第2次大戦で米軍からB級戦犯に問われながら、法廷では無差別爆撃の責任を問いかけた岡田資(たすく)陸軍中将の生きざまを俳優・藤田まこと(74)の主演で描く映画「明日(あした)への遺言」(小泉堯史監督)の製作会見が6日、都内で行われた。
実兄が戦死している藤田は「全世界に尊いメッセージを発したい。長年、芸能界で仕事をしてきましたが、これを最後の仕事にしたい。そんな気持ちがしています」と静かに意気込みを語った。
今作では富司純子(61)と36年ぶりに共演。富司のデビュー作「スチャラカ社員」(63年)でも共演した藤田は「富司さんはまだ学校に通ってまして、先輩からカバンにラブレターを入れろって言われたけど勇気がなくて」と甘酸っぱいエピソードも明かしていた。来年3月公開。
藤田まこと
京都市立堀川高等学校卒業。初期は渡辺プロダクション所属。
無声映画時代のスター俳優だった藤間林太郎を父に持つ。藤間は現在の大阪府東大阪市にあった帝国キネマの撮影所を拠点に活動していたが、同撮影所が火災で閉鎖されたことから東京府(現・東京都)池袋に移り、藤田はそこで生を受けた。東京で幼少期を過ごしその後京都へ。京都市立堀川高校卒業後、最初は歌手として芸能界入りし、中田ダイマルのかばん持ちをしながら声帯模写や司会の仕事を行っていたが、1957年、大阪テレビ放送(現・ABCテレビ)で放送された、中田ダイマル・ラケット、森光子主演のテレビドラマ「びっくり捕物帳」に出演したことをきっかけに、本格的に俳優として活動を始める。
1962年、テレビドラマ『てなもんや三度笠』(ABCテレビ)に、主人公・あんかけの時次郎役で出演。白木みのるや財津一郎との掛け合いや、作中でたびたび披露した「俺がこんなに強いのも、当たり前田のクラッカー!」(当時前田製菓は同番組のスポンサーであった)といった名調子で全国区の人気を得る。
『てなもんや』終了後はしばらく不遇の時代が続いたが、1973年『必殺仕置人』(ABCテレビ)の中村主水役に抜擢され、それまでのコミカルなイメージと、180度反転させるシリアスな演技の混合で好評を博した。これ以降の必殺シリーズにも中村主水役で出演し続け、「家や職場ではただの風采の上がらない中年男だが、裏の顔は悪を闇に葬むる剣の達人」という、世のサラリーマンの理想像とも言えるキャラクターを、時にシリアスに、時にコミカルに演じ抜いた。藤田も「中村主水がなければ今の自分はなかった」と語っており、このシリーズは自他共に認める藤田の代表作となっている。
『てなもんや』終了後に苦労した経験から、中村主水での成功以後も役のイメージが固定しないようにいろいろなタイプの役柄に挑戦を続ける。同時期の作品としては、1976年の『夫婦旅日記 さらば浪人』(CX)は評価が高い。
1979年、テレビ朝日土曜ワイド劇場『京都殺人案内』シリーズ(ABCテレビ制作)開始。年1作のペースではあるものの、2006年現在も続く息の長いシリーズで、地味な作品ではありながらも固定ファンは多く、評価も高い。土曜ワイド劇場の中では、主人公の演者が交代することなく続いているシリーズとしては最長を誇る。本作で演じた音川音次郎役が、後のもう一つの当り役となる『はぐれ刑事純情派』の安浦刑事に繋がっていく。ちなみに、本作は第1作のみ原作が異なり、役名も異なるため、厳密にシリーズと言えるのは第2作からである。
1988年、テレビ朝日『はぐれ刑事純情派』に安浦刑事役で主演。温和で人情に厚いベテラン刑事という、今まで演じたことのなかった役柄が人気を呼び、ドラマもシリーズ化、中村主水に次ぐ当たり役となった。以降、フジテレビ『剣客商売』などに出演し、近年は演技派俳優としての評価も高い。他にも『愛のエプロン』など、テレビ朝日系のバラエティ番組にも積極的に出演している。
2006年10月からフジテレビでは初の現代劇出演となるドラマ『役者魂!』がスタートし、その番宣も兼ねた特別番組『笑っていいとも!2006秋の祭典SP!』に出演し、ちょい不良オヤジコンテストのコーナーで、ちょい不良オヤジとして扮装し渋いキャラを好演していた。
落語家・はぐれ亭馬之助としても知られる。2002年、紫綬褒章受章。
