陰茎の大きさは個人によって様々である。陰茎の平均は、通常時8cm、勃起時14cm程度と考えられているが、確実な研究や調査は十分に成されていない。医学的にはマイクロペニス(5cm未満)でなければ、特に支障無くセックスすることが出来るとされる。
1930年代に行われた調査によると、日本人の陰茎の大きさの平均は、勃起時の長さ12.7cm、周囲の長さ11.5cm、通常時の長さ8.2cm、周囲の長さ8.5cmとなっている。また80%以上の人の勃起時の長さは11cmから15cmの間であった。この調査では恥骨結合部から尿道口まで根元の皮下脂肪を含めた長さを計測している。陰茎の長さを調査する場合、根元表面から測定する場合も多いが、その場合と比べて恥骨から測定する場合は長めのデータとなる。
なお、アメリカ合衆国、ドイツ、スペイン、フランス、日本、ブラジル、イタリア、 べネズエラ、メキシコ、ギリシャ、インド、サウジアラビア、チリ、コロンビア、韓国の15ヶ国の各国男性のペニスの平均サイズが調査されており、結果は以下の通りである。
フランス (16.7cm)、イタリア (15.0cm)、メキシコ (15.0cm)、ドイツ (14.2cm)、チリ (14.0cm)、コロンビア (13.8cm)、スペイン (13.4cm)、日本 (13.0cm)、アメリカ合衆国 (12.8cm)、ベネズエラ (12.8cm)、サウジアラビア (12.4cm)、ブラジル (12.2cm)、ギリシャ (12.2cm)、インド (10.0cm)、韓国 (9.4cm)
最近、マスコミにおいて「巨根」や「短小」などをテーマとした報道が増えているために、自分の陰茎の大きさについて心配する人が増えている。女性の本当の好みなどはまだ研究が進んでいないが、多くの女性はあまりペニスのサイズにこだわらないようだ。
日本の一部の神社では、五穀豊穣・子宝の神として、陰茎(ペニス)をご神体としているところがある。特に有名なのが、愛知県小牧市にある田縣神社(たがたじんじゃ)で、毎年3月15日に行われる「豊年祭り」では、木でできた巨大なペニス、大男茎型(おおおわせがた)を神輿に乗せて練り歩くもので、当日は外国人も含め、多くの観客が訪れるという。
関東地方では、川崎大師の近くにある「若宮八幡宮」に、子宝などの象徴としてペニスが奉られており、4月の第1日曜日に「かなまら祭り」として、ペニス神輿が練り歩く。
福岡県田川郡添田町の深倉峡には奇岩「男魂岩」があり対岸の「女岩」との間がしめ縄で結ばれている。11月には「男魂祭」が開かれる。
1930年代に行われた調査によると、日本人の陰茎の大きさの平均は、勃起時の長さ12.7cm、周囲の長さ11.5cm、通常時の長さ8.2cm、周囲の長さ8.5cmとなっている。また80%以上の人の勃起時の長さは11cmから15cmの間であった。この調査では恥骨結合部から尿道口まで根元の皮下脂肪を含めた長さを計測している。陰茎の長さを調査する場合、根元表面から測定する場合も多いが、その場合と比べて恥骨から測定する場合は長めのデータとなる。
なお、アメリカ合衆国、ドイツ、スペイン、フランス、日本、ブラジル、イタリア、 べネズエラ、メキシコ、ギリシャ、インド、サウジアラビア、チリ、コロンビア、韓国の15ヶ国の各国男性のペニスの平均サイズが調査されており、結果は以下の通りである。
フランス (16.7cm)、イタリア (15.0cm)、メキシコ (15.0cm)、ドイツ (14.2cm)、チリ (14.0cm)、コロンビア (13.8cm)、スペイン (13.4cm)、日本 (13.0cm)、アメリカ合衆国 (12.8cm)、ベネズエラ (12.8cm)、サウジアラビア (12.4cm)、ブラジル (12.2cm)、ギリシャ (12.2cm)、インド (10.0cm)、韓国 (9.4cm)
最近、マスコミにおいて「巨根」や「短小」などをテーマとした報道が増えているために、自分の陰茎の大きさについて心配する人が増えている。女性の本当の好みなどはまだ研究が進んでいないが、多くの女性はあまりペニスのサイズにこだわらないようだ。
日本の一部の神社では、五穀豊穣・子宝の神として、陰茎(ペニス)をご神体としているところがある。特に有名なのが、愛知県小牧市にある田縣神社(たがたじんじゃ)で、毎年3月15日に行われる「豊年祭り」では、木でできた巨大なペニス、大男茎型(おおおわせがた)を神輿に乗せて練り歩くもので、当日は外国人も含め、多くの観客が訪れるという。
関東地方では、川崎大師の近くにある「若宮八幡宮」に、子宝などの象徴としてペニスが奉られており、4月の第1日曜日に「かなまら祭り」として、ペニス神輿が練り歩く。
福岡県田川郡添田町の深倉峡には奇岩「男魂岩」があり対岸の「女岩」との間がしめ縄で結ばれている。11月には「男魂祭」が開かれる。
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年間10回の定期演奏会のほか、レコーディングも活発に行う。大阪市西成区岸里に専用練習場大阪フィルハーモニー会館を持ち、長年にわたり「大フィル(だいふぃる)」の愛称で親しまれている。公式サイトに掲載されている「プロフィール」によれば、「日本で一番多くレコード、CDを発表しているオーケストラ」。
創立者(現創立名誉指揮者)朝比奈隆の時代に、ブルックナーやベートーヴェンなどの交響曲の演奏で全国的に知られるようになった。1975年10月12日リンツ郊外の聖フローリアン教会でのブルックナーの交響曲第7番や、1994年7月24日サントリーホールでの交響曲第8番などの名演の多くは、今日でもCDで聴くことができる。
2003年に大植英次が音楽監督に就任し、同年5月9日及び10日のザ・シンフォニーホールでの音楽監督就任披露演奏会でマーラー交響曲第2番「復活」、2005年3月20日サントリーホールでの就任後初の東京定期演奏会でマーラー第6番「悲劇的」を取り上げ、いずれも大成功を収めた。大植英次の指揮で、定期演奏会では演奏会形式のオペラ(サムソンとデリラ(2004年)、トスカ(2005年))も披露しているほか、近代曲などもとりあげている。
朝比奈隆の時代から、ヨーロッパ(とりわけドイツ,オーストリア)のオーケストラの音に連なる、独特のいわゆる「大フィルサウンド」に固定ファンも多く、大フィルの音はすぐにわかる(ほど個性的)、と評される。朝比奈隆時代の最後は、コンサートマスターに岡田英治と梅沢和人、第二ヴァイオリンの首席に藤井允人を擁していた。2004年9月から、梅沢和人に加え、首席コンサートマスターロバート・ダヴィドヴィッチ(Robert Davidovich)、首席客演コンサートマスター長原幸太が就任。2006年4月から、首席コンサートマスター長原幸太、コンサートマスター梅沢和人の体制になった。
1947年 朝比奈隆が中心になり、関西交響楽団として設立。
1月17日 前年の10月に満州から引き揚げてきたばかりの朝比奈隆を中心に、大阪放送管弦楽団(大阪中央放送局(現在のNHK大阪放送局)所属のオーケストラ)、宝塚歌劇団、京都大学の各オーケストラの主要メンバー約70名が大阪中央放送局に結集し、新しいオーケストラ結成の意思表明を行う。いわば大フィル「旗揚げ」の日である。
