成虫の体長はオス24-28mm、メス21-25mm、翅端まで35mmほどで、ハルゼミと同じくらいの大きさである。外見も名のとおりハルゼミに似るが、ハルゼミよりも褐色がかった体色をしている。前翅の翅脈上に2つの斑点があり、さらにオスの腹部には小さな突起が左右に突き出る。頭部の幅が広いが、体は細長い。オスの腹部は共鳴室が発達してほとんど空洞となっており、外観も細長い。いっぽうメスは腹部が短く、腹部の先端に細い産卵管が突出する。
基亜種ヒメハルゼミ E. c. chibensis は西日本の固有種で、新潟県・茨城県以西の本州・四国・九州・屋久島・奄美大島・徳之島・沖永良部島に分布する。このうち分布北限に近い新潟県糸魚川市・茨城県笠間市・千葉県茂原市の生息地は国の天然記念物に指定されている。学名の種名"chibensis"は「千葉に棲む」の意である。
生態
生息域はシイ、カシなどからなる丘陵地や山地の照葉樹林で、人の手が入っていない森林に集団で生息する。成虫が発生するのは6月下旬から8月上旬頃までで、他のセミより一足早く、短期集中で発生する。
オスの鳴き声はアブラゼミに強弱をつけたような感じで、「ギーオ、ギーオ…」「ウイーン、ウイーン…」などと表現される。さらに本種は集団で「合唱」をする習性をもつ。ある1匹が鳴き始めると周囲のセミが次々と同調、やがて生息域全体から鳴き声が聞こえ、同様に次々と鳴き終わる。森林に生息するため鳴き声を聞く機会は少ないが、発生時期に生息地の森林に踏み入ると、「森の木々が鳴いている」とも表現される蝉時雨に見舞われる。特に夕方に連続してよく鳴くが、昼間に散発的に鳴くこともある。
照葉樹林が開発・伐採されることにより生息地が各地で減少しているが、同時に各地での保護活動も盛んになっている。国の天然記念物指定は前述の3ヶ所だが、他にも自治体レベルで絶滅危惧種や天然記念物に指定している所が数多い。

基亜種ヒメハルゼミ E. c. chibensis は西日本の固有種で、新潟県・茨城県以西の本州・四国・九州・屋久島・奄美大島・徳之島・沖永良部島に分布する。このうち分布北限に近い新潟県糸魚川市・茨城県笠間市・千葉県茂原市の生息地は国の天然記念物に指定されている。学名の種名"chibensis"は「千葉に棲む」の意である。
生態
生息域はシイ、カシなどからなる丘陵地や山地の照葉樹林で、人の手が入っていない森林に集団で生息する。成虫が発生するのは6月下旬から8月上旬頃までで、他のセミより一足早く、短期集中で発生する。
オスの鳴き声はアブラゼミに強弱をつけたような感じで、「ギーオ、ギーオ…」「ウイーン、ウイーン…」などと表現される。さらに本種は集団で「合唱」をする習性をもつ。ある1匹が鳴き始めると周囲のセミが次々と同調、やがて生息域全体から鳴き声が聞こえ、同様に次々と鳴き終わる。森林に生息するため鳴き声を聞く機会は少ないが、発生時期に生息地の森林に踏み入ると、「森の木々が鳴いている」とも表現される蝉時雨に見舞われる。特に夕方に連続してよく鳴くが、昼間に散発的に鳴くこともある。
照葉樹林が開発・伐採されることにより生息地が各地で減少しているが、同時に各地での保護活動も盛んになっている。国の天然記念物指定は前述の3ヶ所だが、他にも自治体レベルで絶滅危惧種や天然記念物に指定している所が数多い。

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日本と中国各地のマツ林に生息する小型のセミで、和名通り春に成虫が発生する。晩春や初夏を表す季語「松蝉」(まつぜみ)はハルゼミを指す。
