忍者ブログ
[PR]
×

[PR]上記の広告は3ヶ月以上新規記事投稿のないブログに表示されています。新しい記事を書く事で広告が消えます。


2025/04/22 10:40 |
ルチアーノ・パヴァロッティ
イタリアのモデナ生まれ。父親はパン焼職人の傍ら、才能あるアマチュア・テノール歌手でもあった。同郷で同い歳の名ソプラノ歌手、ミレッラ・フレーニとは幼なじみの上、同じ乳母によって育てられた。師範学校を卒業後、声楽を学ぶ。

1961年にレッジョ・エミーリアの声楽コンクールで優勝し、同年4月29日、同地の市立劇場で『ラ・ボエーム』のロドルフォ役を歌い、オペラの初舞台を踏んだ。この役はその後彼の十八番となり、1963年にはウィーン国立歌劇場とロンドンのロイヤル・オペラ・ハウス(コヴェント・ガーデン)に、1964年にはミラノ・スカラ座にそれぞれロドルフォを歌ってデビューを飾っている。1964年にはオペラ・アリア集をデッカ社に録音、レコード・デビューも果たす。

1965年2月、マイアミでジョーン・サザーランドと『ランメルモールのルチア』に出演して米国にデビューした。1967年、サザーランドとその夫の指揮者リチャード・ボニングと共演のベッリーニ作曲「ベアトリーチェ・ディ・テンダ」全曲盤でオロンベッロを歌い、初めて歌劇全曲盤録音に参加(デッカ)。1968年、やはりロドルフォでニューヨークのメトロポリタン歌劇場にもデビュー。

彼が世界的名声を不動のものとしたのは1972年2月17日にメトロポリタン歌劇場でドニゼッティの『連隊の娘』に出演したときで、パヴァロッティはトニオ役のアリアでハイ-C(高い「ハ」音)を9回苦もなく歌ってのけ、聴衆を熱狂させたのである。輝かしい高音を持つリリック・テノールとして彼は名声を確立し、「キング・オブ・ハイC」という異名をとるに至った(このニックネームは彼が録音したアリア集の題名に由来する)。

きらめく高音で一世を風靡する一方、パヴァロッティは軽やかな美しさと共に強い響きもそなえた声質を生かし、レパートリーの拡充を計画。1970年に録音でリッカルド(ヴェルディの『仮面舞踏会』)に挑戦したのを皮切りに、より劇的な歌唱を必要とされるスピント系諸役へと進出し、評価を得た。その後、声質が重く変化していく(このため高音の輝かしさには翳りがでたが)につれスピント系の役を増やし、ヴェリズモ時代までの歌劇をレパートリーに加えている。

パヴァロッティはしばしばテレビに出演して大衆的な名声を得た。たとえば1977年3月の番組『ライブ・フロム・メト』に初めて出演してロドルフォを歌い、かつてテレビで放送されたオペラ上演中最大級の視聴者を魅了した。

1990年代、パヴァロッティは野外コンサートをしばしば開き、多くの聴衆を集めたことでも知られる。ロンドンのハイド・パークで行われた最初のコンサートはテレビで放送され、公園の歴史上初のクラシック演奏会となり、15万人という記録的な人数の聴衆を動員した。1993年6月にはニューヨークのセントラル・パークの大庭園で行われた彼の演奏会には50万人が集まり、テレビでもさらに数百万人がこれを視聴した。続いて9月にはパリのエッフェル塔の下でコンサートを開催、推定30万人を集めた。しかし、もっともよく知られているのはかつてのライバルドミンゴ、カレーラスとともに開いた「三大テノール」コンサートで、演奏会のCDやビデオテープの売上げはプレスリーやローリング・ストーンズをしのいだ。2001年にパヴァロッティはケネディ・センター名誉賞を受けている。

パヴァロッティは故・ダイアナ妃と親しく、世界の地雷除去のために寄付もしている。彼はダイアナ妃の葬儀で歌うよう招待されたが、とても悲しくて歌うことはできないとこれを辞退した。

2004年3月、69歳でメトロポリタン歌劇場において『トスカ』のカヴァラドッシ役を演じた。これを最後にオペラ上演からは引退。また同年より、世界中を巡る引退コンサート・ツアーを開始(東京からスタート)。

