外国人ではジャック・マルーフ、トニー・ミューサー、テーラー・ダンカン、ジム・タイロン、スティーブ・オンティベロスがいる。投手陣では東尾修、永射保、森繁和、古沢憲司、松沼博久・松沼雅之兄弟がいた。なかでも松沼博久は野村の配球に強い印象を受けたと語っている。
1980年8月1日に前人未到の3000試合出場を達成。同年に引退。実働27年、45歳であった。
野村の著書によると引退を決めたのは、現役最後の年となった1980年9月28日の阪急戦だという。この日、野村は捕手としてスタメン出場していた。試合は8回裏まで4-3と西武が一点を追う展開、この場面で西武は1アウト満塁と逆転のチャンスを作り、野村に打順が回る。しかしここで西武ベンチは、野村に代打鈴木葉留彦を送る。犠牲フライくらいはいくらでも打てると思っていた野村は愕然とし、ベンチに下がった後内心で代打策の失敗を祈っていたという。結局鈴木がショートゴロのダブルプレーに倒れてチャンスは潰え、野村はこの瞬間「ざまあみろ」と思ったという。この逸機が響いて西武は試合に敗れ、野村は帰途の車の中、自らの気持ちがチームを無視して卑しい方向に向いてしまったことを憂い、引退を決めた。
引退セレモニーは捕手だった野村にちなんだ形式で、ピッチャーマウンド上にマイクがあり1塁から3塁の間の横一列に西武全選手が並び、一人ずつマイクで野村に対するメッセージを言い、その後打席の後ろで(通常の捕手の位置に)構える野村に向かいボールを投げ野村が受けるというものであった。その後の記者会見終了後の野村の肩にはキティちゃんのカメラを持ったまだ小学生だった息子の克則が乗っていた。
ID野球
1990年、野村はデータを重視するという意味の「ID野球」(IDは、Import Dataを意味する造語)を掲げてチームの改革を図る。主砲の池山や広沢らに三振を減らすことや状況に応じたバッティングを指導。結果として、広沢は後に打点王のタイトルを獲得する(1993年)など成長を遂げたが、池山は本塁打数を野村就任前より減らすなど打者としては伸び悩んだ。また、ドラフト2位で入団した古田らをレギュラーに抜擢、前年まで控え捕手だった飯田哲也を二塁手にコンバートした。しかし1年目は改革が勝利には結びつかず5位に終わり、前年の4位を下回る成績となった。しかし心配されていた健康面はよほど現場が楽しかったのか、一年経過すると信じられないほど良化。おかげで太ってしまい、それまでのスーツを全部買い換える羽目になってしまったというエピソードも。
1991年はキャンプ時から若手の成長が注目され、Aクラスの3位に躍進。野村が徹底的な英才教育を施した古田は、守備面で大きな進歩を遂げるとともに首位打者を獲得して一流打者への仲間入りも果たし、二塁手から中堅手へコンバートされた飯田は強肩俊足を生かした華麗な守備と走塁で注目を浴びた。
阪神監督
1999年、阪神の監督に就任。ヤクルト監督勇退直後であること、阪神は例年生え抜きの人材を中心に監督人事を進めていたことから、電撃的な就任だった。就任直後はチーム再建を高く期待され、ファンの人気も絶大だった。実際にこの年は6月9日には単独首位に立ち(結果的にこの年優勝した中日ドラゴンズを唯一首位から蹴落としたチームとなる)、野村の誕生日である6月29日に発売される予定だった純金製の野村監督像が前倒しで発売されたほどである(ちなみにこの純金像を最初に購入したのは、落語家の月亭八方)。また新庄剛志の投手兼任プランや、遠山奬志の松井秀喜キラーとしての再生、遠山と葛西稔のスイッチ(遠山-葛西-遠山-葛西、通称「遠山-葛西スペシャル」)などで話題を呼んだ。しかし期待されていた好成績には遠く及ばず1999年、2000年と2年連続最下位。実際1年目終了後野村自身このチームの再建は不可能であるとして、阪神フロントに辞意を求めたが、阪神フロントの必死の説得によりやむを得ず続投したといわれる。
