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2025/04/10 21:40 |
野村克也監督のデータ野球・駆け引き
活躍の要因として、試合展開や相手選手の心理を読む能力に長けていたことがあげられる。当時の鶴岡監督率いる南海は根性野球のイメージが先行しがちであったが、実際は他球団に先駆けてデータを取り活用する体制を取り入れており、データの収集に当たっていた尾張久次は日本プロ野球のスコアラー第1号ともいわれている。野村は蔭山和夫コーチらとともに、こうしたデータを試合展開や相手選手の観察結果とあわせて分析し、打撃にも配球にも生かした。

投手の癖を盗み、ボールを投げた瞬間に球種・コースを見破る技術を身につけたことも活躍の要因となった。初期の頃はカーブが全く打てず、「カーブのお化けが来るぞ」などと野次を浴びるほどだった。しかし、この欠点も投手の癖から球種を盗み、カーブを投げることを事前に見破ることで克服した。こうした能力は、徹底的な観察と各投手との駆け引きの中で身につけたものであった。なかでも西鉄のエースとして活躍した稲尾和久投手とは、野村が苦心を重ねて癖を見破れば稲尾はそれに気づいて対策を講じるという、ハイレベルの駆け引きを繰り広げた。

オールスターゲームでも、パ・リーグの捕手の地位を最大限に利用し、同リーグの投手のデータ収集を行った。稲尾は、この意図を見抜いていたため野村のサイン通りにボールを投げることはなかった。パ・リーグの投手にとってオールスターはセ・リーグの打者との戦いではなく「野村との騙し合い」であったと言われている。稲尾は「オールスターでは野村さんとの駆け引きに専念せざるを得ず、セ・リーグの打者の記憶はまったくない」と後年語っている。

キャッチャーマスクをかぶったときには、相手チームの打者に私生活の話題などをささやきかけ、集中力を奪うこともあった。この策は「ささやき戦術」として知られる。ただし、この戦術が全く通じない選手が5人だけいた。張本勲、大杉勝男にささやきかけると「うるさい」と一喝され、王貞治は集中のあまり話を全く聞かず、長嶋茂雄は違う話を持ちかけられ、白仁天にいたっては耳栓をつけておりまったく効果なかったという。広島の達川光男も、同様の戦術をとっていたことで有名。

1970年、最下位に終わって辞任した飯田徳治監督の後任として就任。監督と選手を兼任するプレーイングマネージャーとして「四番」「捕手」「監督」の三重責を担うことになった。彼の著書によればこのときの年俸は、選手、監督分を合わせて、1億円を超えていたという。1973年にはリーグ優勝を果たし、MVPに輝く。当時、パ・リーグで採用していたプレーオフ制度を最大限に利用し、当時実力ではかなわないと考えられていた阪急を退けての優勝だった。ただし、日本シリーズでは巨人に敗れ、巨人のV9を許す結果となった。

このころの選手には、投手の高橋里志・佐藤道郎・山内新一・江本孟紀・福士敬章(当時は松原明夫)・金城基泰、野手の島野育夫・藤原満・富田勝・松井優典・門田博光・島本講平・黒田正宏・柏原純一・片平晋作・新井宏昌・和田徹・相羽欣厚・河埜敬幸・久保寺雄二らがいる。このうち、江本は東映、山内・福士(松原)は巨人、金城は広島からトレードで獲得して再生した選手であった。また、コーチにはドン・ブレイザーや高畠導宏(当時は康真)、古葉竹識などがいた。

阪急の1番打者として活躍していた福本豊の盗塁を阻止するため、投手に素早いモーションで球を投げさせた。これが後のクイック投法の原型となった。クイック投法は現在ではどの球団でも採用している。また、1976年に江本らとのトレードで阪神から江夏豊を獲得し、「プロ野球に革命を起こそう」という決め台詞で1977年6月にリリーフ専任の投手へ転向させた。江夏はこの年、最多セーブ投手のタイトルを獲得するなど活躍。江夏のリリーフエースとしての活躍はプロ野球に大きな影響を与え、リリーフの役割が重視されるようになった。

1977年、シーズン終了まで2試合を残して解任される。この年は2位ということで、優勝こそ逃したものの、けっして悪い成績ではなかった。解任理由は、当時はまだ愛人関係にあった現夫人・沙知代(当時は、伊東芳枝)の「チーム・選手への口出しおよび度重なる公私混同」。最終的には野村に同情的だった当時の川勝傳オーナーが苦渋の決断を下したという(もっとも川勝オーナーはこの件以後も野村を大事にし、個人的な付き合いはあった)。なお、広瀬新監督が決定するまでの残り2試合は穴吹二軍監督が代行した。

結局、野村はロッテに移籍。野村一派と言われていた柏原、江夏、高畠の三人はこの解任に反対し、結果柏原は日本ハム、江夏は広島に移籍。高畠は当時コーチであったが、野村と共にロッテに移籍した。この年を最後に南海はAクラスに入ることなく1989年にダイエーに身売りされた。なおホークスの連続Bクラスは1997年まで20年続いた。

1978年、金田正一監督のロッテに移籍。ロッテ時代の同僚に村田兆治、山崎裕之、有藤道世、弘田澄男、八木沢荘六、外国人のレロン・リー・レオン・リー兄弟、水谷則博、仁科時成、水上善雄がいた。標榜した「生涯一捕手」は流行語となり、野村の代名詞の一つとなった。しかし、若手に対するアドバイスにコーチ陣から批判が出るなど確執が生じ、同年オフで自由契約となる。このときロッテフロントから監督就任を要請されるも、金田らに遠慮して固辞したという。