2006年のトリノオリンピックの開会式では『トゥーランドット』の「誰も寝てはならぬ」を歌い、開会式の掉尾に花を添えたが、結局これが彼にとって人生最後のステージとなった。同年、膵臓がんが見つかり手術を受けたが、2007年9月6日、モデナの自宅にて腎不全により71歳で死去した。

同年9月8日、モデナの大聖堂で葬儀が行われ、プローディイタリア首相、アナン前国連事務総長、ボノ(U2)などの著名人も参列し、市民ら約10万人も集まり弔意を表した。

パヴァロッティは元来、リリコ・レッジェーロ(叙情的で軽やかな表現に適した声質)と呼ばれる声質のテノールである。先述のようにデビュー後名声を築いていった1960年代は、高音が最大限に映えるドニゼッティ、ベッリーニなどのいわゆる“ベル・カント・オペラ”がレパートリーの中核をなし、これらの作品の上演、録音により、彼は世界有数のテノールという評価を確立した。当時の彼のレパートリーにおいて、ヴェルディなどベル・カント以降の作品も高音が特に必要とされる役が多くを占めていた。

やがて1970年代以降、パヴァロッティは劇的なスピント系の役に進出していく。一例としてヴェルディ作品を見ると、彼がヴェルディ作品で歌った役は高音を必要とする3つの役だったが、前記のリッカルドや、1975年にはマンリーコ(『トロヴァトーレ』)、1981年にはラダメス(『アイーダ』)にそれぞれ挑戦、91年には演奏会形式で、古今の歌劇の中でも特に重厚な歌唱を要求される『オテロ』(同名作品)を歌い、92年に歌った『ドン・カルロ』(同名作品)までの挑戦を経て、彼の歌ったヴェルディ諸役は13に増えた(そのうち12のヴェルディ作品については録音している)。

パヴァロッティがスピント系の役をレパートリーに加えていくに当たって、元来スピント系の声質でないことに由来する劇性の不足を補う意図から、アクセントの強調などを歌唱に取り入れていく様になった。このある種の誇張が後輩歌手たちにも影響があったといわれており、賛否のあるところである。どう評価するにしても、その美声をもって歌われたすべてのレパートリーはやはり彼にしかなし得ない歌唱であったことは確かであろうと思われる。

録音では初録音以来デッカ・レコードと長く信頼関係を築いており、デッカ・レコードの歌劇録音には欠かせない看板歌手として親しまれ、レパートリーの殆んどを同社に録音している。

PR

2007/09/15 13:20 | 未分類
長崎バイオパーク
長崎オランダ村(現キャスビレッジ)に先立って1980年11月に開園した。

大型の肉食動物は飼育していないが、リャマ、カピバラ、リスザルなど哺乳類を中心に淡水魚、昆虫類まで多数飼育している。また、1994年には日本で初めてカバの人工哺育に成功した。

園内は檻などが少なく、キツネザルやシマウマなどを除いてほとんどの動物を間近で見ることができ、餌付けもできる。他のゾーンとの仕切りは低い塀や水路、暗い通路などで、それぞれの動物の習性により他のゾーンへ逃げ出すことは少ないが、カピバラやマーラなどはたまに他の区域に現れる。

園内は順路に沿って歩いて観覧する。12のゾーンに分かれているが、そのうち最初の4つは往路と復路の両方で通る。また、園全体が雑木林と照葉樹林内にあり、在来の動物も見かけられる。

トトーラの池 - ハクチョウ、マナヅルなど。冬季には野生のカモ類が飛来し、トモエガモやアメリカヒドリも記録がある。池の中にはクモザルのやぐらが建つ
インカの石積み - 熱帯館に通じる階段とスロープ。リャマ、コンゴウインコなど
熱帯館 - 南アメリカの熱帯雨林を中心とした各種植物、オオコウモリ、カメ、オオゴマダラなど
アマゾン館 - 二段構造になっている。往路では水槽上のオオハシ、グリーンイグアナ、ナマケモノなどの陸上動物、復路では水槽内のナマズ、シクリッド、コロソマ、ピラルクー、淡水エイなど大型淡水魚がみられる
そうしの滝とフラミンゴの池 - キツネザル、カワウソ、マゼランペンギンなどがいる坂を上るとフラミンゴの区域がある
アンデス広場とラマの岩山 - プレーリードッグ、リャマなど。レストラン、昆虫館などもここにある
昆虫館 - 日本産は勿論、世界各地のカブトムシ・クワガタムシの生体・標本が多く展示されている
カピバラの池とオマキザルの島 - 足もとでカピバラが寝転がっている
シャボテン・ロックガーデン - シロサイ、ハナグマ、ヤマアラシ、シマスカンクなど
アライグマとレッサーパンダの丘 - リクガメ、ミーアキャットなど。区域内はパタゴニアに分布するげっ歯類・マーラが歩き回っている
キリンとシマウマの見える坂道 - ダチョウなど
カンガルーの丘とリスザルの森 - ワラビー、エミューの区域を過ぎるとリスザルが頭上を跳びまわる区域がある
カバの池とキツネザルの島 - カバ一家の池を上から眺められる

