歌手の槙原敬之(38)が、3日付で所属レコード会社をエイベックスに移籍したことが同日、同社から発表された。
東芝EMIから移籍後の第1弾シングル「GREEN DAYS」を8月15日に発売する予定。同曲は3日からスタートしたフジテレビ系ドラマ「牛に願いを Love&Farm」(火曜・後10時)で流れる、自身約2年ぶりのドラマ主題歌となっている。またカップリングにはミリオンヒット曲「どんなときも。」の07バージョンが収録される。槙原は90年にデビュー。これまでのアルバム総売上枚数が1000万枚を突破し、男性ソロ歌手歴代1位(オリコン調べ)を記録している。
槙原敬之
保育園の保育士がピアノで弾いた「エリーゼのために」に感銘を受け、ピアノを習い始める。その後イエロー・マジック・オーケストラ(YMO)のアルバム『ソリッド・ステイト・サヴァイヴァー』に出会い大きな衝撃を受けると共に、以降槇原オリジナルの楽曲(特に音作りの部分)に多大なる影響を与える。中学2年からは、友人と作曲を開始。当初ボーカルは機材の少なさを埋める程度のものだったが、カーペンターズに影響を受けてボーカルの楽しさに目覚めた。製作したテープを近所のレコード店にたびたび持ち込み、「close to you」という2曲入り300円のテープが発売される事になる。これが槇原にとって人生で初めて市販された音楽となった。
1984年、当時坂本龍一が担当していたNHKのFMラジオ番組『サウンド・ストリート』のデモテープコーナーに、アーティスト名「C・M・C」で「HALF」と言う楽曲を応募する。(ちなみに、この「C・M・C」は実質槇原の1人ユニットであり、後に発売されるサンストのコンピレーションアルバム(『Demo Tape-1』後述参照)のライナーノーツにも、「作詞・作曲・歌・演奏−槇原範之」とクレジットされている。又この曲のレコーディングとミキシングエンジニアを担当していた沢田知久氏は、当時から槇原の親友で、後にメジャーデビュー後の槇原の作品のエンジニアも担当する事になる。)楽曲を聴いた坂本から「良いバランスで仕上がっている。言う事なし」と絶賛を得て、番組では異例のフルコーラスが放送された。その後、同企画での優秀作品をまとめたアルバム『Demo Tape-1』(MIDI)に収録される。
大学受験浪人中も音楽活動を続け、受験生や応援するファンの間で話題になった。ラジオ番組において、番組のスポンサーであった駿台予備校を読み上げた際に、「僕、予備校時代には駿台予備校に通っていたんですよ」と語っていた。
1990年3月 「AXIA MUSIC AUDITION '89」で、グランプリと「一万人審査員賞」を受賞。この時のサポートギタリストは寺西一雄(ローリー)。
1990年10月25日 シングル『NG』とアルバム『君が笑うとき君の胸が痛まないように』でWEAミュージック(後にワーナーミュージック・ジャパンに併合)よりデビュー。
1991年6月10日 3枚目のシングル『どんなときも。』発売。177万枚を売り上げ、シングル、アルバム通じて自身初のミリオンセラーとなった。これは現時点におけるシングルの自己最高売上記録でもある。映画『就職戦線異状なし』主題歌、ケンタッキーフライドチキンのCFソングであり、1992年春の高校野球入場行進曲にも選ばれた。また、この頃、バラエティ番組ウッチャンナンチャンのやるならやらねばの中でウッチャンナンチャンの内村光良が「ドンナトキモ槇原」という、槇原をデフォルメしたキャラクターを演じていた。
出身校である大阪府立春日丘高等学校の先輩に嘉門達夫がいる。嘉門と槇原でどちらが先に年末の『NHK紅白歌合戦』に出場するかを競ったが、槇原は1991年の同番組に出場が決定し、先を越す。(嘉門は翌1992年に出場)
1996年 全曲ネイティブ・スピーカーによる英語詞のアルバムをリリース。同アルバムからシングルカットされた楽曲のPVはイギリスのデザイン集団Me Companyが制作、CGを駆使したアニメーション作品が話題を呼ぶ。
1997年 ソニー・ミュージックエンタテインメントに移籍。
1999年8月 覚せい剤取締法違反で逮捕される。本人は300万円の保釈金によって保釈、その後に執行猶予付きの有罪判決を受けた。このときCDが発売元のレコード会社によって店頭から回収される動きがあり、ファンが買いに走ったために、過去の作品の売上が伸びるという現象が起こった。
謹慎中、美輪明宏の著書『紫の履歴書』に影響を受ける。後に、『Listen To The Music 2』において美輪の「ヨイトマケの唄」をカバーした。
2000年 以前所属していたワーナーミュージック・ジャパンに復帰移籍し、11月にアルバム『太陽』で活動再開。
2004年 東芝EMIに移籍。
2004年8月 13枚目のオリジナルアルバム『EXPLORER』とベストアルバム『Complete Recorded』が発売され、翌月にはアルバム総売上枚数が1,000万枚を突破。男性ソロ歌手としては井上陽水、長渕剛に次いで3人目であり、初チャートインから13年2ヶ月での達成は史上最速記録となった。
2006年3月 14枚目のオリジナルアルバム『LIFE IN DOWNTOWN』で、アルバム総売上枚数が井上陽水を抜き、男性ソロ歴代1位となる。