2000年オフに新庄がFAで大リーグへ移籍するなどさらに厳しい状況で迎えた3年目の2001年は若手選手育成を掲げた。ルーキーの赤星憲広、藤本敦士、沖原佳典、上坂太一郎ら7人の俊足選手をF1セブンと名付けて売り込んだのはこの年である。また、桧山進次郎をホームランアーティストからアベレージヒッターに変貌させ、当時23歳の濱中おさむをブレイクさせて、現在の常勝阪神の礎を築いたとも言える。しかし結果はまたもや最下位。この年のオフ、一度は続投も報じられたものの、沙知代夫人が脱税容疑で東京地検特捜部に逮捕された当日に辞任を発表した。結局、阪神監督としては3年連続最下位と最低の成績で終わった。ヤクルトを4度リーグ優勝させた名将でも、深刻な戦力不足の眠れる虎を目覚めさせることはできなかった。
1991年3月19日に運行を開始した成田空港アクセスのための東日本旅客鉄道の特急列車で、横浜方面/新宿・池袋方面~東京駅~成田空港駅間を運行している。国際空港アクセス列車であることから外国人客を意識して英語名のNarita EXpressからN'EX(ネックス)と略されることがある。
使用車両・設定座席
使用車両はすべて専用電車である253系電車である。
連結されている車種は以下の通り。
グリーン車コンパートメント席
グリーン車・・・東京駅~成田空港駅間は全列車、その他の区間は6両固定編成を使用する列車のみ。
普通車
全席座席指定席である。なお、普通車については満席の場合に限り枚数限定で立席特急券も発行される。
料金と乗車時の特例
特急料金は、同区間を運行する他の特急列車にはB特急料金が適用されるのに対して、高額なA特急料金が適用される。
また、JRが運行する特別急行列車であり、なおかつ全車指定席であることや、国際線利用客が利用する空港連絡列車であることから、定期券と特急券との組み合わせを禁じているが、以下の場合に限って表記された駅で乗車・下車する場合について、以下の組み合わせで普通車に乗車が出来る。
千葉駅・四街道駅・成田駅に停車する全列車で東京駅・品川駅・新宿駅・池袋駅~千葉駅・四街道駅・成田駅相互間・・・停車駅Cの時間帯に相当する。
成田空港駅発の列車の内、品川駅を17時56分以降に運行される大船駅行きの列車の品川駅→大船駅間・・・停車駅Aの時間帯の内、品川駅以南。
定期券と特急券(指定席)ないしは立席特急券
定期券と当該区間で有効な定期券用指定席特急回数券
東京駅~千葉駅・四街道駅・成田駅との間で有効な定期券用指定席特急回数券については、東京駅・品川駅・新宿駅・池袋駅~千葉駅・四街道駅・成田駅相互間とする場合に限る。
品川駅→大船駅間については、「N'EX料金4回券」と称される特急回数券が設定されている。また、立席特急券での乗車は認めていない。
また、2005年12月9日まではグリーン車コンパートメント席については、乗車7日前よりグリーンコンパートメント券及び特急料金に割引を適用された「N'EXグリーン個室料金券」と称される特別企画乗車券が設定されていた。これは、全列車で設定されており、成田空港駅~東京都区内各駅及び吉祥寺駅・三鷹駅間、成田空港駅~大船駅・大宮駅・高尾駅間で設定されていた。
なお、2005年12月10日以降グリーン料金の改訂が行われ、区間にかかわらず以下のように変更された。
4人用コンパートメント席・・・1室6,000円
開放席・・・2,000円
また、成田エクスプレスに使用されている253系車両は奇数番号の席と偶数番号の席が通路で別れているほか、A~Dがボックスで固まっているなど普通車の座席の配列が他の特急用車両と大幅に異なることから、指定席券売機などで特急券を購入すると座席の細かい位置が購入者自身で指定できない。
成田空港連絡列車沿革