弟子にタレント・マジシャンのタクマらがいる。

実兄が戦死している藤田は「全世界に尊いメッセージを発したい。長年、芸能界で仕事をしてきましたが、これを最後の仕事にしたい。そんな気持ちがしています」と静かに意気込みを語った。
今作では富司純子(61)と36年ぶりに共演。富司のデビュー作「スチャラカ社員」(63年)でも共演した藤田は「富司さんはまだ学校に通ってまして、先輩からカバンにラブレターを入れろって言われたけど勇気がなくて」と甘酸っぱいエピソードも明かしていた。来年3月公開。
藤田まこと
京都市立堀川高等学校卒業。初期は渡辺プロダクション所属。
無声映画時代のスター俳優だった藤間林太郎を父に持つ。藤間は現在の大阪府東大阪市にあった帝国キネマの撮影所を拠点に活動していたが、同撮影所が火災で閉鎖されたことから東京府(現・東京都)池袋に移り、藤田はそこで生を受けた。東京で幼少期を過ごしその後京都へ。京都市立堀川高校卒業後、最初は歌手として芸能界入りし、中田ダイマルのかばん持ちをしながら声帯模写や司会の仕事を行っていたが、1957年、大阪テレビ放送(現・ABCテレビ)で放送された、中田ダイマル・ラケット、森光子主演のテレビドラマ「びっくり捕物帳」に出演したことをきっかけに、本格的に俳優として活動を始める。
1962年、テレビドラマ『てなもんや三度笠』(ABCテレビ)に、主人公・あんかけの時次郎役で出演。白木みのるや財津一郎との掛け合いや、作中でたびたび披露した「俺がこんなに強いのも、当たり前田のクラッカー!」(当時前田製菓は同番組のスポンサーであった)といった名調子で全国区の人気を得る。
『てなもんや』終了後はしばらく不遇の時代が続いたが、1973年『必殺仕置人』(ABCテレビ)の中村主水役に抜擢され、それまでのコミカルなイメージと、180度反転させるシリアスな演技の混合で好評を博した。これ以降の必殺シリーズにも中村主水役で出演し続け、「家や職場ではただの風采の上がらない中年男だが、裏の顔は悪を闇に葬むる剣の達人」という、世のサラリーマンの理想像とも言えるキャラクターを、時にシリアスに、時にコミカルに演じ抜いた。藤田も「中村主水がなければ今の自分はなかった」と語っており、このシリーズは自他共に認める藤田の代表作となっている。
『てなもんや』終了後に苦労した経験から、中村主水での成功以後も役のイメージが固定しないようにいろいろなタイプの役柄に挑戦を続ける。同時期の作品としては、1976年の『夫婦旅日記 さらば浪人』(CX)は評価が高い。
1979年、テレビ朝日土曜ワイド劇場『京都殺人案内』シリーズ(ABCテレビ制作)開始。年1作のペースではあるものの、2006年現在も続く息の長いシリーズで、地味な作品ではありながらも固定ファンは多く、評価も高い。土曜ワイド劇場の中では、主人公の演者が交代することなく続いているシリーズとしては最長を誇る。本作で演じた音川音次郎役が、後のもう一つの当り役となる『はぐれ刑事純情派』の安浦刑事に繋がっていく。ちなみに、本作は第1作のみ原作が異なり、役名も異なるため、厳密にシリーズと言えるのは第2作からである。
1988年、テレビ朝日『はぐれ刑事純情派』に安浦刑事役で主演。温和で人情に厚いベテラン刑事という、今まで演じたことのなかった役柄が人気を呼び、ドラマもシリーズ化、中村主水に次ぐ当たり役となった。以降、フジテレビ『剣客商売』などに出演し、近年は演技派俳優としての評価も高い。他にも『愛のエプロン』など、テレビ朝日系のバラエティ番組にも積極的に出演している。
2006年10月からフジテレビでは初の現代劇出演となるドラマ『役者魂!』がスタートし、その番宣も兼ねた特別番組『笑っていいとも!2006秋の祭典SP!』に出演し、ちょい不良オヤジコンテストのコーナーで、ちょい不良オヤジとして扮装し渋いキャラを好演していた。
落語家・はぐれ亭馬之助としても知られる。2002年、紫綬褒章受章。
弟子にタレント・マジシャンのタクマらがいる。

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