カバの「モモ」
「モモ」は、長崎バイオパークで人工哺育によって育てられたカバである。

1994年3月6日に誕生したが、ふつうのカバは水中で出産するところを陸上で産み落とされたため、子カバ(モモ)は動くことができず衰弱していった。ここで職員が子カバをとり上げ、人工哺育が始まる。

しかし人工哺育されたため、その年の5月に池に戻っても水を恐れて泳げなかった。ここでも職員が泳ぎの訓練をおこなう。6月1日には公募によって「モモ」という名前がつけられた。

最初は水に入っても鼻孔や耳を閉じることができなかったが、訓練を経て泳げるようになった。モモの訓練の様子はテレビ番組などでもたびたび取り上げられ、絵本にもなった。

そんなモモも2005年現在では2児の母となり、一家とともにカバの池で愛嬌を振りまく。

このモモの保育に携わったバイオパーク職員の伊藤雅男氏はチョウの研究も行っており、アサギマダラのマーキング調査で近畿地方と長崎県の間の長距離移動の実証に成功していることでも知られている。また、バイオパークの温室で生きたチョウの展示を行っていた時期には、日本でも有数の高い飼育技術で、低コストで熱帯のチョウを大量増殖して常時展示する体制を構築するのに大きく貢献していた。

年中無休・9:00-17:00。ただし入園は16:00まで。なお、8月中は17:30まで開館しており、入園も16:30まで可能。

料金
大人1600円・中高生1000円・3歳以上小学生以下700円。ただし15人以上の団体や学校・幼稚園・保育園には団体割引がある。

園内の飲食や餌付け用の餌は別料金が要る。また、別料金が必要な施設やイベントもある。

2007/09/14 21:55 | 未分類
ホンダ・レジェンド
初代(1985-1990年)
1985年10月22日にホンダの新しいフラッグシップカーとして登場。英国のブリティッシュ・レイランド (BL、当時) と共同開発し、BLでのモデル名は「ローバー825/820」で、「スターリング」は825の最上級グレードの名前である。後に「ローバー800」に変更された。 ちなみに、日本国内で販売される「ローバー・スターリング」は埼玉県狭山市にあるホンダの狭山製作所でも生産されていた。

初代レジェンドは日本で初めて運転席用ホンダSRSエアバッグを搭載した乗用車である。(北米向けは86年から、日本では87年から。)当初からALB(ホンダ車におけるABS)を標準装備、またはオプション設定。サイドドアビーム等を装備し、全面衝突に対応した設計となっていた。シートベルトを装着している拘束感を和らげる、テンションリレーファーも装備。なお、エクスクルーシブ系には天童木工製本木目パネル、トップグレードのみ100%ウールモケットシートが装備されている。

また、当初はV6 2000cc、2500ccのみだったが、クラウン(S130系)やセドリック・グロリア(Y31系)が3ナンバー車を登場させたのに対抗して1987年のMC(マイナーチェンジ)でクーペ(日本向けはハードトップと呼称)及び輸出用の2700ccエンジンを搭載し発売した。次のMCでは、石川島播磨重工業と共同開発した「ウィングターボ」を搭載したV6 2000cc SOHC ターボエンジン、2.0Ti Exclusive(エクスクルーシブ)、2.0Tiを設定。190psを発生していた。自然吸気の2000cc、2700ccは不変である。このとき、日本仕様のみグリルの大型化やメッキパーツを多用し、それまでのスポーティなイメージから、クラウンやセドリックを意識したラグジュアリーな外観へと変身した。