成田空港駅開業前の1989年~1990年に「ウィング踊り子」が成田駅~伊豆急下田駅間で運行されていた。
使用車両は幕張電車区所属183系。日本での「ウィング」の列車名の初出とされる。
1991年3月19日:(成田線)成田駅~成田空港駅開業と共に「成田エクスプレス」運行開始。
当初より、横浜駅/新宿駅(一部列車は車庫回送を兼ねて池袋駅)発着とし、東京駅での分割・併結を行うダイヤを組んでいた。また、当初は東京駅~成田空港駅間は6両編成を基本とし、1号車からではなく、4号車から始まる車両番号付けを行っていた。
1991年7月:臨時列車である「ウィングはくつる」・「ウィングあずさ」が運行される。
1992年:需要の増加に伴い、6両編成で横浜駅/新宿駅・池袋駅発着編成とする様に組みかえることとした。このため、徐々に東京駅~成田空港駅間で4号車を池袋駅・横浜駅方向先頭車とする列車は減少してゆく。
1993年3月18日:「成田エクスプレス」横浜駅発着列車の一部を大船駅まで延長。また、編成増強が終了し、1号車を池袋駅・横浜駅方向先頭車として運行するようになる。
1998年12月8日:「成田エクスプレス」池袋駅発着列車の一部を大宮駅まで延長。
1999年12月4日:「成田エクスプレス」1往復のみ高尾駅発列車の運行開始。
2001年12月1日:臨時列車として「ウイングエクスプレス」の運行開始。
2002年12月1日:「成田エクスプレス」東京駅~成田駅間の定期券乗車特例の適用開始。
2004年3月13日:「ウイングエクスプレス」を「成田エクスプレス」に吸収。「成田エクスプレス」の定期券乗車特例の拡大。
2004年12月18日:「成田エクスプレス」1往復を小田原駅まで臨時列車として延長運転開始。
延長区間は臨時列車の扱いであり、多客時に運行される形態を取る。停車駅は、藤沢駅・茅ヶ崎駅・平塚駅。
2005年12月10日:全ての房総方面の特急列車を全車禁煙化
使用車両・設定座席
使用車両はすべて専用電車である253系電車である。
連結されている車種は以下の通り。
グリーン車コンパートメント席
グリーン車・・・東京駅~成田空港駅間は全列車、その他の区間は6両固定編成を使用する列車のみ。
普通車
全席座席指定席である。なお、普通車については満席の場合に限り枚数限定で立席特急券も発行される。
料金と乗車時の特例
特急料金は、同区間を運行する他の特急列車にはB特急料金が適用されるのに対して、高額なA特急料金が適用される。
また、JRが運行する特別急行列車であり、なおかつ全車指定席であることや、国際線利用客が利用する空港連絡列車であることから、定期券と特急券との組み合わせを禁じているが、以下の場合に限って表記された駅で乗車・下車する場合について、以下の組み合わせで普通車に乗車が出来る。
千葉駅・四街道駅・成田駅に停車する全列車で東京駅・品川駅・新宿駅・池袋駅~千葉駅・四街道駅・成田駅相互間・・・停車駅Cの時間帯に相当する。
成田空港駅発の列車の内、品川駅を17時56分以降に運行される大船駅行きの列車の品川駅→大船駅間・・・停車駅Aの時間帯の内、品川駅以南。
定期券と特急券(指定席)ないしは立席特急券
定期券と当該区間で有効な定期券用指定席特急回数券
東京駅~千葉駅・四街道駅・成田駅との間で有効な定期券用指定席特急回数券については、東京駅・品川駅・新宿駅・池袋駅~千葉駅・四街道駅・成田駅相互間とする場合に限る。
品川駅→大船駅間については、「N'EX料金4回券」と称される特急回数券が設定されている。また、立席特急券での乗車は認めていない。
また、2005年12月9日まではグリーン車コンパートメント席については、乗車7日前よりグリーンコンパートメント券及び特急料金に割引を適用された「N'EXグリーン個室料金券」と称される特別企画乗車券が設定されていた。これは、全列車で設定されており、成田空港駅~東京都区内各駅及び吉祥寺駅・三鷹駅間、成田空港駅~大船駅・大宮駅・高尾駅間で設定されていた。