3月中旬 新しく結成されたオーケストラを「関西交響楽団」と命名。
4月26日 関西交響楽団第1回定期演奏会を朝比奈隆の指揮により戦災に焼け残っていた朝日会館にて行う。関響では1953年1月の第57回定期まで定演は原則として二日公演で行われ(1950年のみ一部に一日のみ公演、一日二回公演あり)、第1回も翌27日との二日公演であった。演奏曲目は、「リエンツィ」序曲、「新世界より」他。
1950年
4月 社団法人関西交響楽協会設立。専任指揮者朝比奈隆、専務理事兼事務局長原善一郎。
1951年
1月20日 この日の初日(2回公演)から5月5,6日(6日のみ2回公演)の最終回(「フィデリオ」序曲と第9番「合唱付き」を演奏)まで5回に分けて、朝比奈隆の指揮により第1回目のベートーヴェン・チクルスを行う。会場はすべて毎日会館であった。以来、2007年現在、同年の大植英次の指揮による楽団創立60周年記念のものまで、関響・大フィルを通じてベートーヴェン・チクルスは11回を数えている。11回目の大植指揮のもの以外は圧倒的多数が朝比奈指揮による公演であるが、中にはコシュラー指揮による4番、5番(1969年1月17日)といった公演もあった。1977年の楽団創立30周年記念のチクルス以後は、すべて朝比奈隆の指揮による公演であった。
1953年 関西交響楽団として初の東京公演。
1960年
4月2日 関西交響楽団として最後となった第125回定期演奏会を朝比奈隆の指揮により毎日ホールにて行う。ソロピアニストに賀集裕子を迎え、演奏曲目はチャイコフスキーの幻想的序曲「ロミオとジュリエット」、ピアノ協奏曲第1番、交響曲第5番という、当時の朝比奈隆が最も得意としていたオール・チャイコフスキー・プロで臨み、関西交響楽団としての13年間にわたった演奏活動の掉尾を飾った。
大阪フィルハーモニー交響楽団に改称。定期公演の回数は、改称とともに改めて1から勘定している。
5月14日 大阪フィルハーモニー交響楽団第1回定期演奏会を朝比奈隆の指揮により毎日ホールにて行う。ソロヴァイオリニストに辻久子を迎え、演奏曲目は、カバレフスキー組曲「道化師」よりプロローグ、ギャロップ、ワルツ、パントマイム、スケルツォ、エピローグの6曲、ハチャトゥリアンヴァイオリン協奏曲、ショスタコーヴィチ交響曲第5番であった。この当時のコンサートマスターは小杉博英(1951年就任)。この演奏会は、大手紙の関西文化欄等において、「練習不足が目立つ」(朝日)、「前途多難」(毎日)、「演奏に熱気が感じられた」(読売)、「再建の気迫欠く」(産経)と報じられた。
1961年
6月 安田英郎がコンサートマスターに復帰。以後、1980年1月に交通事故で急逝するまで、19年間の長きにわたってコンサートマスターを務めた。
9月 初の外国人コンサートマスターとして、ブレーメン交響楽団よりマルチン・バウエルトを招聘。
1962年
3月17日 大阪フィルハーモニー交響楽団第1回東京定期演奏会を専任指揮者遠山信二の指揮により東京文化会館にて行う。ソロピアニストに小川京子を迎え、演奏曲目は、「フィンガルの洞窟」序曲、「大阪俗謡による幻想曲」、モーツァルトピアノ協奏曲ニ長調 K.537「戴冠式」、ブラームス交響曲第4番であった。
1968年
4月17日 第67回定期演奏会を朝比奈隆の指揮により行う。ソロピアニストに園田高弘を迎え、演奏曲目はR.シュトラウス「23弦楽器のための変容」、ベートーヴェンピアノ協奏曲第5番「皇帝」、ブラームス交響曲第3番であった。この回より定期演奏会の会場をフェスティバルホールから大阪厚生年金会館大ホールに移す。
1970年
9月21日 第85回定期演奏会を朝比奈隆の指揮により行う。ソロピアニストに荒憲一を迎え、演奏曲目はシューベルト交響曲第2番、ベートーヴェンピアノ協奏曲第5番「皇帝」、R.シュトラウス交響詩「ツァラトゥストラはかく語りき」であった。この回より定期演奏会の会場をフェスティバルホールに戻す。
1971年
11月4,5日 初の海外公演となる大韓民国ソウル特別演奏会をソウル市民会館にて行う。1日目の4日は朝比奈隆の指揮、2日目の5日は林元植の指揮であった。
1972年
6月5,6日 第100回定期演奏会を朝比奈隆の指揮により行う。演奏曲目はマーラー交響曲第8番「千人の交響曲」で、関西歌劇団、大阪音楽大学学生の合唱団など実際に1000人の出演者で演奏した。終演後、マーラーの高弟プリングスハイム教授は「私は1910年、ミュンヘンでこの曲の初演を聴いたが、それ以来の感激だ。」と挨拶した。
1975年
10月 第1回ヨーロッパ演奏旅行。スイス、オーストリア、西ドイツ、オランダにて20回の公演を行う。本文に記載の聖フローリアン教会でのブルックナー交響曲第7番の名演はこの時のこと。
1977年
8月25日 大阪フィルハーモニー交響楽団第1回岐阜定期演奏会を手塚幸紀の指揮により岐阜市民会館にて行う。岐阜定期演奏会は、この後、翌年の1978年のみを例外として毎年行われている(1987年のみ2回開催)。
1984年
4月24日 第200回定期演奏会を朝比奈隆の指揮により行う。演奏曲目は本邦初演となるフルトヴェングラー交響曲第2番であった。
1985年
9月6-10日 台湾演奏旅行。台中、台南、高雄、基隆、台北(日程順)の5都市において1公演ずつ行う。台湾は地理的に広くはないとはいえ、移動しながらの連夜の演奏会は楽団にとっては相当の強行軍であったことと推察される。最後の台北公演(会場は国父記念会館)のみ朝比奈隆が指揮台に上り、台北以外での指揮は朝比奈千足が務めた。
1991年
7月 大阪市西成区岸里(現在地)に「大阪フィルハーモニー会館」が完成。交響楽団、協会がともに移転。これにより、交響楽団がかねてから念願の自前の練習場を確保するとともに、楽団と協会の同居を実現した。
1995年 大植英次初めて大阪フィルを客演指揮、1996年に再度客演指揮。
1月17日 第285回定期演奏会が阪神淡路大震災のため中止となる(関響、大フィルを通じて、定期演奏会が中止となったのはもちろんこの回のみである)。幸いにも、大フィル団員およびその家族に震災による犠牲者はなかった(第286回定期演奏会プログラムの冒頭に掲載された「謹告」による)。この後、1月30日より演奏活動を再開した。
1996年
7月5日 第300回定期演奏会を朝比奈隆の指揮により行う。演奏曲目はブルックナー交響曲第8番であった。
2001年
