日本テレビが第24期日本テレビイベントコンパニオンを募集中。番組アシスタントなどを行う。18〜23歳で身長158センチ以上。東京近郊の独身女性。履歴書に身長、体重、スリーサイズを明記、写真2枚(上半身、全身各1枚)を同封し、〒105―7444 日本テレビ「イベントコンパニオン」係まで。5月18日消印有効。問い合わせTEL03・3222局2882。
日本テレビ
正式社名が日本テレビ放送網であるように、元々は一社で日本全国にテレビネットワークを形成することを目的として設立された。東京に中央放送局としてメインスタジオとマスターを置き、大阪や名古屋、札幌、福岡など主要都市に放送局を設置。拠点間は独自に通信網を設置してマイクロウェーブで結び、テレビ放送で使用しない帯域は通信目的として賃貸、またファクシミリ新聞などに使用する事としていた。同社は放送事業のみならず、通信事業の民営化も目指していたことになるが、この構想(正力構想と呼ばれる)は当時の郵政省に一蹴され、結局関東地区のローカルテレビ局として開局する事となる。(これが実現していれば現在の日本国内の民放が違っていたであろう)
開局当初、テレビ受像機のない家庭が殆どであったため、広告媒体としての民放テレビをアピールすべく、首都圏の主要箇所に街頭テレビを設置。テレビ普及に役立てた。また、麹町局舎横のテレビ塔を展望目的に一般へ公開。東京タワーができるまでは観光名所となっていた。
プロ野球やプロレス中継などのスポーツ番組や「なんでもやりまショー」などのバラエティー番組に強みを持ち、ラジオ東京テレビ(現在のTBSテレビ)開局後も営業成績では上回っていた。特に後楽園スタヂアム(現在の東京ドーム)と独占中継権を結んだのが有利に働いた。
日本民間放送連盟には、当初加盟しなかった。電波の送信もNHKや他の民放とは異なり、東京タワーではなく自社鉄塔からの送信を継続した。すべては自社こそテレビのパイオニアであることを自負していたからであるが、東京タワーより低い麹町の自社鉄塔からの送信は、局舎周囲に高い建物が増加するにつれ難視聴地域を拡大させた。このため、正力は新宿区東大久保に用地を確保。東京タワーの2倍の高さを誇る、通称「正力タワー」を構想するが、のちに頓挫する。
しかし、読売新聞社主の正力松太郎が社長を務めていることで、大阪の完全系列局であるよみうりテレビの開局が「大阪読売新聞」の部数増に繋がったことなどの事例もあり、いくら強いコンテンツを持っていても「読売色」を警戒する地方局が多く、ネットワーク形成ではTBSの後手に回ってしまう。このため報道が手薄になり、かつ番組販売も芳しくなかった。加えて上記の通り難視聴地域が増加したこと、さらに肝心の自社製作番組そのものが不振となり、1960年代半ばから業績は下降。
正力の死後、粉飾決算の公表や東京タワーへの送信所移転、名古屋地区の単独ネット化、読売新聞への完全系列下、ラジオ日本との提携など正力の娘婿である小林與三次の手で改革が行われた。しかし、一連のバラエティー番組が気を吐いて視聴率は持ち直したものの、依然として巨人戦に頼った編成のため、全体ではまだ「民放の雄」と呼ばれたTBSに及ばずといった感は否めなかった。朝枠に情報番組を投入し、夕方の報道番組も強化。ようやく持ち直した視聴率も1980年代当時、カルチャー路線化が成功し視聴率3冠王に輝いてたフジテレビに、現場では「どうすればフジテレビに勝てるのか」を常に研究していたという。
そんな中で日本テレビが打ち出したのがとにかく視聴者が興味を持つ内容を番組制作や内容に盛り込むことで、高い視聴率を確保しようというものである。また、視聴率を強調することも含めた形で始められた番宣バラエティ「TVおじゃマンボウ」を開始することで、視聴者へのPRを行った。
しかしその後、地上波キー局における「興味を示せばなんでも良い」という傾向への転換や、インターネットなどの他のメディアへの興味による全体的な視聴率の低下による「視聴率稼ぎ」に終始する作り方へと変わったことで、番組内容の低レベル化、情報操作や歪曲、過剰なスピード化とそれによる視聴者の思考を疎外する作り方が横行し、やらせや過剰演出、情報の捏造などの問題へと発展している。
1993年夏頃から、バラエティー番組や巨人戦中継などの人気番組を持つ日本テレビは、以前から「三冠王」だったフジテレビをついに追い抜くと、その勢いも次第に強まっていった。1994年〜2002年に9年連続「年度視聴率四冠王」(ゴールデン・プライム・全日にさらにノンプライムを加えての表現)を達成した。更に、「月間四冠王」は30ヶ月連続となり、民放最高記録も樹立することを達成し、「民放界の雄」として一時代を築き、君臨し続けた。