なお、2005年12月10日以降グリーン料金の改訂が行われ、区間にかかわらず以下のように変更された。
4人用コンパートメント席・・・1室6,000円
開放席・・・2,000円
また、成田エクスプレスに使用されている253系車両は奇数番号の席と偶数番号の席が通路で別れているほか、A~Dがボックスで固まっているなど普通車の座席の配列が他の特急用車両と大幅に異なることから、指定席券売機などで特急券を購入すると座席の細かい位置が購入者自身で指定できない。
成田空港連絡列車沿革
成田空港駅開業前の1989年~1990年に「ウィング踊り子」が成田駅~伊豆急下田駅間で運行されていた。
使用車両は幕張電車区所属183系。日本での「ウィング」の列車名の初出とされる。
1991年3月19日:(成田線)成田駅~成田空港駅開業と共に「成田エクスプレス」運行開始。
当初より、横浜駅/新宿駅(一部列車は車庫回送を兼ねて池袋駅)発着とし、東京駅での分割・併結を行うダイヤを組んでいた。また、当初は東京駅~成田空港駅間は6両編成を基本とし、1号車からではなく、4号車から始まる車両番号付けを行っていた。
1991年7月:臨時列車である「ウィングはくつる」・「ウィングあずさ」が運行される。
1992年:需要の増加に伴い、6両編成で横浜駅/新宿駅・池袋駅発着編成とする様に組みかえることとした。このため、徐々に東京駅~成田空港駅間で4号車を池袋駅・横浜駅方向先頭車とする列車は減少してゆく。
1993年3月18日:「成田エクスプレス」横浜駅発着列車の一部を大船駅まで延長。また、編成増強が終了し、1号車を池袋駅・横浜駅方向先頭車として運行するようになる。
1998年12月8日:「成田エクスプレス」池袋駅発着列車の一部を大宮駅まで延長。
1999年12月4日:「成田エクスプレス」1往復のみ高尾駅発列車の運行開始。
2001年12月1日:臨時列車として「ウイングエクスプレス」の運行開始。
2002年12月1日:「成田エクスプレス」東京駅~成田駅間の定期券乗車特例の適用開始。
2004年3月13日:「ウイングエクスプレス」を「成田エクスプレス」に吸収。「成田エクスプレス」の定期券乗車特例の拡大。
2004年12月18日:「成田エクスプレス」1往復を小田原駅まで臨時列車として延長運転開始。
延長区間は臨時列車の扱いであり、多客時に運行される形態を取る。停車駅は、藤沢駅・茅ヶ崎駅・平塚駅。
2005年12月10日:全ての房総方面の特急列車を全車禁煙化
ダニには実に多様な生活をする種が含まれ、 ひとくくりに説明するのは難しい。その多様性は、生活環境の範囲で言えば、ダニ目だけで昆虫綱全体に匹敵するほどである。ここでは、人間の生活とのかかわりの中でそれを見てみる。
最も広く知られているのはヒトの血液などの体液を吸う虫としての存在であろう。ヒトの体液を吸うダニには大きく分けて二つの仲間がある。
一つはイエダニという和名のダニやツツガムシで、小さくて吸血時だけ人の体に来て、すぐに離れる。イエダニの場合は血管を破壊して血液を吸収することができるが、ツツガムシでは哺乳類に寄生する時期が微細な幼虫期に限られ、口器が血管に到達することはできずに組織液を中心に吸収する。
もう一つはマダニの仲間で、大きいものは1cm程度になり、人の体に口器を差し込むと、そのままそこに固定され、長期にわたって血を吸い続け、体が数倍にふくらむまでになる。
英語では大型の吸血性のダニであるマダニ類をTick、それ以外のダニをMiteという。日本語では「ダニ」という単語自体に一般的な不快感が強いが、牧畜の盛んな英語圏では一般的な不快感が強いのは牧場で人畜に大害を与える"Tick"であり、"Mite"にはそれほど一般の不快感は普遍的ではい。マーク・トウェインの小説、『トム・ソーヤの冒険』でも、主人公達が大型の赤い"Mite"(恐らく大型のケダニ類であろう)で学校の授業をサボって遊びに興じ、教師から叱責される様が活写されている。