成虫の体長はオス28-32mm、メス23-25mmで、ヒグラシを小さく、黒くしたようなセミである。オスの方が腹部が長い分メスより大きい。翅は透明だが、体はほぼ全身が黒色-黒褐色をしている。
日本列島では本州・四国・九州、日本以外では中国にも分布する。
ある程度の規模があるマツ林に生息するが、マツ林の外に出ることは少なく、生息域は局所的である。市街地にはまず出現しないが、周囲の山林で見られる場合がある。
セミの多くは夏に成虫が現れるが、ハルゼミは和名のとおり4月から6月にかけて発生する。オスの鳴き声は他のセミに比べるとゆっくりしている。人によって表現は異なり「ジーッ・ジーッ…」「ゲーキョ・ゲーキョ…」「ムゼー・ムゼー…」などと聞きなしされる。鳴き声はわりと大きいが生息域の近くでないと聞くことができない。また、黒い小型のセミなので発見も難しい。
日本ではマツクイムシによるマツ林の減少、さらにマツクイムシ防除の農薬散布も追い討ちをかけ、ハルゼミの生息地は各地で減少している。各自治体レベルでの絶滅危惧種指定が多い。

成虫の体長はオス28-32mm、メス23-25mmで、ヒグラシを小さく、黒くしたようなセミである。オスの方が腹部が長い分メスより大きい。翅は透明だが、体はほぼ全身が黒色-黒褐色をしている。
日本列島では本州・四国・九州、日本以外では中国にも分布する。
ある程度の規模があるマツ林に生息するが、マツ林の外に出ることは少なく、生息域は局所的である。市街地にはまず出現しないが、周囲の山林で見られる場合がある。
セミの多くは夏に成虫が現れるが、ハルゼミは和名のとおり4月から6月にかけて発生する。オスの鳴き声は他のセミに比べるとゆっくりしている。人によって表現は異なり「ジーッ・ジーッ…」「ゲーキョ・ゲーキョ…」「ムゼー・ムゼー…」などと聞きなしされる。鳴き声はわりと大きいが生息域の近くでないと聞くことができない。また、黒い小型のセミなので発見も難しい。
日本ではマツクイムシによるマツ林の減少、さらにマツクイムシ防除の農薬散布も追い討ちをかけ、ハルゼミの生息地は各地で減少している。各自治体レベルでの絶滅危惧種指定が多い。

一般に「せる」という語尾で終わる単語で表される。
飲ませる =酒を飲ませる
食わせる =豪華な食事を食べさせる
抱かせる =性的サービスを行う女性をあてがう
握らせる =現金を与える
より具体的には、次のとおり。
料亭・クラブ等での飲食
いちばんポピュラーな接待方法。会社の経費で飲食をする。コンパニオンを呼ぶ場合もある。自分の金ではまず行けない高級クラブにも接待でなら行った事がある・・・というビジネスマンは多い。宴会が終わったら相手の帰宅のためにタクシーを手配しておくことも多い。片道1万〜2万円以上の距離をタクシーで帰ることもまれではない。
公務員の接待が激減したため、各地の料亭・クラブは経営が苦しくなったともいわれる。
ゴルフ
これも接待の定番。多くの企業ではゴルフ会員権を持っており、取引先の接待に使用したりする。利用できるのは当然のことながら社長や重役(役員)であるが、同行させてもらうかたちでその部下もプレイしたりすることもある。利用実態は企業によりいろいろ。労働組合の幹部と経営者が一緒にプレイする場合もある。ゴルフは全てのビジネスマンがするわけではないが、サラリーマン社会ではポピュラーな趣味といえよう。
マージャン