10月24日 大阪フィルハーモニー交響楽団2001年秋名古屋演奏会を、朝比奈隆の指揮により愛知県芸術劇場コンサートホールにて行う。ソロ・ピアニストに小山実稚恵を迎え、演奏曲目はチャイコフスキーピアノ協奏曲第1番、交響曲第5番であった。終演後拍手は鳴り止まなかったが、朝比奈隆は極度の疲労のためカーテンコールに応えることができなかった。この公演の直後、体調不良により入院。病床から願い続けた復帰は遂に叶えられることがなかったため、この名古屋演奏会でのチャイコフスキーが朝比奈隆の指揮台での最後の姿となった。最後の舞台のプログラムは朝比奈がその長かった指揮者人生で一貫して得意中の得意としてきたチャイコフスキーであり、しかも、奇しくも1960年4月2日における関西交響楽団最後の定期演奏会のプログラムとほぼ同じであったことは、単なる偶然とは片付けられない運命的な巡り合わせを感じさせずにはおかない。なお、チャイコフスキーの交響曲第5番は朝比奈最後の演奏会から5年後の同月、2006年10月の第402回定期演奏会において音楽監督大植英次の指揮で演奏された。
12月29日 大阪フィルハーモニー交響楽団音楽総監督朝比奈隆逝去。享年93。
2003年 定期演奏会の会場をフェスティバルホールからザ・シンフォニーホールに移転し、2日間公演とする。
5月9,10日 大植英次音楽監督就任披露定期演奏会。
2005年
3月20日 大植英次音楽監督就任後初となる第42回東京定期演奏会。
2006年
4月29日 大阪城西の丸庭園において、大植英次の指揮により楽団史上初の野外コンサートを開催。9,300人以上を動員する一大イベントとなり、大成功を収める。演奏曲目は、「キャンディード」序曲、「惑星」より"木星"、序曲「1812年」、交響詩「ローマの松」より"アッピア街道の松"他。
7月6,7日 第400回定期演奏会を、正式の演奏会では初の客演となる大野和士の指揮により行う。ソロ打楽器奏者に中村功を迎え、演奏曲目はモーツァルト交響曲第33番(定期初演)、細川俊夫作曲打楽器協奏曲「旅人」、ショスタコーヴィチ交響曲第15番であった。
9月3-9日 大植英次のプロデュースにより、大阪フィルハーモニー協会と大阪市の主催で、「大阪クラシック-御堂筋にあふれる音楽-」の企画公演を展開。期間中、大阪市のメインストリートである御堂筋ぞいの18の会場において、大阪フィルハーモニーの団員による室内楽など計50公演(ごく一部の団員が出演しない公演をも含んだ数)を行う。大植によれば、1つのオーケストラの団員が1週間にわたって「街に出て」公演を行うというのは「僕の知る限りおそらく世界の都市で初めての試み」。主催者側の当初予想を2倍以上上回る入場者数延べ約22,000人を達成、大成功を収める。
2007年
3月28日 日本オーケストラ連盟が制定したオーケストラの日の企画として、第406回定期演奏会に向けた大阪フィルハーモニー会館における練習を公開した。曲目は秋山和慶の指揮により、ソロチェロ奏者にジャン・ワンを迎え、演奏会当日のプログラムの全曲目、エルガーチェロ協奏曲とホルスト組曲「惑星」であった(ただし、時間の関係上「惑星」は練習1コマ分を公開)。公開終了後は会館ロビーにて昔懐かしい大フィルの過去の演奏会プログラム(海外公演の時の貴重なものも含まれていた)が持ち帰り自由で提供され、殺到するファンたちの姿が見られた。
4月20日 楽団創立60周年を記念する『大阪フィルハーモニー交響楽団創立60周年記念史』を刊行。全122頁で、60年間の年譜、定期演奏会の記録や歴代団員リストのほか、貴重な記録写真や著名客演指揮者・共演者のサイン帳、現在・過去の団員のメッセージなど、多彩な内容となっている。
4月29日 昨年に引き続き、大阪城西の丸庭園において野外公演「星空コンサート」を開催。昨年をさらに上回る14,000人以上を動員、大成功を収める。大植英次の指揮により、演奏曲目は「キャンディード」序曲、映画「E. T.」 フライング・シーン、「ボレロ」、序曲「1812年」他。途中弱冠12歳の見渡風雅をソロヴァイオリン奏者に迎え、サン=サーンス「序奏とロンド・カプリチオーソ」を演奏した。
9月2-8日 昨年に引き続き、大植英次のプロデュースにより大阪クラシック実行委員会(大阪フィルハーモニー協会、大阪市、御堂筋まちづくりネットワークの三者で構成)の主催で、「大阪クラシック-御堂筋にあふれる音楽-」の企画公演を展開。期間中、大阪市のメインストリートである御堂筋ぞいの15の会場において、大阪フィルハーモニーの団員による室内楽など計60公演(ごく一部の団員が出演しない公演をも含んだ数)を行う。60公演という公演数は大阪フィルハーモニー創立60周年にちなんだものである。昨年を約6,000人上回る入場者数延べ約28,000人を達成、昨年に引き続き大成功を収める。
創立者(現創立名誉指揮者)朝比奈隆の時代に、ブルックナーやベートーヴェンなどの交響曲の演奏で全国的に知られるようになった。1975年10月12日リンツ郊外の聖フローリアン教会でのブルックナーの交響曲第7番や、1994年7月24日サントリーホールでの交響曲第8番などの名演の多くは、今日でもCDで聴くことができる。
2003年に大植英次が音楽監督に就任し、同年5月9日及び10日のザ・シンフォニーホールでの音楽監督就任披露演奏会でマーラー交響曲第2番「復活」、2005年3月20日サントリーホールでの就任後初の東京定期演奏会でマーラー第6番「悲劇的」を取り上げ、いずれも大成功を収めた。大植英次の指揮で、定期演奏会では演奏会形式のオペラ(サムソンとデリラ(2004年)、トスカ(2005年))も披露しているほか、近代曲などもとりあげている。
朝比奈隆の時代から、ヨーロッパ(とりわけドイツ,オーストリア)のオーケストラの音に連なる、独特のいわゆる「大フィルサウンド」に固定ファンも多く、大フィルの音はすぐにわかる(ほど個性的)、と評される。朝比奈隆時代の最後は、コンサートマスターに岡田英治と梅沢和人、第二ヴァイオリンの首席に藤井允人を擁していた。2004年9月から、梅沢和人に加え、首席コンサートマスターロバート・ダヴィドヴィッチ(Robert Davidovich)、首席客演コンサートマスター長原幸太が就任。2006年4月から、首席コンサートマスター長原幸太、コンサートマスター梅沢和人の体制になった。
1947年 朝比奈隆が中心になり、関西交響楽団として設立。
1月17日 前年の10月に満州から引き揚げてきたばかりの朝比奈隆を中心に、大阪放送管弦楽団(大阪中央放送局(現在のNHK大阪放送局)所属のオーケストラ)、宝塚歌劇団、京都大学の各オーケストラの主要メンバー約70名が大阪中央放送局に結集し、新しいオーケストラ結成の意思表明を行う。いわば大フィル「旗揚げ」の日である。
3月中旬 新しく結成されたオーケストラを「関西交響楽団」と命名。
4月26日 関西交響楽団第1回定期演奏会を朝比奈隆の指揮により戦災に焼け残っていた朝日会館にて行う。関響では1953年1月の第57回定期まで定演は原則として二日公演で行われ(1950年のみ一部に一日のみ公演、一日二回公演あり)、第1回も翌27日との二日公演であった。演奏曲目は、「リエンツィ」序曲、「新世界より」他。
1950年
4月 社団法人関西交響楽協会設立。専任指揮者朝比奈隆、専務理事兼事務局長原善一郎。
1951年