直接人間に長期寄生するダニとして、他にヒゼンダニという、皮膚に穴を掘って生活するものがあり、これによる感染症を疥癬という。顔面の汗腺にはニキビダニという細長いダニが生活しているが、こちらは何の影響も与えないことが多い。
また、農業害虫としてはハダニの仲間がいる。これは植物の上で組織を破壊して栄養を吸い取って生活する。他にフシダニというウジ虫型のダニが虫こぶを作って植物に寄生する。
台所や倉庫では、コナダニの仲間が、小麦粉や砂糖などを餌にして大繁殖をすることがある。
家の中には、埃の中に何種かのダニが生息している。それらは、埃の中の栄養分を食べているので、ふつうに生活している限り気がつかないことが多いが、時にアレルギーを引き起こす元になることがある。最近はこれを家ダニと言うことがあるので、イエダニと混同しないよう注意が必要である。
それ以外のダニは、野外で自由に生活している。大きく分けて、昆虫や小動物を食べる肉食のものと、落葉や土壌や菌類を食べるササラダニのようなものがある。前者には、偶然に人間を刺すものがあり、被害を与える場合がある。
生息環境
先に述べたように、ダニは様々な生活をするものがあるので、その生息環境は極めて幅広い。地上、土壌中、樹上、他の動植物の体の上、それぞれに様々なダニが生息している。
土壌中のササラダニは、落ち葉をかじる分解者である。土壌中では個体数が多く、一説には陸上で最も個体数の多い節足動物であり、土壌動物として重要な位置を占める。
淡水中にはミズダニ類がおり、水中を泳いでミジンコなどを補食する。水底で落ち葉を食うダニもいる。海水中に生息するダニもいるが、そう多くない。ハダニ類は糸を出してタンポポの種子のように空を飛ぶので、空中からも発見される。
人間との関わり
直接に人間を攻撃するダニ、農業害虫、食品(小麦粉等)につくもの、アレルギーの元になりうるものなど、人との関わりは深い。
ツツガムシは、本来はノネズミを攻撃するものだが、まれに人間につくこともあり、その際、ツツガムシ病を媒介する。他にもダニによって媒介される病気がいくつかある。
吸血性のダニは、家畜にもつく。また、ダニが媒介する家畜の病気も存在する。
利用の面では、ハダニを防除するために、ハダニを攻撃するカブリダニがいるので、これを生物農薬として利用している例などがある。
最も広く知られているのはヒトの血液などの体液を吸う虫としての存在であろう。ヒトの体液を吸うダニには大きく分けて二つの仲間がある。
一つはイエダニという和名のダニやツツガムシで、小さくて吸血時だけ人の体に来て、すぐに離れる。イエダニの場合は血管を破壊して血液を吸収することができるが、ツツガムシでは哺乳類に寄生する時期が微細な幼虫期に限られ、口器が血管に到達することはできずに組織液を中心に吸収する。
もう一つはマダニの仲間で、大きいものは1cm程度になり、人の体に口器を差し込むと、そのままそこに固定され、長期にわたって血を吸い続け、体が数倍にふくらむまでになる。
英語では大型の吸血性のダニであるマダニ類をTick、それ以外のダニをMiteという。日本語では「ダニ」という単語自体に一般的な不快感が強いが、牧畜の盛んな英語圏では一般的な不快感が強いのは牧場で人畜に大害を与える"Tick"であり、"Mite"にはそれほど一般の不快感は普遍的ではい。マーク・トウェインの小説、『トム・ソーヤの冒険』でも、主人公達が大型の赤い"Mite"(恐らく大型のケダニ類であろう)で学校の授業をサボって遊びに興じ、教師から叱責される様が活写されている。