しかし2003年度には、巨人戦視聴率の低下によるプライムタイムでの視聴率低迷の結果、「プライムタイム」が2位になり、「三冠王」の一角をフジテレビに奪われた。そして2004年度(2004年4月〜2005年3月)の調査では、ついに全部門2位となり「三冠王」のタイトル全てをフジテレビに奪われた。
しかし東京民放キー局の中では唯一サスペンスドラマの再放送を行なっていない局でもあり、この点は比較的高い評価を得ている。 事実他局がサスペンスドラマの再放送を行なっている時間帯に子供向けアニメなどを放送している。

日本テレビ
正式社名が日本テレビ放送網であるように、元々は一社で日本全国にテレビネットワークを形成することを目的として設立された。東京に中央放送局としてメインスタジオとマスターを置き、大阪や名古屋、札幌、福岡など主要都市に放送局を設置。拠点間は独自に通信網を設置してマイクロウェーブで結び、テレビ放送で使用しない帯域は通信目的として賃貸、またファクシミリ新聞などに使用する事としていた。同社は放送事業のみならず、通信事業の民営化も目指していたことになるが、この構想(正力構想と呼ばれる)は当時の郵政省に一蹴され、結局関東地区のローカルテレビ局として開局する事となる。(これが実現していれば現在の日本国内の民放が違っていたであろう)
開局当初、テレビ受像機のない家庭が殆どであったため、広告媒体としての民放テレビをアピールすべく、首都圏の主要箇所に街頭テレビを設置。テレビ普及に役立てた。また、麹町局舎横のテレビ塔を展望目的に一般へ公開。東京タワーができるまでは観光名所となっていた。
プロ野球やプロレス中継などのスポーツ番組や「なんでもやりまショー」などのバラエティー番組に強みを持ち、ラジオ東京テレビ(現在のTBSテレビ)開局後も営業成績では上回っていた。特に後楽園スタヂアム(現在の東京ドーム)と独占中継権を結んだのが有利に働いた。
日本民間放送連盟には、当初加盟しなかった。電波の送信もNHKや他の民放とは異なり、東京タワーではなく自社鉄塔からの送信を継続した。すべては自社こそテレビのパイオニアであることを自負していたからであるが、東京タワーより低い麹町の自社鉄塔からの送信は、局舎周囲に高い建物が増加するにつれ難視聴地域を拡大させた。このため、正力は新宿区東大久保に用地を確保。東京タワーの2倍の高さを誇る、通称「正力タワー」を構想するが、のちに頓挫する。
しかし、読売新聞社主の正力松太郎が社長を務めていることで、大阪の完全系列局であるよみうりテレビの開局が「大阪読売新聞」の部数増に繋がったことなどの事例もあり、いくら強いコンテンツを持っていても「読売色」を警戒する地方局が多く、ネットワーク形成ではTBSの後手に回ってしまう。このため報道が手薄になり、かつ番組販売も芳しくなかった。加えて上記の通り難視聴地域が増加したこと、さらに肝心の自社製作番組そのものが不振となり、1960年代半ばから業績は下降。
正力の死後、粉飾決算の公表や東京タワーへの送信所移転、名古屋地区の単独ネット化、読売新聞への完全系列下、ラジオ日本との提携など正力の娘婿である小林與三次の手で改革が行われた。しかし、一連のバラエティー番組が気を吐いて視聴率は持ち直したものの、依然として巨人戦に頼った編成のため、全体ではまだ「民放の雄」と呼ばれたTBSに及ばずといった感は否めなかった。朝枠に情報番組を投入し、夕方の報道番組も強化。ようやく持ち直した視聴率も1980年代当時、カルチャー路線化が成功し視聴率3冠王に輝いてたフジテレビに、現場では「どうすればフジテレビに勝てるのか」を常に研究していたという。
そんな中で日本テレビが打ち出したのがとにかく視聴者が興味を持つ内容を番組制作や内容に盛り込むことで、高い視聴率を確保しようというものである。また、視聴率を強調することも含めた形で始められた番宣バラエティ「TVおじゃマンボウ」を開始することで、視聴者へのPRを行った。
しかしその後、地上波キー局における「興味を示せばなんでも良い」という傾向への転換や、インターネットなどの他のメディアへの興味による全体的な視聴率の低下による「視聴率稼ぎ」に終始する作り方へと変わったことで、番組内容の低レベル化、情報操作や歪曲、過剰なスピード化とそれによる視聴者の思考を疎外する作り方が横行し、やらせや過剰演出、情報の捏造などの問題へと発展している。