モデル末期には世界初のFF車用駆動制御システム、ホンダ・TCS(トラクション・コントロール・システム)が搭載された。

TBSドラマ「金妻シリーズ」の「金曜日には花を買って」の篠ひろ子の愛車として登場。

セダンXiが鈴鹿サーキットのペースカーとして在籍したことがあった。


2代目(1990-1996年)
1990年10月24日に登場。先に出ていたインスパイアやビガーが採用したFF-MIDSHIPという特異なエンジンレイアウトをレジェンドでも採用。エンジンは縦置き、すべてC32A型 V6 SOHCの3200ccとなり、馬力はノーマルが215ps、マイナーチェンジで追加されたツーリング系が235ps(通称:TYPE IIエンジン)であった。 韓国の大宇自動車でも”アカディア”の名でライセンス生産されていた。手探りで高級車開発をしていた初代とは違い、2代目レジェンドは、ドイツ、ニュルブルクリンクのオールドコースで徹底した車両実験を行うなど、NSX開発で培われた技術や厳しい評価を基に開発された。日本で初めて助手席側エアバッグを搭載し、車体構造も実際の衝突事故を想定し、設計されていた。今日では当たり前となっているフルラップ衝突は勿論のこと、オフセット衝突のバリアがなかったため、斜めのバリアで衝突実験をするなど、実験自体も凝っていた。また、救急セットも標準装備されている。サイドドアビーム、ABS、運転席エアバッグ、前席(αは後席分も装備されている。)シートベルトプリテンショナー(テンションリレーファー機能付き)は全車標準装備。グレード名は先代とは違い、α(アルファ)、β(ベータ)で、αには先代同様天童木工製本木目パネル(楠)が、βにも天童木工製本木目パネル(ウォールナット)装着されていた。αはトップグレードらしく、リアパワーシート、本木目リアシガーパネル、レザーインテリア(ドアライニング)、100%ウールモケットシートを標準装備とし、ヒューマンフィティッドイルミネーションコントロール、インテリジェントキーレスエントリー(電動テレスコピック&チルトステアリング アウェイ機能付き)、TCSなどを標準装備。クーペはグレード展開は同様であるが、初代同様ボディは完全な専用デザインで、ドアのイージークロージャーを装備し、また、リアサイドウィンドウも開閉する。

ホンダ ナビゲーションシステム(テレビ受信機能付き)、サンルーフ、レザーシートをオプションで設定、その他、ハンズフリーカーテレフォン、デュアルエアコンなどの装備もαにオプション設定した。1991年にはセダンにαII、βIIのお買い得、廉価グレードを追加。αIIは一部の安全装備、快適装備はそのままに、リアパワーシートなどを装備しないモデルであった。また、βIIはクルーズコントロール、オーディオコントロール、2DINハイパワーオーディオ、シートメモリー、本木目パワーウィンドースイッチパネル、リア調節式ヘッドレスト、リアセンターコンソールを廃止、助手席エアバッグをオプション化するなどした廉価モデルである。

途中でツーリング系グレードが追加されると同時に、全車、電子制御液封マウントなどの追加によるNVH対策が施された。ツーリング系はエンジンのみならず、サスペンション(HPD:HONDA Progressive Dumperの追加)、ブレーキ(キャリパーポッド数の変更)、専用16インチホイールの追加と専用チューニングされた。また、レジェンド専用に高級ホームオーディオメーカーであるLuxman(ラックスマン)がチューンを担当した”ピュアサウンドシステム”をβIIとスーパーステージを除く全車種にオプションとして用意するなどの装備の充実がはかられた。ホンダ ナビゲーションシステムもジャイロセンサーのみから、GPS波受信機能が追加され、より、正確な位置を把握できるようになった。最後のマイナーチェンジでは、ただの"Touring"という廉価グレードが追加された。これは、ツーリング系のチューニングはそのままに、βII同様、装備を簡素化したモデルである。ただし、2DINハイパワーオーディオは標準装備された。また、モデル末期にはツーリングベースでツートンカラーの限定車が発売された。

日本ではATのみだったが、5MT車が存在し、後期型では日本製乗用車では初となる6MT仕様も用意されていた。因みにAT車はツーリング系追加と同時に、学習機能付きホンダ PROSMATECとなった。シフトノブはガングリップタイプとなっており、標準グレードとツーリンググレードでデザインが違った。