直接人間に長期寄生するダニとして、他にヒゼンダニという、皮膚に穴を掘って生活するものがあり、これによる感染症を疥癬という。顔面の汗腺にはニキビダニという細長いダニが生活しているが、こちらは何の影響も与えないことが多い。
また、農業害虫としてはハダニの仲間がいる。これは植物の上で組織を破壊して栄養を吸い取って生活する。他にフシダニというウジ虫型のダニが虫こぶを作って植物に寄生する。
台所や倉庫では、コナダニの仲間が、小麦粉や砂糖などを餌にして大繁殖をすることがある。
家の中には、埃の中に何種かのダニが生息している。それらは、埃の中の栄養分を食べているので、ふつうに生活している限り気がつかないことが多いが、時にアレルギーを引き起こす元になることがある。最近はこれを家ダニと言うことがあるので、イエダニと混同しないよう注意が必要である。
それ以外のダニは、野外で自由に生活している。大きく分けて、昆虫や小動物を食べる肉食のものと、落葉や土壌や菌類を食べるササラダニのようなものがある。前者には、偶然に人間を刺すものがあり、被害を与える場合がある。
生息環境
先に述べたように、ダニは様々な生活をするものがあるので、その生息環境は極めて幅広い。地上、土壌中、樹上、他の動植物の体の上、それぞれに様々なダニが生息している。
土壌中のササラダニは、落ち葉をかじる分解者である。土壌中では個体数が多く、一説には陸上で最も個体数の多い節足動物であり、土壌動物として重要な位置を占める。
淡水中にはミズダニ類がおり、水中を泳いでミジンコなどを補食する。水底で落ち葉を食うダニもいる。海水中に生息するダニもいるが、そう多くない。ハダニ類は糸を出してタンポポの種子のように空を飛ぶので、空中からも発見される。
人間との関わり
直接に人間を攻撃するダニ、農業害虫、食品(小麦粉等)につくもの、アレルギーの元になりうるものなど、人との関わりは深い。
ツツガムシは、本来はノネズミを攻撃するものだが、まれに人間につくこともあり、その際、ツツガムシ病を媒介する。他にもダニによって媒介される病気がいくつかある。
吸血性のダニは、家畜にもつく。また、ダニが媒介する家畜の病気も存在する。
利用の面では、ハダニを防除するために、ハダニを攻撃するカブリダニがいるので、これを生物農薬として利用している例などがある。
古くは、純潔教育と呼ばれていたり、女子生徒の生理、妊娠などの指導をすれば、男子にはそれに対応したような指導はしなくてもよいと思われていた時代もある。また、「寝た子を起こすな」と言われ、性知識を知らない子供にはあまり詳しい事を教えるべきではないとされてきた。
しかし、最近の性知識の低年齢化に伴い、この状況を改善しようとする動きが盛んである。一例として、中学生、特に思春期を迎える世代にあっては生活指導の一環として誤った性知識や性交渉の知識を持たぬように各地方行政庁で性教育のテキストを配布している。しかし、小学校ではまだまだ不完全であり、逆に詳しい事を教えすぎたために問題になった事もあるなど、まだ完全とは言えない。またこれに関連し、度々国会議員等社会的影響力のある人間が性教育の教科書を採り上げ「対象年齢に対しやり過ぎだ」「図解までする必要はない」という発言が見られる。しかし、現在の日本では成人雑誌やAVが容易に入手でき、インターネットという全く危険を冒さず無制限に有害(と言われる)な性情報を獲得できる媒体が普及した現代では、昔の人間が適切不適切と論じること自体時代にずれているといった反論も同時に存在する。ただ、成人雑誌などの類は最近に始まったことでは無いので、もっと根本的な問題である可能性がある。他にも、教師(女教師が多い)が過剰に男性から性的な目で見られる危険性を強調するあまり、女子生徒に、男性恐怖症や男性を蔑む偏見を生み出す問題も起こっている。また、男性に過剰に性行為での妊娠等の責任を負わせるあまり、女性の方も余りに簡単に身体を捧げる可能性がある事が見落とされやすい。