1993年夏頃から、バラエティー番組や巨人戦中継などの人気番組を持つ日本テレビは、以前から「三冠王」だったフジテレビをついに追い抜くと、その勢いも次第に強まっていった。1994年〜2002年に9年連続「年度視聴率四冠王」(ゴールデン・プライム・全日にさらにノンプライムを加えての表現)を達成した。更に、「月間四冠王」は30ヶ月連続となり、民放最高記録も樹立することを達成し、「民放界の雄」として一時代を築き、君臨し続けた。
しかし2003年度には、巨人戦視聴率の低下によるプライムタイムでの視聴率低迷の結果、「プライムタイム」が2位になり、「三冠王」の一角をフジテレビに奪われた。そして2004年度(2004年4月〜2005年3月)の調査では、ついに全部門2位となり「三冠王」のタイトル全てをフジテレビに奪われた。
しかし東京民放キー局の中では唯一サスペンスドラマの再放送を行なっていない局でもあり、この点は比較的高い評価を得ている。 事実他局がサスペンスドラマの再放送を行なっている時間帯に子供向けアニメなどを放送している。
PR
シンガー・ソングライターの竹内まりや(52)が、約6年ぶりのアルバム「Denim」を23日に発売するに当たり、ジーンズのプロデュースを手掛けることが30日、分かった。有名ブランド「EDWIN(エドウィン)」の協力で女性向けのジーンズを製作。アルバムと同じ23日からオンライン限定で受注販売する。
“竹内まりやジーンズ”は、エドウィンの女性向けブランド「SOMETHING」の新シリーズとして発売される。ブランド名は、まりやの「M」とエドウィンの「e」から名付けた「Me」。英語の「私」という意味も込められているという。
23日に発売する約6年ぶりのアルバムが、ジーンズの素材を表す「Denim」というタイトルであることから実現した。デザインや型などは既存の商品のものを使用しているが、竹内は前ポケット部の「ト音記号」の刺しゅうのアイデアを提案。またステッチはエドウィンが特別なデザインを施し、大人の女性向けの新商品を開発した。
竹内は「人生はまるでデニムのようだと私は思う。青春を下ろし立ての真新しいインディゴ・ブルーに例えるとすると、年を重ね人生が進むにつれてそのデニムの青は少しずつ風合いを増しながらさまざまに変化していく」という思いでアルバムを制作。映画「出口のない海」の主題歌「返信」や日テレ「火曜ドラマゴールド」の主題歌「明日のない恋」、「スロー・ラヴ」など12曲を収録した。
竹内まりや
出雲大社近くの老舗旅館「竹野屋」主人でもある竹内・大社町(当時)元町長の娘として生まれる。
島根県立大社高等学校在学中に、アメリカ・イリノイ州に1年間留学。
慶應義塾大学文学部に進学。在学中に音楽活動を始め、1978年、シングル『戻っておいで・私の時間』、アルバム『BEGINNING』でデビュー。英文科に進んだが、厳しいことで有名な唐須教光のゼミと音楽活動の両立ができなくなり中退。のち、1979年のシングル『SEPTEMBER』、1980年のシングル『不思議なピーチパイ』などがヒットする。デビュー当初は、松本隆などが提供するアイドルソング的な歌を歌わされていたが、これに飽き足らず間もなく自ら作詞・作曲を手がけるようになった。
この頃アレンジャーとして彼女の前に登場したのが、後に公私共に良きパートナーとなる山下達郎である(もっとも、デビュー以前からまりやはシュガーベイブや達郎のライブを見に行っていたと語っており、特に自らのデビューライブ直前に見た達郎のライブには大きなインパクトを受けたという)。
竹内まりやの結婚前の作品は、山下達郎をはじめ、加藤和彦、細野晴臣、告井延隆(センチメンタル・シティ・ロマンス)、大貫妙子、林哲司、伊藤銀次、杉真理、安部恭弘、浜田金吾(濱田金吾)といった錚々たる作家が提供し、作品の質は極めて高い。
1981年、アイドル的な活動を要求されることと自身の希望する活動とのギャップから一時休業を宣言、その後1982年に山下達郎と結婚。 同時に専業作詞作曲家として活動を開始し、河合奈保子の『けんかをやめて』などのヒットを放つ。 しかし、1982年に山下達郎が自身のレコード会社ALFA MOONを設立したことから「記念に一枚」のつもりで、1984年にシングル『もう一度』、そして全曲を彼女自身が作詞・作曲したアルバム『VARIETY』をリリース。