最近はあまり見られないが、かつては接待マージャンなるものが存在した。言うまでもないが相手に勝たせなければならない。見え見えの手で相手を勝たせても不愉快にさせてしまうので、そこそこ手加減ができる腕前が必要とされた。仮に相手が負けることがあっても、土産などを用意して持ち帰ってもらい、相手に気持ちよく帰ってもらうことが重要である。最近は以前よりもマージャンができる人が少なくなり、あまり聞かなくなった。

飲ませる =酒を飲ませる
食わせる =豪華な食事を食べさせる
抱かせる =性的サービスを行う女性をあてがう
握らせる =現金を与える
より具体的には、次のとおり。
料亭・クラブ等での飲食
いちばんポピュラーな接待方法。会社の経費で飲食をする。コンパニオンを呼ぶ場合もある。自分の金ではまず行けない高級クラブにも接待でなら行った事がある・・・というビジネスマンは多い。宴会が終わったら相手の帰宅のためにタクシーを手配しておくことも多い。片道1万〜2万円以上の距離をタクシーで帰ることもまれではない。
公務員の接待が激減したため、各地の料亭・クラブは経営が苦しくなったともいわれる。
ゴルフ
これも接待の定番。多くの企業ではゴルフ会員権を持っており、取引先の接待に使用したりする。利用できるのは当然のことながら社長や重役(役員)であるが、同行させてもらうかたちでその部下もプレイしたりすることもある。利用実態は企業によりいろいろ。労働組合の幹部と経営者が一緒にプレイする場合もある。ゴルフは全てのビジネスマンがするわけではないが、サラリーマン社会ではポピュラーな趣味といえよう。
マージャン
最近はあまり見られないが、かつては接待マージャンなるものが存在した。言うまでもないが相手に勝たせなければならない。見え見えの手で相手を勝たせても不愉快にさせてしまうので、そこそこ手加減ができる腕前が必要とされた。仮に相手が負けることがあっても、土産などを用意して持ち帰ってもらい、相手に気持ちよく帰ってもらうことが重要である。最近は以前よりもマージャンができる人が少なくなり、あまり聞かなくなった。

天神祭は大阪天満宮が鎮座した2年後の天暦5年(951年)6月1日より始まったとされている。この時の祭事は大川より神鉾を流して、流れ着いた場所に祭場を設けて、その祭場で禊払いを行うというものであった。これが鉾流神事の元となり、その祭場に船で奉迎したことが船渡御の起源となっていると伝えられている。
天神祭は続いてきたが、日本三大祭の一つと呼ばれるようになるのは江戸時代からである。安土桃山時代に豊臣秀吉より催太鼓を拝領する。寛永末期に祭場(御旅所)を雑喉場(ざこば)に定めたため鉾流神事が取りやめられる。このころ陸渡御の起源となる地車が登場する。慶安2年にでたお触書によると、多くの地車が争って宮入しようとするため順番を決めさせたとある。寛文末期に御旅所が戎島に移転。元禄時代になると御迎人形と呼ばれる2メートルほどの人形を船の穂先に高く飾り付けるようになる。またこの頃より講が形成され日本三大祭りとして呼ばれるようになる。この頃の天神祭の壮大さは『東海道中膝栗毛』や『世間胸算用』の中に見ることが出来る。
慶応元年、将軍徳川家茂が長州征伐のため大阪城に入城したため、天神祭は中止される。この年以降、維新の騒乱により明治4年に復活するまで中止された。明治7年に船渡御が中止され、本社営繕やコレラの流行のため明治14年に復活するまで再び中止された(陸渡御のみ行っていた年もある)。それ以外でも明治天皇の崩御や大川の水位が上昇したためなど度々中止されることもあった。