小学校でも、高学年男子を中心に直接いじめやからかいの原因となることが多い陰毛については詳しく教える事が多い。陰毛に限らず、成長には個人差があるために、早すぎる、遅すぎるで悩む原因になりやすい。
なお、高等学校の保健体育では、古くから教科書などで性に関する記載もあった(中学校以下の教材には記載がなかった)。しかし、大学受験、特に「一流大学」と呼ばれるような大学を志望し、その合格のための受験勉強に励む生徒の多いような高校などでは、そのような高校が名門高校とされることも多いことから、高校の時期にそのような教育を受けるのは青臭い、と捉える生徒も少なくなかった。現在、一流大学の生徒が極端に性知識に疎い事実には、こうした背景がある。
避妊と中絶
性教育の実施によって、未成年者による予定外の妊娠が減少したことを示す公的データは無い。寧ろ公的機関のデータは、未成年者による人工妊娠中絶が急増していることを示している。
厚生労働省が公表している「平成14年度衛生行政報告例の概要 9.母体保護関係(2)人工妊娠中絶件数」によれば、平成5年度の人工妊娠中絶件数の総数は38万6807件、平成14年度は32万9326件であり、全体としては中絶件数は減少傾向にある。両年度の比較に於いて、20歳以上の全ての年代について中絶件数は減少している。
しかしながら、20歳未満については平成5年度は2万9776件であったものが平成14年度では4万4987件と51%以上増加しており、少子化を考慮すれば未成年者の中絶実施率は51%よりさらに高くなる。(注意・平成13年度と平成14年度との比較に於いてのみ、4万6511件から4万4987件へ1524件(3.4%)減少している。)
性教育関連の事件
近年全国規模で性教育が行われているが、一部では児童同士で性器を触ることを強制するなどの過剰な性教育にこどもが精神的苦痛を訴えるケースが増えており、性的虐待ではないかとの意見も出ている。
また、スーパー銭湯などの男湯で働いている若い女性従業員に裸を見られたとして男児がショックを受けるケースが相次いでいるが、人間の性的羞恥心と品位を軽視する性教育推進派は問題視しない。保守派からは特に思春期の子供の性的羞恥心は最大限尊重し、法的に保護することが品位ある人間を育てる上で大事だと説いており、いわゆる銭湯問題は一つの大きな問題となっている。
また、男子高校生にマスターベーションの頻度ややり方、射精量などを回答させ、その回答を女子高校生の前で公表する性教育も行われており、特に男子の性的プライバシーが実践の場で軽視される傾向も指摘されている。
その一方で、日本は先進国でも有数の性教育が遅れた国であるとの指摘もある。子供に限らず、無防備なセックスは、望まれない子を生み出し、親や子の人生を大きく左右する。例えば、男性用や女性用のコンドームをつけなくても、膣外射精をすれば、妊娠しないと考えている人は多い。 このような問題のある状況を打開するための性教育すら、反発が強く、十分に出来ていないが現状である。
結局、深く教えるようになったのは「心」の方面ばかりで、「体」についてはあまり進歩が無いのが現状である。
しかし、最近の性知識の低年齢化に伴い、この状況を改善しようとする動きが盛んである。一例として、中学生、特に思春期を迎える世代にあっては生活指導の一環として誤った性知識や性交渉の知識を持たぬように各地方行政庁で性教育のテキストを配布している。しかし、小学校ではまだまだ不完全であり、逆に詳しい事を教えすぎたために問題になった事もあるなど、まだ完全とは言えない。またこれに関連し、度々国会議員等社会的影響力のある人間が性教育の教科書を採り上げ「対象年齢に対しやり過ぎだ」「図解までする必要はない」という発言が見られる。