当時は歌手としては既に忘れられた存在でありながら最終的には30万枚以上の大ヒットになり、 以後ライブ活動からは退いたものの、アレンジャー・プロデューサーを務める夫のサポートを受けながら、シンガーソングライターとして活動を続け、3年間のロングセールスを記録したアルバム『REQUEST』(1987年)や、シングル『駅』(1987年)、シングル『シングル・アゲイン』(1989年)、シングル『告白』(1990年)、シングル『家(うち)に帰ろう(マイ・スイート・ホーム)』(1992年)などのヒット作をリリース。1992年にはアルバム『QUIET LIFE』が発売と同時にミリオン・セラーとなり、1994年のベストアルバム『IMPRESSIONS』は売上300万枚を超える大ヒットを記録。
作詞・作曲家としては薬師丸ひろ子の『元気を出して』(1984年、のちに島谷ひとみも2003年に同曲を歌った)、広末涼子の『MajiでKoiする5秒前』(1997年)など、多くのヒット作を生んだ。
90年代初め、中国系の歌手・林羽萍(Lín Yŭpíng,英語名 Jessica)がアルバム『久別重逢』の中で『元気を出して』を『清醒之後』としてカバーしている。中国詞は「王中言」で、作曲者は本来「竹内まりや」とすべきところが「熊天龍」という全く違う名前になっている。
2000年7月、約18年ぶりの本格的なライブ(それ以前にも縁故のあるミュージシャンのライブのサプライズゲストに登場し数曲洋楽カヴァーを歌うことはあった)を東京・大阪で行う(ライブ・アルバム『SOUVENIR』収録)。その後もアルバム『BON APPETIT!』(2001年)、カヴァーアルバム『Longtime Favorites』(2003年)などをリリース。2004年には夫のシングル『忘れないで』の作詞を担当など、マイペースながらも着実に活動を続けている。
2006年8月27日放送の山下達郎のJACCS CARDサンデーソングブックによると、携帯電話は電話帳さえ使いこなせないらしい。しかし、夫である山下達郎から「〜のレストランを予約した」等とメールを受け取った際は返信することはできるらしい。

“竹内まりやジーンズ”は、エドウィンの女性向けブランド「SOMETHING」の新シリーズとして発売される。ブランド名は、まりやの「M」とエドウィンの「e」から名付けた「Me」。英語の「私」という意味も込められているという。
23日に発売する約6年ぶりのアルバムが、ジーンズの素材を表す「Denim」というタイトルであることから実現した。デザインや型などは既存の商品のものを使用しているが、竹内は前ポケット部の「ト音記号」の刺しゅうのアイデアを提案。またステッチはエドウィンが特別なデザインを施し、大人の女性向けの新商品を開発した。
竹内は「人生はまるでデニムのようだと私は思う。青春を下ろし立ての真新しいインディゴ・ブルーに例えるとすると、年を重ね人生が進むにつれてそのデニムの青は少しずつ風合いを増しながらさまざまに変化していく」という思いでアルバムを制作。映画「出口のない海」の主題歌「返信」や日テレ「火曜ドラマゴールド」の主題歌「明日のない恋」、「スロー・ラヴ」など12曲を収録した。
竹内まりや
出雲大社近くの老舗旅館「竹野屋」主人でもある竹内・大社町(当時)元町長の娘として生まれる。
島根県立大社高等学校在学中に、アメリカ・イリノイ州に1年間留学。
慶應義塾大学文学部に進学。在学中に音楽活動を始め、1978年、シングル『戻っておいで・私の時間』、アルバム『BEGINNING』でデビュー。英文科に進んだが、厳しいことで有名な唐須教光のゼミと音楽活動の両立ができなくなり中退。のち、1979年のシングル『SEPTEMBER』、1980年のシングル『不思議なピーチパイ』などがヒットする。デビュー当初は、松本隆などが提供するアイドルソング的な歌を歌わされていたが、これに飽き足らず間もなく自ら作詞・作曲を手がけるようになった。
この頃アレンジャーとして彼女の前に登場したのが、後に公私共に良きパートナーとなる山下達郎である(もっとも、デビュー以前からまりやはシュガーベイブや達郎のライブを見に行っていたと語っており、特に自らのデビューライブ直前に見た達郎のライブには大きなインパクトを受けたという)。
竹内まりやの結婚前の作品は、山下達郎をはじめ、加藤和彦、細野晴臣、告井延隆(センチメンタル・シティ・ロマンス)、大貫妙子、林哲司、伊藤銀次、杉真理、安部恭弘、浜田金吾(濱田金吾)といった錚々たる作家が提供し、作品の質は極めて高い。