1979年、根本陸夫監督率いる西武へ移籍。西武時代の同僚に田淵幸一、ロッテ時代の同僚・山崎、かつてのライバル・土井、大田卓司、山村善則、立花義家、鈴木葉留彦、楠城徹、伊原春樹、行沢久隆、山本隆造、外国人ではジャック・マルーフ、トニー・ミューサー、テーラー・ダンカン、ジム・タイロン、スティーブ・オンティベロスがいる。投手陣では東尾修、永射保、森繁和、古沢憲司、松沼博久・松沼雅之兄弟がいた。なかでも松沼博久は野村の配球に強い印象を受けたと語っている。

1980年8月1日に前人未到の3000試合出場を達成。同年に引退。実働27年、45歳であった。

野村の著書によると引退を決めたのは、現役最後の年となった1980年9月28日の阪急戦だという。この日、野村は捕手としてスタメン出場していた。試合は8回裏まで4-3と西武が一点を追う展開、この場面で西武は1アウト満塁と逆転のチャンスを作り、野村に打順が回る。しかしここで西武ベンチは、野村に代打鈴木葉留彦を送る。犠牲フライくらいはいくらでも打てると思っていた野村は愕然とし、ベンチに下がった後内心で代打策の失敗を祈っていたという。結局鈴木がショートゴロのダブルプレーに倒れてチャンスは潰え、野村はこの瞬間「ざまあみろ」と思ったという。この逸機が響いて西武は試合に敗れ、野村は帰途の車の中、自らの気持ちがチームを無視して卑しい方向に向いてしまったことを憂い、引退を決めた。

引退セレモニーは捕手だった野村にちなんだ形式で、ピッチャーマウンド上にマイクがあり1塁から3塁の間の横一列に西武全選手が並び、一人ずつマイクで野村に対するメッセージを言い、その後打席の後ろで(通常の捕手の位置に)構える野村に向かいボールを投げ野村が受けるというものであった。その後の記者会見終了後の野村の肩にはキティちゃんのカメラを持ったまだ小学生だった息子の克則が乗っていた。

ID野球
1990年、野村はデータを重視するという意味の「ID野球」(IDは、Import Dataを意味する造語)を掲げてチームの改革を図る。主砲の池山や広沢らに三振を減らすことや状況に応じたバッティングを指導。結果として、広沢は後に打点王のタイトルを獲得する(1993年)など成長を遂げたが、池山は本塁打数を野村就任前より減らすなど打者としては伸び悩んだ。また、ドラフト2位で入団した古田らをレギュラーに抜擢、前年まで控え捕手だった飯田哲也を二塁手にコンバートした。しかし1年目は改革が勝利には結びつかず5位に終わり、前年の4位を下回る成績となった。しかし心配されていた健康面はよほど現場が楽しかったのか、一年経過すると信じられないほど良化。おかげで太ってしまい、それまでのスーツを全部買い換える羽目になってしまったというエピソードも。

1991年はキャンプ時から若手の成長が注目され、Aクラスの3位に躍進。野村が徹底的な英才教育を施した古田は、守備面で大きな進歩を遂げるとともに首位打者を獲得して一流打者への仲間入りも果たし、二塁手から中堅手へコンバートされた飯田は強肩俊足を生かした華麗な守備と走塁で注目を浴びた。

阪神監督
1999年、阪神の監督に就任。ヤクルト監督勇退直後であること、阪神は例年生え抜きの人材を中心に監督人事を進めていたことから、電撃的な就任だった。就任直後はチーム再建を高く期待され、ファンの人気も絶大だった。実際にこの年は6月9日には単独首位に立ち(結果的にこの年優勝した中日ドラゴンズを唯一首位から蹴落としたチームとなる)、野村の誕生日である6月29日に発売される予定だった純金製の野村監督像が前倒しで発売されたほどである(ちなみにこの純金像を最初に購入したのは、落語家の月亭八方)。また新庄剛志の投手兼任プランや、遠山奬志の松井秀喜キラーとしての再生、遠山と葛西稔のスイッチ(遠山-葛西-遠山-葛西、通称「遠山-葛西スペシャル」)などで話題を呼んだ。しかし期待されていた好成績には遠く及ばず1999年、2000年と2年連続最下位。実際1年目終了後野村自身このチームの再建は不可能であるとして、阪神フロントに辞意を求めたが、阪神フロントの必死の説得によりやむを得ず続投したといわれる。

2000年オフに新庄がFAで大リーグへ移籍するなどさらに厳しい状況で迎えた3年目の2001年は若手選手育成を掲げた。ルーキーの赤星憲広、藤本敦士、沖原佳典、上坂太一郎ら7人の俊足選手をF1セブンと名付けて売り込んだのはこの年である。また、桧山進次郎をホームランアーティストからアベレージヒッターに変貌させ、当時23歳の濱中おさむをブレイクさせて、現在の常勝阪神の礎を築いたとも言える。しかし結果はまたもや最下位。この年のオフ、一度は続投も報じられたものの、沙知代夫人が脱税容疑で東京地検特捜部に逮捕された当日に辞任を発表した。結局、阪神監督としては3年連続最下位と最低の成績で終わった。ヤクルトを4度リーグ優勝させた名将でも、深刻な戦力不足の眠れる虎を目覚めさせることはできなかった。
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2007/09/17 15:27 | 未分類

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