1月20日 この日の初日(2回公演)から5月5,6日(6日のみ2回公演)の最終回(「フィデリオ」序曲と第9番「合唱付き」を演奏)まで5回に分けて、朝比奈隆の指揮により第1回目のベートーヴェン・チクルスを行う。会場はすべて毎日会館であった。以来、2007年現在、同年の大植英次の指揮による楽団創立60周年記念のものまで、関響・大フィルを通じてベートーヴェン・チクルスは11回を数えている。11回目の大植指揮のもの以外は圧倒的多数が朝比奈指揮による公演であるが、中にはコシュラー指揮による4番、5番(1969年1月17日)といった公演もあった。1977年の楽団創立30周年記念のチクルス以後は、すべて朝比奈隆の指揮による公演であった。
1953年 関西交響楽団として初の東京公演。
1960年
4月2日 関西交響楽団として最後となった第125回定期演奏会を朝比奈隆の指揮により毎日ホールにて行う。ソロピアニストに賀集裕子を迎え、演奏曲目はチャイコフスキーの幻想的序曲「ロミオとジュリエット」、ピアノ協奏曲第1番、交響曲第5番という、当時の朝比奈隆が最も得意としていたオール・チャイコフスキー・プロで臨み、関西交響楽団としての13年間にわたった演奏活動の掉尾を飾った。
大阪フィルハーモニー交響楽団に改称。定期公演の回数は、改称とともに改めて1から勘定している。
5月14日 大阪フィルハーモニー交響楽団第1回定期演奏会を朝比奈隆の指揮により毎日ホールにて行う。ソロヴァイオリニストに辻久子を迎え、演奏曲目は、カバレフスキー組曲「道化師」よりプロローグ、ギャロップ、ワルツ、パントマイム、スケルツォ、エピローグの6曲、ハチャトゥリアンヴァイオリン協奏曲、ショスタコーヴィチ交響曲第5番であった。この当時のコンサートマスターは小杉博英(1951年就任)。この演奏会は、大手紙の関西文化欄等において、「練習不足が目立つ」(朝日)、「前途多難」(毎日)、「演奏に熱気が感じられた」(読売)、「再建の気迫欠く」(産経)と報じられた。
1961年
6月 安田英郎がコンサートマスターに復帰。以後、1980年1月に交通事故で急逝するまで、19年間の長きにわたってコンサートマスターを務めた。
9月 初の外国人コンサートマスターとして、ブレーメン交響楽団よりマルチン・バウエルトを招聘。
1962年
3月17日 大阪フィルハーモニー交響楽団第1回東京定期演奏会を専任指揮者遠山信二の指揮により東京文化会館にて行う。ソロピアニストに小川京子を迎え、演奏曲目は、「フィンガルの洞窟」序曲、「大阪俗謡による幻想曲」、モーツァルトピアノ協奏曲ニ長調 K.537「戴冠式」、ブラームス交響曲第4番であった。
1968年
4月17日 第67回定期演奏会を朝比奈隆の指揮により行う。ソロピアニストに園田高弘を迎え、演奏曲目はR.シュトラウス「23弦楽器のための変容」、ベートーヴェンピアノ協奏曲第5番「皇帝」、ブラームス交響曲第3番であった。この回より定期演奏会の会場をフェスティバルホールから大阪厚生年金会館大ホールに移す。
1970年
9月21日 第85回定期演奏会を朝比奈隆の指揮により行う。ソロピアニストに荒憲一を迎え、演奏曲目はシューベルト交響曲第2番、ベートーヴェンピアノ協奏曲第5番「皇帝」、R.シュトラウス交響詩「ツァラトゥストラはかく語りき」であった。この回より定期演奏会の会場をフェスティバルホールに戻す。
1971年
11月4,5日 初の海外公演となる大韓民国ソウル特別演奏会をソウル市民会館にて行う。1日目の4日は朝比奈隆の指揮、2日目の5日は林元植の指揮であった。
1972年
6月5,6日 第100回定期演奏会を朝比奈隆の指揮により行う。演奏曲目はマーラー交響曲第8番「千人の交響曲」で、関西歌劇団、大阪音楽大学学生の合唱団など実際に1000人の出演者で演奏した。終演後、マーラーの高弟プリングスハイム教授は「私は1910年、ミュンヘンでこの曲の初演を聴いたが、それ以来の感激だ。」と挨拶した。
1975年
10月 第1回ヨーロッパ演奏旅行。スイス、オーストリア、西ドイツ、オランダにて20回の公演を行う。本文に記載の聖フローリアン教会でのブルックナー交響曲第7番の名演はこの時のこと。
1977年
8月25日 大阪フィルハーモニー交響楽団第1回岐阜定期演奏会を手塚幸紀の指揮により岐阜市民会館にて行う。岐阜定期演奏会は、この後、翌年の1978年のみを例外として毎年行われている(1987年のみ2回開催)。
1984年
4月24日 第200回定期演奏会を朝比奈隆の指揮により行う。演奏曲目は本邦初演となるフルトヴェングラー交響曲第2番であった。
1985年
9月6-10日 台湾演奏旅行。台中、台南、高雄、基隆、台北(日程順)の5都市において1公演ずつ行う。台湾は地理的に広くはないとはいえ、移動しながらの連夜の演奏会は楽団にとっては相当の強行軍であったことと推察される。最後の台北公演(会場は国父記念会館)のみ朝比奈隆が指揮台に上り、台北以外での指揮は朝比奈千足が務めた。
1991年
7月 大阪市西成区岸里(現在地)に「大阪フィルハーモニー会館」が完成。交響楽団、協会がともに移転。これにより、交響楽団がかねてから念願の自前の練習場を確保するとともに、楽団と協会の同居を実現した。
1995年 大植英次初めて大阪フィルを客演指揮、1996年に再度客演指揮。
1月17日 第285回定期演奏会が阪神淡路大震災のため中止となる(関響、大フィルを通じて、定期演奏会が中止となったのはもちろんこの回のみである)。幸いにも、大フィル団員およびその家族に震災による犠牲者はなかった(第286回定期演奏会プログラムの冒頭に掲載された「謹告」による)。この後、1月30日より演奏活動を再開した。
1996年
7月5日 第300回定期演奏会を朝比奈隆の指揮により行う。演奏曲目はブルックナー交響曲第8番であった。
2001年
10月24日 大阪フィルハーモニー交響楽団2001年秋名古屋演奏会を、朝比奈隆の指揮により愛知県芸術劇場コンサートホールにて行う。ソロ・ピアニストに小山実稚恵を迎え、演奏曲目はチャイコフスキーピアノ協奏曲第1番、交響曲第5番であった。終演後拍手は鳴り止まなかったが、朝比奈隆は極度の疲労のためカーテンコールに応えることができなかった。この公演の直後、体調不良により入院。病床から願い続けた復帰は遂に叶えられることがなかったため、この名古屋演奏会でのチャイコフスキーが朝比奈隆の指揮台での最後の姿となった。最後の舞台のプログラムは朝比奈がその長かった指揮者人生で一貫して得意中の得意としてきたチャイコフスキーであり、しかも、奇しくも1960年4月2日における関西交響楽団最後の定期演奏会のプログラムとほぼ同じであったことは、単なる偶然とは片付けられない運命的な巡り合わせを感じさせずにはおかない。なお、チャイコフスキーの交響曲第5番は朝比奈最後の演奏会から5年後の同月、2006年10月の第402回定期演奏会において音楽監督大植英次の指揮で演奏された。
12月29日 大阪フィルハーモニー交響楽団音楽総監督朝比奈隆逝去。享年93。
2003年 定期演奏会の会場をフェスティバルホールからザ・シンフォニーホールに移転し、2日間公演とする。
5月9,10日 大植英次音楽監督就任披露定期演奏会。
2005年
3月20日 大植英次音楽監督就任後初となる第42回東京定期演奏会。
2006年