1981年、アイドル的な活動を要求されることと自身の希望する活動とのギャップから一時休業を宣言、その後1982年に山下達郎と結婚。 同時に専業作詞作曲家として活動を開始し、河合奈保子の『けんかをやめて』などのヒットを放つ。 しかし、1982年に山下達郎が自身のレコード会社ALFA MOONを設立したことから「記念に一枚」のつもりで、1984年にシングル『もう一度』、そして全曲を彼女自身が作詞・作曲したアルバム『VARIETY』をリリース。
当時は歌手としては既に忘れられた存在でありながら最終的には30万枚以上の大ヒットになり、 以後ライブ活動からは退いたものの、アレンジャー・プロデューサーを務める夫のサポートを受けながら、シンガーソングライターとして活動を続け、3年間のロングセールスを記録したアルバム『REQUEST』(1987年)や、シングル『駅』(1987年)、シングル『シングル・アゲイン』(1989年)、シングル『告白』(1990年)、シングル『家(うち)に帰ろう(マイ・スイート・ホーム)』(1992年)などのヒット作をリリース。1992年にはアルバム『QUIET LIFE』が発売と同時にミリオン・セラーとなり、1994年のベストアルバム『IMPRESSIONS』は売上300万枚を超える大ヒットを記録。
作詞・作曲家としては薬師丸ひろ子の『元気を出して』(1984年、のちに島谷ひとみも2003年に同曲を歌った)、広末涼子の『MajiでKoiする5秒前』(1997年)など、多くのヒット作を生んだ。
90年代初め、中国系の歌手・林羽萍(Lín Yŭpíng,英語名 Jessica)がアルバム『久別重逢』の中で『元気を出して』を『清醒之後』としてカバーしている。中国詞は「王中言」で、作曲者は本来「竹内まりや」とすべきところが「熊天龍」という全く違う名前になっている。
2000年7月、約18年ぶりの本格的なライブ(それ以前にも縁故のあるミュージシャンのライブのサプライズゲストに登場し数曲洋楽カヴァーを歌うことはあった)を東京・大阪で行う(ライブ・アルバム『SOUVENIR』収録)。その後もアルバム『BON APPETIT!』(2001年)、カヴァーアルバム『Longtime Favorites』(2003年)などをリリース。2004年には夫のシングル『忘れないで』の作詞を担当など、マイペースながらも着実に活動を続けている。
2006年8月27日放送の山下達郎のJACCS CARDサンデーソングブックによると、携帯電話は電話帳さえ使いこなせないらしい。しかし、夫である山下達郎から「〜のレストランを予約した」等とメールを受け取った際は返信することはできるらしい。
人気5人組グループ・嵐が29日、昨秋のアジアツアーの凱旋最終公演(30日まで)として、デビュー8年目で初の東京ドーム単独ライブを行った。
昨年9月の台湾、同11月の韓国公演で「確実に階段を上ってきた」と松本潤(23)。アジアでつかんだ自信が、春の「嵐」となってドームを吹き抜けた。松本主演の日テレ系ドラマ「バンビ〜ノ!」の主題歌「We can make it!」(5月2日発売)など26曲で5万5000人を魅了した。
相葉雅紀(24)は嵐主演映画「黄色い涙」で演じた歌手志望の井上章一役で「涙の流れ星」を披露。アンコールでは、5人が高さ60メートルのバルーンに乗り、場内を1周。21、22日の京セラドーム大阪に続く2大ドーム制覇を締めくくった。
また、7月14日からの全国ツアー(12会場33公演)を発表。「このドームを通過点にしたい」と二宮和也(23)。「嵐」のさらなる勢力拡大を予感させた。
嵐メンバー
大野智(1980年11月26日- A型)愛称は大ちゃん/リーダー/キャプテン/おじさん
櫻井翔(1982年1月25日- A型)愛称は翔くん/翔ちゃん/チェスト櫻井/嵐のお母さん
相葉雅紀(1982年12月24日- AB型)愛称は相葉ちゃん/雅紀くん(海外では「アイバ、マーくん」らしい。)
二宮和也(1983年6月17日- A型)愛称はニノ/にのみぃ/和/ニノちゃん
松本潤(1983年8月30日- Rh-A型)愛称はマツジュン/潤くん/まっつん(平山あや談)/マイナースポーツ番長/ドS番長/松本さん

昨年9月の台湾、同11月の韓国公演で「確実に階段を上ってきた」と松本潤(23)。アジアでつかんだ自信が、春の「嵐」となってドームを吹き抜けた。松本主演の日テレ系ドラマ「バンビ〜ノ!」の主題歌「We can make it!」(5月2日発売)など26曲で5万5000人を魅了した。