昭和5年に食満南北(けまなんぼく)の提言により鉾流神事が復活。昭和13年から昭和23年まで日中戦争、第二次世界大戦の影響により船渡御や祭事そのものが中止された。昭和24年に船渡御が復活するが地盤沈下の影響で船が橋の下をくぐり御旅所に到着することが困難になったため再び中止され、昭和28年に上流に遡る形になる。昭和49年オイルショックの影響で船渡御が中止される。昭和56年にギャルみこしが誕生。平成3年より水都祭と天神祭奉納花火が合同で行わる。平成6年にブリスベンで天神祭斎行される。平成17年、ギャルみこし誕生25周年イベントが行われた。
宵宮(7月24日)
4:00 - 打ち出し
催太鼓の一番太鼓と、続いてだんじり囃子の一番鉦が祭の開始を告げる。大門開門。
7:45 - 宵宮祭
本殿において人々の無病息災と鉾流神事の無事が祈願される。
8:50 - 鉾流神事
神鉾講より推挙された大阪市立西天満小学校の6年生の男子の神童によって鉾流橋の水上より鉾を流す。元々は上記のように鉾が流れ着いた場所を御旅所と定めて祭礼を行ったが、御旅所が固定されてからはその役目は担っていない。
鉾流神事が終わると氏地巡行まで正式な祭事はないが、各場所でいろいろな催事が執り行われている。
16:00 - 氏地巡行
まず、催太鼓による「からうす」がおこなわれ、その後催し太鼓と獅子舞が氏地を巡行する。
本宮(7月25日)
この日はテレビ大阪にて生放送される。
14:00 - 夏大祭
氏地、氏子の平安を祈り、神霊移御祭で御霊を御鳳輦(ごほうれん)に移す。
16:00 - 陸渡御
祭のメインイベントの一つ。船渡御の乗船場までの約4キロを約3000人が渡御する。行列は先頭が催し太鼓で、続いて猿田彦や采女(うねめ)、花傘、猩々の人形を乗せた山車、牛曳童児などの第一陣、御羽車や神霊を移した御鳳輦のある第二陣、玉神輿と鳳神輿の第三陣によって構成される。
18:00 - 船渡御
陸渡御につづいてメインイベントの一つ。船は4種類に分けれられ、御神霊をのせた御鳳輦奉安船、催太鼓船や地車囃子船など神に仕える講社の供奉船、協賛団体や市民船などの神をお迎えする奉拝船、どんどこ船や御迎人形船、落語船など祭を盛り上げるため自由に航行できる列外船がある。奉安船や供奉船が天神橋のたもとから出航して大川を遡り、反転して下る。
協賛団体による奉拝船は飛翔橋より下り、天神橋で反転し遡る。船同士が行き交う時には大阪締めが交換されるが、御鳳輦奉安船が通過するときは沈黙するのがならわしである。他に舞台船や篝船などもあるが、渡御せずに定着して神楽等を奉納する。御神霊を乗せた御鳳輦奉安船を見下ろすことがないように、御鳳輦奉安船の通過する橋の中央には正中の覆いがされる。
渡御の渡中、御鳳輦船では水上祭が斎行される。定着している舞台船や供奉船から神楽や囃子が奉納される。この頃から花火講によって奉納花火が打ち上げられて祭は最大に盛り上がる。
22:00 - 宮入り・還御祭
渡御が終わった一団が天満宮に戻り、催太鼓と共に大阪締めを行う。獅子舞が四方清めと本殿へ走りこみ、その後還御祭が本殿で斎行されて祭りは終わる。

天神祭は続いてきたが、日本三大祭の一つと呼ばれるようになるのは江戸時代からである。安土桃山時代に豊臣秀吉より催太鼓を拝領する。寛永末期に祭場(御旅所)を雑喉場(ざこば)に定めたため鉾流神事が取りやめられる。このころ陸渡御の起源となる地車が登場する。慶安2年にでたお触書によると、多くの地車が争って宮入しようとするため順番を決めさせたとある。寛文末期に御旅所が戎島に移転。元禄時代になると御迎人形と呼ばれる2メートルほどの人形を船の穂先に高く飾り付けるようになる。またこの頃より講が形成され日本三大祭りとして呼ばれるようになる。この頃の天神祭の壮大さは『東海道中膝栗毛』や『世間胸算用』の中に見ることが出来る。