4月29日 大阪城西の丸庭園において、大植英次の指揮により楽団史上初の野外コンサートを開催。9,300人以上を動員する一大イベントとなり、大成功を収める。演奏曲目は、「キャンディード」序曲、「惑星」より"木星"、序曲「1812年」、交響詩「ローマの松」より"アッピア街道の松"他。
7月6,7日 第400回定期演奏会を、正式の演奏会では初の客演となる大野和士の指揮により行う。ソロ打楽器奏者に中村功を迎え、演奏曲目はモーツァルト交響曲第33番(定期初演)、細川俊夫作曲打楽器協奏曲「旅人」、ショスタコーヴィチ交響曲第15番であった。
9月3-9日 大植英次のプロデュースにより、大阪フィルハーモニー協会と大阪市の主催で、「大阪クラシック-御堂筋にあふれる音楽-」の企画公演を展開。期間中、大阪市のメインストリートである御堂筋ぞいの18の会場において、大阪フィルハーモニーの団員による室内楽など計50公演(ごく一部の団員が出演しない公演をも含んだ数)を行う。大植によれば、1つのオーケストラの団員が1週間にわたって「街に出て」公演を行うというのは「僕の知る限りおそらく世界の都市で初めての試み」。主催者側の当初予想を2倍以上上回る入場者数延べ約22,000人を達成、大成功を収める。
2007年
3月28日 日本オーケストラ連盟が制定したオーケストラの日の企画として、第406回定期演奏会に向けた大阪フィルハーモニー会館における練習を公開した。曲目は秋山和慶の指揮により、ソロチェロ奏者にジャン・ワンを迎え、演奏会当日のプログラムの全曲目、エルガーチェロ協奏曲とホルスト組曲「惑星」であった(ただし、時間の関係上「惑星」は練習1コマ分を公開)。公開終了後は会館ロビーにて昔懐かしい大フィルの過去の演奏会プログラム(海外公演の時の貴重なものも含まれていた)が持ち帰り自由で提供され、殺到するファンたちの姿が見られた。
4月20日 楽団創立60周年を記念する『大阪フィルハーモニー交響楽団創立60周年記念史』を刊行。全122頁で、60年間の年譜、定期演奏会の記録や歴代団員リストのほか、貴重な記録写真や著名客演指揮者・共演者のサイン帳、現在・過去の団員のメッセージなど、多彩な内容となっている。
4月29日 昨年に引き続き、大阪城西の丸庭園において野外公演「星空コンサート」を開催。昨年をさらに上回る14,000人以上を動員、大成功を収める。大植英次の指揮により、演奏曲目は「キャンディード」序曲、映画「E. T.」 フライング・シーン、「ボレロ」、序曲「1812年」他。途中弱冠12歳の見渡風雅をソロヴァイオリン奏者に迎え、サン=サーンス「序奏とロンド・カプリチオーソ」を演奏した。
9月2-8日 昨年に引き続き、大植英次のプロデュースにより大阪クラシック実行委員会(大阪フィルハーモニー協会、大阪市、御堂筋まちづくりネットワークの三者で構成)の主催で、「大阪クラシック-御堂筋にあふれる音楽-」の企画公演を展開。期間中、大阪市のメインストリートである御堂筋ぞいの15の会場において、大阪フィルハーモニーの団員による室内楽など計60公演(ごく一部の団員が出演しない公演をも含んだ数)を行う。60公演という公演数は大阪フィルハーモニー創立60周年にちなんだものである。昨年を約6,000人上回る入場者数延べ約28,000人を達成、昨年に引き続き大成功を収める。
江戸前寿司が成立するためには、酢、江戸前海で捕れる魚、醤油、ワサビが必要である。
握り鮓成立以前に早鮓と呼ばれる鮓が成立していた。この起源は明確ではなく、一説に延宝年間(1673~1680)幕府御典医松本善甫が考案したおじゃれずしが嚆矢ともされるが、乳酸発酵を待たず酢を使う鮓の原型は安土桃山時代に上方で成立していたと考えられる。更に、握り鮓成立以前の江戸中期には江戸市中に鮓屋台が出現し、錦絵等にも描かれる程早鮓は一般的なものになっていた。
酢そのものは古代に中国から伝来していたが、室町時代に料理の調味料として一般に使用されるようになり、酢の生産が拡大して広く普及するのは江戸時代である。酢の普及が鮓普及の前提条件となったわけである。握り鮨の酢として重要だったのは半田の中野家(現在の中埜家)で醸造された粕酢「山吹」であった。この酢は酒粕から作られた赤酢で旨味もあり、両国の與兵衛鮓でも昭和初期に店を閉める迄この酢を使っていた。従来の酢は酒を造り更に酢酸発酵させるためコストが掛かったが、酒粕を原料とする「山吹」は酢の製造コスト削減に寄与し、早鮓普及の一因となった。最近ミツカンから復刻商品が発売されている。
握り鮓には江戸前海で捕れる魚が必須だが、冷蔵庫のなかった当時、生のままでは鮓種にせず、煮る(穴子、蛤、白魚、車蝦、等)、酢で絞める(小鰭、鯵、等)、醤油に漬ける(鮪)等の加工が加えられていた。魚だけでなく玉子焼きや、干瓢等も用いられており、鮓種に関しては現代江戸前鮨より寧ろ現代上方鮓に近い。因みに生魚が鮨種の主役の地位に躍り出るのは冷蔵設備が発達してから。尚、江戸前とは江戸前海で捕れる鰻に限定して用いられていたが江戸前海の魚にも拡大して用いられるようになった。
日本人は古くから生の魚を食べてきたようだが、刺身という言葉が登場するのは室町時代。江戸時代に醤油の大量生産が始まり、刺身に醤油を付けて食べるようになった。但し、江戸末期に至る迄江戸では鯛や鮃等の白身魚は煎り酒で食べるのが普通であった。醤油は紀州等から製法が伝えられた後独自の改良が加えられ野田や銚子で盛んに生産されていた。
ワサビは山野に自生する植物で、古くから調味料として用いられているが、江戸時代に駿河で栽培が始まり、薬味としてわさびが欠かせないものとなる。握り鮨にわさびを挟む工夫をしたのも華屋與兵衛といわれる。天保の改革で與兵衛鮓は贅沢過ぎるとして與兵衛等は手鎖の刑に処せられワサビ使用禁止となった。この禁制は幕末迄続く。
尚、鮪が用いられるようになったのは天保年間に江戸近郊で鮪が大量に捕れて以来。與兵衛鮓では昭和の初期に店を閉める迄当時下魚とされていた鮪は用いなかった。今日「鮨種の王」とされる鮪は主に屋台店で用いれていたに過ぎない。因みに当時最も高価な鮨種は玉子焼きで他の鮨種の2倍した。
守貞謾稿によれば文政末には大阪にも伝わり嘉永初めには大阪諸所に広まった。これが第一期。
明治後も江戸前寿司は東京を中心に作られていたが、関東大震災で東京の寿司職人が全国に散らばり、江戸前の寿司屋が各地に広まった。これが第二期。
戦中・戦後の食糧統制で、自由な鮓店営業が出来なくなった。米一合を持ち込むと手間賃と引き換えに握り鮨10個に加工するという委託加工制によって巷の鮓屋が息を吹き返した。この際、握り鮨だけが許可されたことから握り鮨が全国を席巻することとなった。これが第三期。