相葉雅紀(24)は嵐主演映画「黄色い涙」で演じた歌手志望の井上章一役で「涙の流れ星」を披露。アンコールでは、5人が高さ60メートルのバルーンに乗り、場内を1周。21、22日の京セラドーム大阪に続く2大ドーム制覇を締めくくった。
また、7月14日からの全国ツアー(12会場33公演)を発表。「このドームを通過点にしたい」と二宮和也(23)。「嵐」のさらなる勢力拡大を予感させた。
嵐メンバー
大野智(1980年11月26日- A型)愛称は大ちゃん/リーダー/キャプテン/おじさん
櫻井翔(1982年1月25日- A型)愛称は翔くん/翔ちゃん/チェスト櫻井/嵐のお母さん
相葉雅紀(1982年12月24日- AB型)愛称は相葉ちゃん/雅紀くん(海外では「アイバ、マーくん」らしい。)
二宮和也(1983年6月17日- A型)愛称はニノ/にのみぃ/和/ニノちゃん
松本潤(1983年8月30日- Rh-A型)愛称はマツジュン/潤くん/まっつん(平山あや談)/マイナースポーツ番長/ドS番長/松本さん
約3年ぶりに来日したカナダ出身の女性歌手、アヴリル・ラヴィーン(22)が28日、東京・渋谷の「TOKYO FMスペイン坂スタジオ」で、同局の「コスモ ポップス ベスト10」の公開生放送に出演した。
この日は、来日中の唯一のファンへの公開イベントということもあり、約1000人のファンが集結。アヴリルは「みんなオシャレでお買い物も楽しいし、いつもワクワクさせられる」と日本を満喫中。「自分のやりたいことができた」と自賛する新アルバム「ベスト・ダム・シング」をPRした。今夏の「サマーソニック」へも出演。22歳の歌姫は「興奮してる!」とノリノリだった。
アヴリル・ラヴィーン
趣味はスケートボード(14歳の頃から)、ホッケー、狩り、キャンプ。また、野球ファンである。
身長 158cm
好きなアーティストは:グー・グー・ドールズ 、Sum 41、ブリンク 182、インキュバス、システム・オブ・ア・ダウン、P.O.D.、マッチボックス・トゥエンティ 、アラニス・モリセット、グリーン・デイ。音楽のジャンルはハードコア・パンク。
好きな男性のタイプは尖った感じのあるスケーターやパンクロッカー。
ベジタリアンとしても知られている。好きな食べ物はピザ。
「アヴリル」とはフランス語で4月の意味。アヴリルと名づけた父親も、4月生まれでは無いが、英語で4月を意味する「エイプリル」と同様、女性(ごく稀に男性)の名前として使われる言葉である。
酒好きで、酒癖が非常に悪い事で有名。2006年10月にナイトクラブから出てきてファンにサインを求められると「Fuck you」と書き、写真を撮るパパラッチに夫婦揃って、唾をかけた。この行動は問題となり、後にアヴリルはパパラッチに謝罪の言葉を述べている。だが、その後「パパラッチは人間のクズ。2年前からやっていることなのに、あの時だけ大事件になった」と発言している。
パンク・ロックの持つ危険さ・攻撃性と、ポップスの持つ聴きやすさ・親しみやすさを併せ持つ独自のメロディー、個性的な歌声と存在感、美貌で人気を得ている。
近年、女性ロック歌手が少なかったため特に異彩を放つ。2001年にミシェル・ブランチがブレイクしたことをきっかけに女性ロックが注目されたことで、その波に乗るかたちで一気に人気に火がついたのが要因である。そして、既にして、シェリル・クロウ、アラニス・モリセット以来の大型女性ロック歌手と位置付けられている。
アルバム第一作『Let Go』は、全世界で2000万枚、日本で200万枚のベストセラーになる。世界各国での評価も高く、2003年のグラミー賞の最優秀新人賞の有力候補と目されたが、ノラ・ジョーンズに敗れた。
なおアヴリルは、イギリスのロックバンド、ザ・ダークネスについて「ダークネスは私が一緒にレコーディングしたい世界で唯一のバンドです」と公言している。
発売が待たれるニューアルバムの方向性として度々変更する旨の発言があるが、本人いわく「ハッピーな曲が聞けると思う」。製作過程で複数のアーティストと曲を作っており、元バンドメンバーのEvanとも曲を作っている。
2007年の新曲「Girlfriend」のPVではダンス・演技(二役)・バンド演奏と今までに見たことが無い姿が見ることができる。またこの曲はドイツ語、フランス語、ヒンドゥー語、イタリア語、さらには日本語も含めた他国語版も予定されており、レコーディングに悪戦苦闘しながらも着々とこなしている模様がExclusiveコンサートの曲の合間に放送された。