慶応元年、将軍徳川家茂が長州征伐のため大阪城に入城したため、天神祭は中止される。この年以降、維新の騒乱により明治4年に復活するまで中止された。明治7年に船渡御が中止され、本社営繕やコレラの流行のため明治14年に復活するまで再び中止された(陸渡御のみ行っていた年もある)。それ以外でも明治天皇の崩御や大川の水位が上昇したためなど度々中止されることもあった。
昭和5年に食満南北(けまなんぼく)の提言により鉾流神事が復活。昭和13年から昭和23年まで日中戦争、第二次世界大戦の影響により船渡御や祭事そのものが中止された。昭和24年に船渡御が復活するが地盤沈下の影響で船が橋の下をくぐり御旅所に到着することが困難になったため再び中止され、昭和28年に上流に遡る形になる。昭和49年オイルショックの影響で船渡御が中止される。昭和56年にギャルみこしが誕生。平成3年より水都祭と天神祭奉納花火が合同で行わる。平成6年にブリスベンで天神祭斎行される。平成17年、ギャルみこし誕生25周年イベントが行われた。
宵宮(7月24日)
4:00 - 打ち出し
催太鼓の一番太鼓と、続いてだんじり囃子の一番鉦が祭の開始を告げる。大門開門。
7:45 - 宵宮祭
本殿において人々の無病息災と鉾流神事の無事が祈願される。
8:50 - 鉾流神事
神鉾講より推挙された大阪市立西天満小学校の6年生の男子の神童によって鉾流橋の水上より鉾を流す。元々は上記のように鉾が流れ着いた場所を御旅所と定めて祭礼を行ったが、御旅所が固定されてからはその役目は担っていない。
鉾流神事が終わると氏地巡行まで正式な祭事はないが、各場所でいろいろな催事が執り行われている。
16:00 - 氏地巡行
まず、催太鼓による「からうす」がおこなわれ、その後催し太鼓と獅子舞が氏地を巡行する。
本宮(7月25日)
この日はテレビ大阪にて生放送される。
14:00 - 夏大祭
氏地、氏子の平安を祈り、神霊移御祭で御霊を御鳳輦(ごほうれん)に移す。
16:00 - 陸渡御
祭のメインイベントの一つ。船渡御の乗船場までの約4キロを約3000人が渡御する。行列は先頭が催し太鼓で、続いて猿田彦や采女(うねめ)、花傘、猩々の人形を乗せた山車、牛曳童児などの第一陣、御羽車や神霊を移した御鳳輦のある第二陣、玉神輿と鳳神輿の第三陣によって構成される。
18:00 - 船渡御
陸渡御につづいてメインイベントの一つ。船は4種類に分けれられ、御神霊をのせた御鳳輦奉安船、催太鼓船や地車囃子船など神に仕える講社の供奉船、協賛団体や市民船などの神をお迎えする奉拝船、どんどこ船や御迎人形船、落語船など祭を盛り上げるため自由に航行できる列外船がある。奉安船や供奉船が天神橋のたもとから出航して大川を遡り、反転して下る。
協賛団体による奉拝船は飛翔橋より下り、天神橋で反転し遡る。船同士が行き交う時には大阪締めが交換されるが、御鳳輦奉安船が通過するときは沈黙するのがならわしである。他に舞台船や篝船などもあるが、渡御せずに定着して神楽等を奉納する。御神霊を乗せた御鳳輦奉安船を見下ろすことがないように、御鳳輦奉安船の通過する橋の中央には正中の覆いがされる。
渡御の渡中、御鳳輦船では水上祭が斎行される。定着している舞台船や供奉船から神楽や囃子が奉納される。この頃から花火講によって奉納花火が打ち上げられて祭は最大に盛り上がる。
22:00 - 宮入り・還御祭
渡御が終わった一団が天満宮に戻り、催太鼓と共に大阪締めを行う。獅子舞が四方清めと本殿へ走りこみ、その後還御祭が本殿で斎行されて祭りは終わる。