東芝EMIから移籍後の第1弾シングル「GREEN DAYS」を8月15日に発売する予定。同曲は3日からスタートしたフジテレビ系ドラマ「牛に願いを Love&Farm」(火曜・後10時)で流れる、自身約2年ぶりのドラマ主題歌となっている。またカップリングにはミリオンヒット曲「どんなときも。」の07バージョンが収録される。槙原は90年にデビュー。これまでのアルバム総売上枚数が1000万枚を突破し、男性ソロ歌手歴代1位(オリコン調べ)を記録している。
槙原敬之
保育園の保育士がピアノで弾いた「エリーゼのために」に感銘を受け、ピアノを習い始める。その後イエロー・マジック・オーケストラ(YMO)のアルバム『ソリッド・ステイト・サヴァイヴァー』に出会い大きな衝撃を受けると共に、以降槇原オリジナルの楽曲(特に音作りの部分)に多大なる影響を与える。中学2年からは、友人と作曲を開始。当初ボーカルは機材の少なさを埋める程度のものだったが、カーペンターズに影響を受けてボーカルの楽しさに目覚めた。製作したテープを近所のレコード店にたびたび持ち込み、「close to you」という2曲入り300円のテープが発売される事になる。これが槇原にとって人生で初めて市販された音楽となった。
1984年、当時坂本龍一が担当していたNHKのFMラジオ番組『サウンド・ストリート』のデモテープコーナーに、アーティスト名「C・M・C」で「HALF」と言う楽曲を応募する。(ちなみに、この「C・M・C」は実質槇原の1人ユニットであり、後に発売されるサンストのコンピレーションアルバム(『Demo Tape-1』後述参照)のライナーノーツにも、「作詞・作曲・歌・演奏−槇原範之」とクレジットされている。又この曲のレコーディングとミキシングエンジニアを担当していた沢田知久氏は、当時から槇原の親友で、後にメジャーデビュー後の槇原の作品のエンジニアも担当する事になる。)楽曲を聴いた坂本から「良いバランスで仕上がっている。言う事なし」と絶賛を得て、番組では異例のフルコーラスが放送された。その後、同企画での優秀作品をまとめたアルバム『Demo Tape-1』(MIDI)に収録される。
大学受験浪人中も音楽活動を続け、受験生や応援するファンの間で話題になった。ラジオ番組において、番組のスポンサーであった駿台予備校を読み上げた際に、「僕、予備校時代には駿台予備校に通っていたんですよ」と語っていた。
1990年3月 「AXIA MUSIC AUDITION '89」で、グランプリと「一万人審査員賞」を受賞。この時のサポートギタリストは寺西一雄(ローリー)。
1990年10月25日 シングル『NG』とアルバム『君が笑うとき君の胸が痛まないように』でWEAミュージック(後にワーナーミュージック・ジャパンに併合)よりデビュー。
1991年6月10日 3枚目のシングル『どんなときも。』発売。177万枚を売り上げ、シングル、アルバム通じて自身初のミリオンセラーとなった。これは現時点におけるシングルの自己最高売上記録でもある。映画『就職戦線異状なし』主題歌、ケンタッキーフライドチキンのCFソングであり、1992年春の高校野球入場行進曲にも選ばれた。また、この頃、バラエティ番組ウッチャンナンチャンのやるならやらねばの中でウッチャンナンチャンの内村光良が「ドンナトキモ槇原」という、槇原をデフォルメしたキャラクターを演じていた。
出身校である大阪府立春日丘高等学校の先輩に嘉門達夫がいる。嘉門と槇原でどちらが先に年末の『NHK紅白歌合戦』に出場するかを競ったが、槇原は1991年の同番組に出場が決定し、先を越す。(嘉門は翌1992年に出場)
1996年 全曲ネイティブ・スピーカーによる英語詞のアルバムをリリース。同アルバムからシングルカットされた楽曲のPVはイギリスのデザイン集団Me Companyが制作、CGを駆使したアニメーション作品が話題を呼ぶ。
1997年 ソニー・ミュージックエンタテインメントに移籍。
1999年8月 覚せい剤取締法違反で逮捕される。本人は300万円の保釈金によって保釈、その後に執行猶予付きの有罪判決を受けた。このときCDが発売元のレコード会社によって店頭から回収される動きがあり、ファンが買いに走ったために、過去の作品の売上が伸びるという現象が起こった。
謹慎中、美輪明宏の著書『紫の履歴書』に影響を受ける。後に、『Listen To The Music 2』において美輪の「ヨイトマケの唄」をカバーした。
2000年 以前所属していたワーナーミュージック・ジャパンに復帰移籍し、11月にアルバム『太陽』で活動再開。
2004年 東芝EMIに移籍。
2004年8月 13枚目のオリジナルアルバム『EXPLORER』とベストアルバム『Complete Recorded』が発売され、翌月にはアルバム総売上枚数が1,000万枚を突破。男性ソロ歌手としては井上陽水、長渕剛に次いで3人目であり、初チャートインから13年2ヶ月での達成は史上最速記録となった。
2006年3月 14枚目のオリジナルアルバム『LIFE IN DOWNTOWN』で、アルバム総売上枚数が井上陽水を抜き、男性ソロ歴代1位となる。

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