なお、当時青森県警高速隊にβIIが2台配備されていた。

通称:「スーパーレジェンド」


3代目(1996年-2004年)
1996年2月14日に登場。FF-MIDSHIPという特異なエンジンレイアウトを踏襲、エンジンはC35A型 V6・SOHCの3500ccで215psとなったが、基本的には先代のスキンチェンジ版。クーペは先代モデルのβをベースに装備が簡素化され、"スーパーステージ"として継続生産された後、廃止となった。グレードに"エクスクルーシブ"が復活。標準グレード(レジェンド)、ユーロの3タイプを設定。ユーロは専用チューニングされたサスペンションが奢られ、標準グレード及びエクスクルーシブよりもマニューバビリティに主眼が置かれたグレードである。エクスクルーシブにはレジェンド伝統の天童木工製本木目パネル(楠)を装備、コンソールパネル、助手席側ダッシュパネルのみが本木目となり、パワーウィンドースイッチなどのパネルは水転写式の木目調パネルとなった。以外の標準グレード(助手席側ダッシュパネルのみ本木目ミルトル)、ユーロに装着される全てのパネルは木目調パネルであるが、オプションでメーターパネル等の本木目パネルが用意されていた。装備も簡素化され、先代にみられたような豪華さはない。ランバーサポート、ヘッドレスト調節も電動から手動となり、100%ウールモケットシートやレザーインテリア(ドアライニング)などは、安全面(難燃性)とコストダウンの両方から廃止となった。一方、Luxman(ラックスマン)のチューンによる高性能オーディオはデチューン(出力を抑えた)されたもののオプションとして選べた。マイナーチェンジで装備が充実したユーロエクスクルーシブが追加された。 形式名はE-KA9。シフトパターンは従来のストレート式からメルセデスベンツのような鍵型のゲート式となった。

1999年9月24日に後期型発売。 HIDヘッドランプの追加とともにフロントライトが大型になり、フロントグリルがフロントバンパーに食い込んでいるデザインへ変更され、ステアリングもよりスマートなデザインになる。ホーンの形状も渦巻き型となり、高級感を高めた。安全装備としては、ディテクションセンサー付きフロント・サイドエアバッグが装備される。平成12年には排出ガス規制適合のHONDA LEV仕様となる。更に翌年にはアコードなどに装備されているVSAを装備(一部、オプション)。最終型では、シュクラ社製電動ランバーサポートの追加、本木目パネルの材質や色調の変更(楓)、木目調本革コンビネーションシフトレバーの追加、ステアリング形状の変更、自発光式メーターの色調変更などが施される。また、フロントグリルにラインが入り、テールレンズのシグナル部をクリア化など、残り一年のモデルライフを感じさせないマイナーチェンジとなった。 形式名はGF-KA9。


4代目(2004年-)
2004年10月7日に登場。エンジンは初代から続いた90°バンクのC型から60°バンクのJ35A型 V6・SOHCVTEC、3.5Lエンジンに変更され、軽量・コンパクトになった。またエンジン、トランスミッションの搭載方法も2代続いた縦置きから横置きとなった。エンジン出力は280psの自主規制が撤廃されたことで221kw(300ps)、353Nm(36.0kgm)となり、2004年7月1日に280ps自主規制が解除され、国産乗用車初のカタログスペック300psとなった。駆動はすべて新開発の四輪駆動方式「SH-AWD」が搭載される。北米仕様では従来どおり、スタガードゲートシフトを採用。国内仕様、欧州仕様はシフトパターンが再びガングリップタイプのストレート式となり、シフトブーツの付いたSマチックが搭載されている。北米ではアキュラRLとしてプロトタイプが公開された。 SH-AWDが高く評価され、2004-2005日本カー・オブ・ザ・イヤー及びモースト・アドバンスド・テクノロジー特別賞と2005年次RJCテクノロジー・オブ・ザ・イヤーを受賞した。 CMのBGMにはCM専用に編曲された「The Phantom of the Opera」(邦名:オペラ座の怪人)を使用。 2005年9月15日にマイナーモデルチェンジを受け、従来の約半分の大きさだというHondaスマートキーシステムに変更された他、リアカメラ、AUX端子、ベンチレーション機能付本革シートが追加された。