食糧統制がなくなって以降江戸前と称する鮓が不動の地位を獲得するに至った最大の要因として、冷蔵・冷凍技術の発達と流通の発展が挙げられる。東京では既に内店の流れを汲む高級店は昭和初期に絶滅し屋台店の流れを汲む店だけになっていた。鮪は明治時代には人気の鮨種になっており、鮪だけでなく鯛や鮃等も生で供するようになっていったと考えられる。冷蔵・冷凍技術と流通の発展により、従来は火を通していた烏賊や鮑が生で使われるようになったし、酢絞めしていた鯵や細魚も生もしくは酢洗いで供するようになった。時代を追うに従って世界中の海産物を生で鮨種に利用出来るようになり、回転寿司等の廉価店が爆発的に普及した。今日では伝統的な鮓文化を誇った京大阪でも江戸前握り鮨が鮓の標準たる地位を獲得している。江戸前握り鮨普及は必ずしも「東京から地方へ」といった一方通行ではない。舎利に砂糖を入れて保湿効果を高めたり、出汁巻きを採用したりと、関西流儀が全国標準になったものもある。烏賊の包丁捌きや塩の利用等博多流儀も全国標準になりつつある。更にはsushiが世界遍く普及しつつある。これが第四期。
本来江戸前とされてきた鮨から一歩も二歩も進化、或いは変化したものになったことは否めない。創業者を自認した者から見たら鮪なんて屋台店でしか使わない下魚に過ぎなかったし、戦前の江戸前鮨屋から見たら烏賊や鯵を生のまま使うなんて手抜きに過ぎなかった。甘い舎利や海外経由で入ってきた「裏巻き」に眉を顰める向きも少なくない。
握り鮓成立以前に早鮓と呼ばれる鮓が成立していた。この起源は明確ではなく、一説に延宝年間(1673~1680)幕府御典医松本善甫が考案したおじゃれずしが嚆矢ともされるが、乳酸発酵を待たず酢を使う鮓の原型は安土桃山時代に上方で成立していたと考えられる。更に、握り鮓成立以前の江戸中期には江戸市中に鮓屋台が出現し、錦絵等にも描かれる程早鮓は一般的なものになっていた。
酢そのものは古代に中国から伝来していたが、室町時代に料理の調味料として一般に使用されるようになり、酢の生産が拡大して広く普及するのは江戸時代である。酢の普及が鮓普及の前提条件となったわけである。握り鮨の酢として重要だったのは半田の中野家(現在の中埜家)で醸造された粕酢「山吹」であった。この酢は酒粕から作られた赤酢で旨味もあり、両国の與兵衛鮓でも昭和初期に店を閉める迄この酢を使っていた。従来の酢は酒を造り更に酢酸発酵させるためコストが掛かったが、酒粕を原料とする「山吹」は酢の製造コスト削減に寄与し、早鮓普及の一因となった。最近ミツカンから復刻商品が発売されている。
握り鮓には江戸前海で捕れる魚が必須だが、冷蔵庫のなかった当時、生のままでは鮓種にせず、煮る(穴子、蛤、白魚、車蝦、等)、酢で絞める(小鰭、鯵、等)、醤油に漬ける(鮪)等の加工が加えられていた。魚だけでなく玉子焼きや、干瓢等も用いられており、鮓種に関しては現代江戸前鮨より寧ろ現代上方鮓に近い。因みに生魚が鮨種の主役の地位に躍り出るのは冷蔵設備が発達してから。尚、江戸前とは江戸前海で捕れる鰻に限定して用いられていたが江戸前海の魚にも拡大して用いられるようになった。
日本人は古くから生の魚を食べてきたようだが、刺身という言葉が登場するのは室町時代。江戸時代に醤油の大量生産が始まり、刺身に醤油を付けて食べるようになった。但し、江戸末期に至る迄江戸では鯛や鮃等の白身魚は煎り酒で食べるのが普通であった。醤油は紀州等から製法が伝えられた後独自の改良が加えられ野田や銚子で盛んに生産されていた。
ワサビは山野に自生する植物で、古くから調味料として用いられているが、江戸時代に駿河で栽培が始まり、薬味としてわさびが欠かせないものとなる。握り鮨にわさびを挟む工夫をしたのも華屋與兵衛といわれる。天保の改革で與兵衛鮓は贅沢過ぎるとして與兵衛等は手鎖の刑に処せられワサビ使用禁止となった。この禁制は幕末迄続く。
尚、鮪が用いられるようになったのは天保年間に江戸近郊で鮪が大量に捕れて以来。與兵衛鮓では昭和の初期に店を閉める迄当時下魚とされていた鮪は用いなかった。今日「鮨種の王」とされる鮪は主に屋台店で用いれていたに過ぎない。因みに当時最も高価な鮨種は玉子焼きで他の鮨種の2倍した。
守貞謾稿によれば文政末には大阪にも伝わり嘉永初めには大阪諸所に広まった。これが第一期。
明治後も江戸前寿司は東京を中心に作られていたが、関東大震災で東京の寿司職人が全国に散らばり、江戸前の寿司屋が各地に広まった。これが第二期。
戦中・戦後の食糧統制で、自由な鮓店営業が出来なくなった。米一合を持ち込むと手間賃と引き換えに握り鮨10個に加工するという委託加工制によって巷の鮓屋が息を吹き返した。この際、握り鮨だけが許可されたことから握り鮨が全国を席巻することとなった。これが第三期。
食糧統制がなくなって以降江戸前と称する鮓が不動の地位を獲得するに至った最大の要因として、冷蔵・冷凍技術の発達と流通の発展が挙げられる。東京では既に内店の流れを汲む高級店は昭和初期に絶滅し屋台店の流れを汲む店だけになっていた。鮪は明治時代には人気の鮨種になっており、鮪だけでなく鯛や鮃等も生で供するようになっていったと考えられる。冷蔵・冷凍技術と流通の発展により、従来は火を通していた烏賊や鮑が生で使われるようになったし、酢絞めしていた鯵や細魚も生もしくは酢洗いで供するようになった。時代を追うに従って世界中の海産物を生で鮨種に利用出来るようになり、回転寿司等の廉価店が爆発的に普及した。今日では伝統的な鮓文化を誇った京大阪でも江戸前握り鮨が鮓の標準たる地位を獲得している。江戸前握り鮨普及は必ずしも「東京から地方へ」といった一方通行ではない。舎利に砂糖を入れて保湿効果を高めたり、出汁巻きを採用したりと、関西流儀が全国標準になったものもある。烏賊の包丁捌きや塩の利用等博多流儀も全国標準になりつつある。更にはsushiが世界遍く普及しつつある。これが第四期。
本来江戸前とされてきた鮨から一歩も二歩も進化、或いは変化したものになったことは否めない。創業者を自認した者から見たら鮪なんて屋台店でしか使わない下魚に過ぎなかったし、戦前の江戸前鮨屋から見たら烏賊や鯵を生のまま使うなんて手抜きに過ぎなかった。甘い舎利や海外経由で入ってきた「裏巻き」に眉を顰める向きも少なくない。
魚拓を人間の女性で行うものである。魚拓には直接法と間接方があるが、女拓はもっぱら直接法が好まれる。全身に墨やペンキを塗り大きな和紙や布を押し当てるか、それらの上に横たわることで、写し取る。手軽に部分だけで行う場合もある。モノクロコピー機を使った場合は、出来上がりの見た目が似ているので、拓と命名されるが、本来別モノである。 唇でやったばあいは、キスマークと呼ばれ、唇拓とは言わない。
芸術家イブ・クラインが行った人体測定が有名。日本では女芸人の雛形あきこがプロモーションの手段として、首から下での水着着用で女拓を取り、タオルケットとして複製し、販売された。他、CMタレントの小泉今日子が結婚前に、人体計測の真似事をやり、その様子を撮影した写真を写真集に掲載したこともある。 アダルトビデオでは、タレントをペンキでカラフルに塗りたくり、シーツを押し当て、実物のシーツを懸賞商品とした例もある。女性に墨やペンキを塗りたくることが目的の場合は女拓とは呼ばず、ボディーペイントの一種と見なす。
NHKの番組にんげんドキュメントの2005年7月8日放送の「オリジナルを突っ走れ~現代美術家 嶋本昭三」において、現代美術家・嶋本昭三による女拓の映像が流れた。モデルは成人女性一人と、母親と幼い娘の二人組。母子が全裸で抱き合う姿が写しとられた。