しかし、現在の日本では成人雑誌やAVが容易に入手でき、インターネットという全く危険を冒さず無制限に有害(と言われる)な性情報を獲得できる媒体が普及した現代では、昔の人間が適切不適切と論じること自体時代にずれているといった反論も同時に存在する。ただ、成人雑誌などの類は最近に始まったことでは無いので、もっと根本的な問題である可能性がある。他にも、教師(女教師が多い)が過剰に男性から性的な目で見られる危険性を強調するあまり、女子生徒に、男性恐怖症や男性を蔑む偏見を生み出す問題も起こっている。また、男性に過剰に性行為での妊娠等の責任を負わせるあまり、女性の方も余りに簡単に身体を捧げる可能性がある事が見落とされやすい。
小学校でも、高学年男子を中心に直接いじめやからかいの原因となることが多い陰毛については詳しく教える事が多い。陰毛に限らず、成長には個人差があるために、早すぎる、遅すぎるで悩む原因になりやすい。
なお、高等学校の保健体育では、古くから教科書などで性に関する記載もあった(中学校以下の教材には記載がなかった)。しかし、大学受験、特に「一流大学」と呼ばれるような大学を志望し、その合格のための受験勉強に励む生徒の多いような高校などでは、そのような高校が名門高校とされることも多いことから、高校の時期にそのような教育を受けるのは青臭い、と捉える生徒も少なくなかった。現在、一流大学の生徒が極端に性知識に疎い事実には、こうした背景がある。
避妊と中絶
性教育の実施によって、未成年者による予定外の妊娠が減少したことを示す公的データは無い。寧ろ公的機関のデータは、未成年者による人工妊娠中絶が急増していることを示している。
厚生労働省が公表している「平成14年度衛生行政報告例の概要 9.母体保護関係(2)人工妊娠中絶件数」によれば、平成5年度の人工妊娠中絶件数の総数は38万6807件、平成14年度は32万9326件であり、全体としては中絶件数は減少傾向にある。両年度の比較に於いて、20歳以上の全ての年代について中絶件数は減少している。
しかしながら、20歳未満については平成5年度は2万9776件であったものが平成14年度では4万4987件と51%以上増加しており、少子化を考慮すれば未成年者の中絶実施率は51%よりさらに高くなる。(注意・平成13年度と平成14年度との比較に於いてのみ、4万6511件から4万4987件へ1524件(3.4%)減少している。)
性教育関連の事件
近年全国規模で性教育が行われているが、一部では児童同士で性器を触ることを強制するなどの過剰な性教育にこどもが精神的苦痛を訴えるケースが増えており、性的虐待ではないかとの意見も出ている。
また、スーパー銭湯などの男湯で働いている若い女性従業員に裸を見られたとして男児がショックを受けるケースが相次いでいるが、人間の性的羞恥心と品位を軽視する性教育推進派は問題視しない。保守派からは特に思春期の子供の性的羞恥心は最大限尊重し、法的に保護することが品位ある人間を育てる上で大事だと説いており、いわゆる銭湯問題は一つの大きな問題となっている。
また、男子高校生にマスターベーションの頻度ややり方、射精量などを回答させ、その回答を女子高校生の前で公表する性教育も行われており、特に男子の性的プライバシーが実践の場で軽視される傾向も指摘されている。
その一方で、日本は先進国でも有数の性教育が遅れた国であるとの指摘もある。子供に限らず、無防備なセックスは、望まれない子を生み出し、親や子の人生を大きく左右する。例えば、男性用や女性用のコンドームをつけなくても、膣外射精をすれば、妊娠しないと考えている人は多い。 このような問題のある状況を打開するための性教育すら、反発が強く、十分に出来ていないが現状である。
結局、深く教えるようになったのは「心」の方面ばかりで、「体」についてはあまり進歩が無いのが現状である。