アルバム「ベスト・ダム・シング」の製作にあわせてピンク色のエクステをしている。
「ベスト・ダム・シング」の作成に夫デリック・ウィブリーが全面的に協力しており、アルバム内の3曲にギターで参加している。また、ジャケットやブックレットの写真もデリックが撮影したという。
身長が高くないので日本のファッションは自分の体型に合っていると言って好んでいる。
来日した際にやってみたいことは富士山登山だと明かした。
Make 5 Wishes.という日本スタイルの漫画のプロデュースを行っている。

この日は、来日中の唯一のファンへの公開イベントということもあり、約1000人のファンが集結。アヴリルは「みんなオシャレでお買い物も楽しいし、いつもワクワクさせられる」と日本を満喫中。「自分のやりたいことができた」と自賛する新アルバム「ベスト・ダム・シング」をPRした。今夏の「サマーソニック」へも出演。22歳の歌姫は「興奮してる!」とノリノリだった。
アヴリル・ラヴィーン
趣味はスケートボード(14歳の頃から)、ホッケー、狩り、キャンプ。また、野球ファンである。
身長 158cm
好きなアーティストは:グー・グー・ドールズ 、Sum 41、ブリンク 182、インキュバス、システム・オブ・ア・ダウン、P.O.D.、マッチボックス・トゥエンティ 、アラニス・モリセット、グリーン・デイ。音楽のジャンルはハードコア・パンク。
好きな男性のタイプは尖った感じのあるスケーターやパンクロッカー。
ベジタリアンとしても知られている。好きな食べ物はピザ。
「アヴリル」とはフランス語で4月の意味。アヴリルと名づけた父親も、4月生まれでは無いが、英語で4月を意味する「エイプリル」と同様、女性(ごく稀に男性)の名前として使われる言葉である。
酒好きで、酒癖が非常に悪い事で有名。2006年10月にナイトクラブから出てきてファンにサインを求められると「Fuck you」と書き、写真を撮るパパラッチに夫婦揃って、唾をかけた。この行動は問題となり、後にアヴリルはパパラッチに謝罪の言葉を述べている。だが、その後「パパラッチは人間のクズ。2年前からやっていることなのに、あの時だけ大事件になった」と発言している。
パンク・ロックの持つ危険さ・攻撃性と、ポップスの持つ聴きやすさ・親しみやすさを併せ持つ独自のメロディー、個性的な歌声と存在感、美貌で人気を得ている。
近年、女性ロック歌手が少なかったため特に異彩を放つ。2001年にミシェル・ブランチがブレイクしたことをきっかけに女性ロックが注目されたことで、その波に乗るかたちで一気に人気に火がついたのが要因である。そして、既にして、シェリル・クロウ、アラニス・モリセット以来の大型女性ロック歌手と位置付けられている。
アルバム第一作『Let Go』は、全世界で2000万枚、日本で200万枚のベストセラーになる。世界各国での評価も高く、2003年のグラミー賞の最優秀新人賞の有力候補と目されたが、ノラ・ジョーンズに敗れた。
なおアヴリルは、イギリスのロックバンド、ザ・ダークネスについて「ダークネスは私が一緒にレコーディングしたい世界で唯一のバンドです」と公言している。
発売が待たれるニューアルバムの方向性として度々変更する旨の発言があるが、本人いわく「ハッピーな曲が聞けると思う」。製作過程で複数のアーティストと曲を作っており、元バンドメンバーのEvanとも曲を作っている。
2007年の新曲「Girlfriend」のPVではダンス・演技(二役)・バンド演奏と今までに見たことが無い姿が見ることができる。またこの曲はドイツ語、フランス語、ヒンドゥー語、イタリア語、さらには日本語も含めた他国語版も予定されており、レコーディングに悪戦苦闘しながらも着々とこなしている模様がExclusiveコンサートの曲の合間に放送された。
アルバム「ベスト・ダム・シング」の製作にあわせてピンク色のエクステをしている。
「ベスト・ダム・シング」の作成に夫デリック・ウィブリーが全面的に協力しており、アルバム内の3曲にギターで参加している。また、ジャケットやブックレットの写真もデリックが撮影したという。
身長が高くないので日本のファッションは自分の体型に合っていると言って好んでいる。
来日した際にやってみたいことは富士山登山だと明かした。
Make 5 Wishes.という日本スタイルの漫画のプロデュースを行っている。