その際、モデルとなった女性の乳首がそのまま流れたこと、そして何よりも幼女の裸が公開されたことが、インターネット上(主に2ちゃんねる)を中心に話題になった。
7月14日深夜の再放送では大幅に編集が加えられ、女性の乳首はトリミングされ、幼女の裸はバッサリカットされてしまった。これに対しては、ネット上で阿鼻叫喚が観測された他、「芸術として放送したのならこのような改変は不要であるはず」「こんなNHKはやっぱりいらない!」。との批判を受けている。
芸術家イブ・クラインが行った人体測定が有名。日本では女芸人の雛形あきこがプロモーションの手段として、首から下での水着着用で女拓を取り、タオルケットとして複製し、販売された。他、CMタレントの小泉今日子が結婚前に、人体計測の真似事をやり、その様子を撮影した写真を写真集に掲載したこともある。 アダルトビデオでは、タレントをペンキでカラフルに塗りたくり、シーツを押し当て、実物のシーツを懸賞商品とした例もある。女性に墨やペンキを塗りたくることが目的の場合は女拓とは呼ばず、ボディーペイントの一種と見なす。
NHKの番組にんげんドキュメントの2005年7月8日放送の「オリジナルを突っ走れ~現代美術家 嶋本昭三」において、現代美術家・嶋本昭三による女拓の映像が流れた。モデルは成人女性一人と、母親と幼い娘の二人組。母子が全裸で抱き合う姿が写しとられた。
その際、モデルとなった女性の乳首がそのまま流れたこと、そして何よりも幼女の裸が公開されたことが、インターネット上(主に2ちゃんねる)を中心に話題になった。
7月14日深夜の再放送では大幅に編集が加えられ、女性の乳首はトリミングされ、幼女の裸はバッサリカットされてしまった。これに対しては、ネット上で阿鼻叫喚が観測された他、「芸術として放送したのならこのような改変は不要であるはず」「こんなNHKはやっぱりいらない!」。との批判を受けている。
TBSが9月28日から10月6日まで、番組と携帯サイトを連動させて商品・賞金総額500万円以上をかけた異例の大型企画「スーパー☆ケータイ! ウィーク」を行うことになった。過去最大の大盤振る舞いとなる。
対象となる番組は「オールスター感謝祭」などTBSでおなじみの5番組。それぞれの番組内で出されるクイズの解答や優勝者予想などをTBSの携帯サイトから行う。「オールスター―」では優勝賞金50万円、「―ブランチ」では乗用車も当たる賞品が用意。
TBSは5月に携帯向けのサーバーを強化し、アクセスの集中にも十分対応できる態勢で、計150万人の参加を見込んでいる。
TBS
日本の民放の先駆者として有名な存在で、1980年代までは、ドラマ・バラエティー・報道の各分野で高く評価され「民放の雄」「民放のNHK」「ドラマのTBS」「報道のTBS」と称されていた。しかし、80年代後半から1990年代にかけて、社内の官僚的体質により、斜陽の時代を迎えた。
その打開策として、1992年に行われたバラエティ&クイズ番組大改革(『わくわく動物ランド』『クイズダービー』『クイズ100人に聞きました』等、視聴率の高低、地域差などにもかかわらず、当時放送されていた1970年代〜1980年代前半からの人気長寿番組を次々と打ち切り、1992年10月から月曜〜木曜の19時台を『ムーブ』と呼ばれるバラエティ番組枠とした)が結果的に失敗したこと、さらに1996年に発覚した「TBSビデオ事件」をはじめとした不祥事が多発した影響もあり、視聴率に関しては「冬の時代」を迎えることとなった。
2001年ごろから、スポーツの「K-1 WORLD MAX」、「プロボクシング・亀田興毅戦独占中継」などにより視聴率が90年代の「冬の時代」よりは持ち直している。しかし、現在もレギュラー番組に弱みがある(後述)。
低迷する視聴率とは別に、質の高い番組が多いことで著名な局でもあり、放送関係の各賞の受賞回数は上位に位置する。天気予報に力を入れており、民放初の「八丈島のIP方式の天カメ(2004年)」や「動く天気図」・「コンピュータでの雨足予想(雨足くん)」などTBSによって生まれたものがよくある。今では当たり前となった「気温の前日比」もTBSが初めて行ったもの。また1980年代に「8時の空」という10分の気象情報番組では、各地の天気カメラをつなぐ「お天気カメラリレー」を開始。
2005年3月末をもって、視聴率不振が続く『ウォッチ!』『(特)情報とってもインサイト』『ジャスト』『JNNニュースの森』などの平日ベルト番組を終了させるかつてない改編、通称「TBSの変」を敢行した。
『ウォッチ!』の後枠にはみのもんた司会の『みのもんたの朝ズバッ!』がスタート。
『とってもインサイト』の後枠には『きょう発プラス!』を昼のJNNニュースと統合・拡大して2時間番組として開始。
夕方ニュース枠は『イブニング・ファイブ(JNN枠は『JNNイブニング・ニュース』として区別)』として他局に追随し2時間のワイド編成となった。
2006年4月3日からは『ジャスト』を終了して以降、再放送枠になっていた平日14時台に、1年ぶりの生情報番組『2時ピタッ!』がスタートした。
『朝ズバッ!』『イブニング・ファイブ』は成功し番組は軌道に乗ったものの、『きょう発』『2時ピタッ』は視聴率で苦戦し、双方の番組出演者・スタッフが担当する時間帯を一部入れ替えた形で、『ピンポン!』『2時っチャオ!』を2006年10月2日よりスタートさせた。
近年、TBSが製作するテレビアニメ番組は自局または子会社のBSデジタルテレビ放送局・BS-iの、共に深夜枠(深夜アニメ)がほとんどである。
TBS(JNN)ネットワークのアニメーション番組を長年支えてきたのは在阪準キー局の毎日放送(MBS)であり、本放送以来約10年ぶりにゴールデン帯で再放送された『まんが日本昔ばなし』をはじめ、最近では『機動戦士ガンダムSEED』や『鋼の錬金術師』など数多くの人気作品を製作してきた。
また最近ではTBSが製作に携わりながら、当のTBSでは放映せずUHFアニメとして放映される作品もある(ただし、BS-iなどTBS関連の衛星放送局で放映することがあるほか、過去にはRKB毎日放送で放映した作品もあった)。
2007年10月より放映される『灼眼のシャナII (Second) 』は、UHFアニメ(第1期はMBSが幹事局担当のUHFアニメだった)史上初めて続編を在京キー局系列で放映する予定である(その逆は何度かあった)。
近年まで毎日放送(MBS)・中部日本放送(CBC)製作深夜アニメの逆ネットには消極的だったが、2006年4月以降は両局ともに1本ずつ逆ネットしている。
TBSが制作していた特撮番組としては「ウルトラマン」シリーズが有名であるが、時間帯などの関係で「平成ウルトラマン」シリーズと呼ばれる「ウルトラマンティガ」〜「ウルトラマンコスモス」はMBS、「ウルトラマンネクサス」以降はCBC制作となっている。
また、仮面ライダーストロンガー以降の仮面ライダーシリーズの放映権も持っていたが(制作は初代シリーズからのMBS)、2000年に製作された「平成ライダーシリーズ」の第一作となる仮面ライダークウガからは、共同制作している東映が大株主であるテレビ朝日が制作・放送している。