2007/09/14 21:43 | 未分類
悪魔の階級
キリスト教の悪魔の階級(あくまのかいきゅう)は、時代によって変化している。

初期は、悪魔長たるサタン、およびデビルに分かれるのみであった。

だがこの見方はすぐに変化して、地獄も階層をもつものと認識されるようになる。(おそらくユダヤ教の天使論の影響かと思われる。)

中世において有名なエクソシストのセバスチャン・ミカエリスは、悪魔の三階級説を提案。

その後、地上の王国の階級を真似るような悪魔の階級が提案された。

大元帥、騎士、統領、大統領、伯爵、大伯爵、公爵、大公爵、侯爵、大侯爵、貴公子(「王子」は誤訳。)、大貴公子、王、大王、および、皇帝、のごとき階級が冠されるようになった。(なぜか、准男爵、男爵、子爵、副王は使われなかった。)

2007/09/14 13:27 | 未分類
人間の肉を食べる行動、カニバリズム
日本でも人肉食は禁忌とされるが、伝説の酒呑童子説話中の源頼光一行や、安達原の鬼婆の家に立ち寄った旅人等説話にカニバリズムが散見される。「遠野物語拾遺」第二九六話と第二九九話には、遠野町で5月5日に薄餅(すすきもち)を、7月7日に筋太の素麺を食べる習慣の由来として、死んだ愛妻の肉と筋を食べた男の話が記録されている。江戸の獄門で処刑された死体で日本刀の試し切りを職とした山田浅右衛門が死体から採取した肝臓を軒先に吊るして乾燥し薬として販売したとされる他、戊辰戦争の折には薩摩藩の兵が死体から肝臓を取り食用にしたという説を信じる者も居た。

確実な記録には江戸四大飢饉の時に人肉を食べたというものがある。明治以降は、明治3年に刑部省弁官布告にて人体各部の密売を禁じた公文書が残っている。また、太平洋戦争中に起こった人肉食事件(通称ひかりごけ事件)は日本中を揺るがす大問題に発展した。

また太平洋戦線の島嶼等で日本軍は各地で補給が途絶したため、戦死した兵士の死体や落伍した兵士を密かに殺すなどしてその肉を奪い合って食べる事態が頻発し、軍上層部でも問題となった。これに対し、1944年12月にニューギニア戦線の日本軍第十八軍は「友軍兵の屍肉を食す事を罰する」とし、これに反した4名が処刑されたが、この布告は餓死寸前の末端兵士たちにはむしろ生存手段としての人肉食を示唆することになった(敵軍の死体は食べても罰するという記述は無く、フィリピンのミンダナオ島では非戦闘員を含む住民が日本兵に殺害され、食べられるという事件が起こっている)。主に日本軍による人肉食が発生した戦場はインパール・ニューギニア・フィリピン・ガダルカナルなどである。日本軍による連合軍兵士に対する人肉食は、多くが飢餓による緊急避難であったことや、人肉食に遭った兵士の遺族に対する感情などを考慮した結果、その多くは戦犯として裁かれることはなかった。

一方、1945年6月から8月にかけて発生した「九州大学生体解剖人肉試食事件」は、撃墜されたB-29搭乗員のウィリアム・R・フレドリックス少佐以下米軍捕虜8人を裁判なしで死刑処分とし、九州大学に連行して生体解剖した上、堀内清真少将ら軍人5名がその肝臓を試食したとされる。これは飢餓地域ではない国内で発生した事件であり、戦争犯罪として裁かれた。ただし、東野利夫らは、自白の強要によって捏造された事件であると主張している。

戦後は国民の生活が裕福になった事でそのような例は見られなくなったが、1981年フランスで日本人留学生であった佐川一政が知人女性を殺しその肉を食べたパリ猟奇事件(「パリ人肉食事件」とも)が起こる。当時学生であった佐川は25歳のオランダ人留学生の女生徒を殺害し、食べていた事が報道され世界中を震撼させた。その後、フランスの裁判で彼は精神異常状態であったという理由から、無罪を勝ち取り帰国する。この公判は不当であったという評価を受けていて、また彼は自分の書籍中で自分の父が判事を買収したと言及している。この事件は彼を有名にし、彼の書いた小説は大ヒットをする。また、一時期はコメンテーターとしても活躍した。

なお、お骨を食べる社会文化的儀礼としてのカニバリズムは全国に広く残っている。

2007/09/14 13:17 | 未分類

<<前のページ | HOME | 次のページ>>
忍者ブログ[PR]