NHK大阪放送局は27日、吉本興業に関する一連の週刊誌報道の渦中にある漫才師の中田カウス(57)が出演する全国放送の法律相談番組「バラエティー生活笑百科」(総合、土曜・後零時15分)の収録済みの28日分と5月5日分を放送延期する、と発表した。番組はすでに収録した別の回に差し替えて対応。延期理由は「諸事情」としているが、暴力団との関係を誌上で取り上げられていることへの判断で、今後の出演依頼も見合わせることから、事実上の“NHK追放”となった。
漫才師の中田カウスが、NHKから「NO」を突きつけられた。NHKはこの日、漫才コンビ「中田カウス・ボタン」が出演する4月28日、5月5日放送予定だった「バラエティー生活笑百科」を延期、番組ごと差し替えることをファクスで発表した。
カウスについて複数の週刊誌が、暴力団との交際を背景に吉本興業の経営に影響を及ぼしているなどと報じ、カウス自身も週刊誌上で指定暴力団幹部との交際を認めるような発言をしている。同局では、週刊誌報道を受けて事実関係を問い合わせたが、吉本興業からは「書かれているような暴力団との交際はない」との回答を受けたという。
中田カウス
ボケ担当。愛媛県今治市(旧越智郡伯方町)出身。2002年からM-1グランプリ決勝戦の審査員を務めている。予選からずっとチェックしており、2005年は1回戦から舞台袖ではなく、客席側からチェックしているのが目撃されている。
ひょうひょうとした語り口でボタンに毒舌を吐くのが特徴。「悪戯の帝王」の異名を持ち、ターゲットになった芸人は浜田雅功から人生幸朗まで幅広く、ターゲットとして一番狙われたのは坂田利夫である。
故横山やすし、オール巨人、チャーリー浜と並ぶ弟子育成の厳しさで知られるが、私生活のだらしなさから「弟子には厳しいが自分には甘い」と非難を受けることもある(借金問題が表面化し、芸能活動を自粛する事態に追い込まれた時期もある)。
投機で成功した時期があり、その頃は『金持ちで真っ当な』カウス、『貧乏で犯罪者チックな』ボタンというパターンでボケを担当していた。現在でも、『金持ち』は抜いたが、真っ当そうに見えて不思議なボケを使う。
芸人論には一家言ある。1980年代後半に上岡龍太郎を中心として『楽屋を垣間見せる』という演出が多用されたが、『芸人が見せてはいけない部分』と論じて、痛烈に批判した。
ビートたけしとも親交が深く、たけし司会の番組でしばしばゲスト出演する。カウスは「おじさん」とよび、たけしは「あんちゃん」と呼び合う仲。

漫才師の中田カウスが、NHKから「NO」を突きつけられた。NHKはこの日、漫才コンビ「中田カウス・ボタン」が出演する4月28日、5月5日放送予定だった「バラエティー生活笑百科」を延期、番組ごと差し替えることをファクスで発表した。
カウスについて複数の週刊誌が、暴力団との交際を背景に吉本興業の経営に影響を及ぼしているなどと報じ、カウス自身も週刊誌上で指定暴力団幹部との交際を認めるような発言をしている。同局では、週刊誌報道を受けて事実関係を問い合わせたが、吉本興業からは「書かれているような暴力団との交際はない」との回答を受けたという。
中田カウス
ボケ担当。愛媛県今治市(旧越智郡伯方町)出身。2002年からM-1グランプリ決勝戦の審査員を務めている。予選からずっとチェックしており、2005年は1回戦から舞台袖ではなく、客席側からチェックしているのが目撃されている。
ひょうひょうとした語り口でボタンに毒舌を吐くのが特徴。「悪戯の帝王」の異名を持ち、ターゲットになった芸人は浜田雅功から人生幸朗まで幅広く、ターゲットとして一番狙われたのは坂田利夫である。
故横山やすし、オール巨人、チャーリー浜と並ぶ弟子育成の厳しさで知られるが、私生活のだらしなさから「弟子には厳しいが自分には甘い」と非難を受けることもある(借金問題が表面化し、芸能活動を自粛する事態に追い込まれた時期もある)。
投機で成功した時期があり、その頃は『金持ちで真っ当な』カウス、『貧乏で犯罪者チックな』ボタンというパターンでボケを担当していた。現在でも、『金持ち』は抜いたが、真っ当そうに見えて不思議なボケを使う。
芸人論には一家言ある。1980年代後半に上岡龍太郎を中心として『楽屋を垣間見せる』という演出が多用されたが、『芸人が見せてはいけない部分』と論じて、痛烈に批判した。
ビートたけしとも親交が深く、たけし司会の番組でしばしばゲスト出演する。カウスは「おじさん」とよび、たけしは「あんちゃん」と呼び合う仲。