日本の民放テレビ局では最後まで消費者金融会社のコマーシャル(CM)を解禁していなかったが、2001年4月1日に解禁した。当時、ラジオでは既にCMを解禁していたがテレビは「ビデオ問題」の反省と、当時の消費者金融会社の企業体質がネックとなっていた。
テレビとは逆に、TBSラジオの聴取率は首都圏聴取率調査の首位を継続して獲得している。
他局と合同出資した会社(フジテレビジョンとの合同出資によるム・ーハや、フジおよびテレビ朝日との合同出資によるトレソーラ)を設立するなど、他のキー局との交流もある。
赤坂本社内のスタジオ(報道用のNスタ・Sスタを除く)については、労働組合との深夜労働に関する取り決めの関係から、事前に延長使用届を提出していない場合24時に強制的に照明の電源が落とされる。そのため通常の番組収録では24時前に収録が終了するようにスケジュールを組むが、最近では『うたばん』など逆にそれを積極的に活用(というよりも笑いの要素の一つに利用)する番組も現れている。
対象となる番組は「オールスター感謝祭」などTBSでおなじみの5番組。それぞれの番組内で出されるクイズの解答や優勝者予想などをTBSの携帯サイトから行う。「オールスター―」では優勝賞金50万円、「―ブランチ」では乗用車も当たる賞品が用意。
TBSは5月に携帯向けのサーバーを強化し、アクセスの集中にも十分対応できる態勢で、計150万人の参加を見込んでいる。
TBS
日本の民放の先駆者として有名な存在で、1980年代までは、ドラマ・バラエティー・報道の各分野で高く評価され「民放の雄」「民放のNHK」「ドラマのTBS」「報道のTBS」と称されていた。しかし、80年代後半から1990年代にかけて、社内の官僚的体質により、斜陽の時代を迎えた。
その打開策として、1992年に行われたバラエティ&クイズ番組大改革(『わくわく動物ランド』『クイズダービー』『クイズ100人に聞きました』等、視聴率の高低、地域差などにもかかわらず、当時放送されていた1970年代〜1980年代前半からの人気長寿番組を次々と打ち切り、1992年10月から月曜〜木曜の19時台を『ムーブ』と呼ばれるバラエティ番組枠とした)が結果的に失敗したこと、さらに1996年に発覚した「TBSビデオ事件」をはじめとした不祥事が多発した影響もあり、視聴率に関しては「冬の時代」を迎えることとなった。
2001年ごろから、スポーツの「K-1 WORLD MAX」、「プロボクシング・亀田興毅戦独占中継」などにより視聴率が90年代の「冬の時代」よりは持ち直している。しかし、現在もレギュラー番組に弱みがある(後述)。
低迷する視聴率とは別に、質の高い番組が多いことで著名な局でもあり、放送関係の各賞の受賞回数は上位に位置する。天気予報に力を入れており、民放初の「八丈島のIP方式の天カメ(2004年)」や「動く天気図」・「コンピュータでの雨足予想(雨足くん)」などTBSによって生まれたものがよくある。今では当たり前となった「気温の前日比」もTBSが初めて行ったもの。また1980年代に「8時の空」という10分の気象情報番組では、各地の天気カメラをつなぐ「お天気カメラリレー」を開始。
2005年3月末をもって、視聴率不振が続く『ウォッチ!』『(特)情報とってもインサイト』『ジャスト』『JNNニュースの森』などの平日ベルト番組を終了させるかつてない改編、通称「TBSの変」を敢行した。
『ウォッチ!』の後枠にはみのもんた司会の『みのもんたの朝ズバッ!』がスタート。
『とってもインサイト』の後枠には『きょう発プラス!』を昼のJNNニュースと統合・拡大して2時間番組として開始。
夕方ニュース枠は『イブニング・ファイブ(JNN枠は『JNNイブニング・ニュース』として区別)』として他局に追随し2時間のワイド編成となった。
2006年4月3日からは『ジャスト』を終了して以降、再放送枠になっていた平日14時台に、1年ぶりの生情報番組『2時ピタッ!』がスタートした。
『朝ズバッ!』『イブニング・ファイブ』は成功し番組は軌道に乗ったものの、『きょう発』『2時ピタッ』は視聴率で苦戦し、双方の番組出演者・スタッフが担当する時間帯を一部入れ替えた形で、『ピンポン!』『2時っチャオ!』を2006年10月2日よりスタートさせた。
近年、TBSが製作するテレビアニメ番組は自局または子会社のBSデジタルテレビ放送局・BS-iの、共に深夜枠(深夜アニメ)がほとんどである。
TBS(JNN)ネットワークのアニメーション番組を長年支えてきたのは在阪準キー局の毎日放送(MBS)であり、本放送以来約10年ぶりにゴールデン帯で再放送された『まんが日本昔ばなし』をはじめ、最近では『機動戦士ガンダムSEED』や『鋼の錬金術師』など数多くの人気作品を製作してきた。
また最近ではTBSが製作に携わりながら、当のTBSでは放映せずUHFアニメとして放映される作品もある(ただし、BS-iなどTBS関連の衛星放送局で放映することがあるほか、過去にはRKB毎日放送で放映した作品もあった)。
2007年10月より放映される『灼眼のシャナII (Second) 』は、UHFアニメ(第1期はMBSが幹事局担当のUHFアニメだった)史上初めて続編を在京キー局系列で放映する予定である(その逆は何度かあった)。
近年まで毎日放送(MBS)・中部日本放送(CBC)製作深夜アニメの逆ネットには消極的だったが、2006年4月以降は両局ともに1本ずつ逆ネットしている。
TBSが制作していた特撮番組としては「ウルトラマン」シリーズが有名であるが、時間帯などの関係で「平成ウルトラマン」シリーズと呼ばれる「ウルトラマンティガ」〜「ウルトラマンコスモス」はMBS、「ウルトラマンネクサス」以降はCBC制作となっている。
また、仮面ライダーストロンガー以降の仮面ライダーシリーズの放映権も持っていたが(制作は初代シリーズからのMBS)、2000年に製作された「平成ライダーシリーズ」の第一作となる仮面ライダークウガからは、共同制作している東映が大株主であるテレビ朝日が制作・放送している。
日本の民放テレビ局では最後まで消費者金融会社のコマーシャル(CM)を解禁していなかったが、2001年4月1日に解禁した。当時、ラジオでは既にCMを解禁していたがテレビは「ビデオ問題」の反省と、当時の消費者金融会社の企業体質がネックとなっていた。
テレビとは逆に、TBSラジオの聴取率は首都圏聴取率調査の首位を継続して獲得している。
他局と合同出資した会社(フジテレビジョンとの合同出資によるム・ーハや、フジおよびテレビ朝日との合同出資によるトレソーラ)を設立するなど、他のキー局との交流もある。
赤坂本社内のスタジオ(報道用のNスタ・Sスタを除く)については、労働組合との深夜労働に関する取り決めの関係から、事前に延長使用届を提出していない場合24時に強制的に照明の電源が落とされる。そのため通常の番組収録では24時前に収録が終了するようにスケジュールを組むが、最近では『うたばん』など逆にそれを積極的に活用(というよりも笑いの要素の一つに利用)する番組も現れている。