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2025/05/15 14:00 |
上野動物園
開園は、1882年(明治15年)3月20日。日本で最も古く、有名な動物園である。

上野恩賜公園内にあり、上野駅公園口から徒歩5分と交通の便がよい。敷地は西園と東園に分かれており、両園を結ぶモノレール(東京都交通局上野懸垂線)は日本初のモノレールである。

ジャイアントパンダやスマトラトラ、ニシローランドゴリラ等の希少動物を始め、422種類(2003年3月現在)の動物を飼育している。なお、この飼育動物の種類も日本で最も多い。

飼育環境もできるだけ自然な常態に近づけ努力と工夫が凝らされている。例えば、スマトラトラのコーナーでは密林の雰囲気が演出されており、時間帯によってはヤブの中で寝ているトラを探すことになり、トラの体の縞がどのように役立っているかという確認もできる。また、トラが泳げる水槽ではガラス越しの近距離でトラを見ることもでき、その大きさを実感することもできる。

多摩動物公園、井の頭自然公園等の都立動物園と共にズーストック計画を実施。この計画により、恩賜上野動物園で飼育していたライオンは1991年に多摩動物公園に移されたため「ライオンのいない」動物園であった。しかし、来場者の要望に答え、2002年3月27日からインドライオン(メス)を公開している。なお、このインドライオンは横浜市のよこはま動物園ズーラシアから貸与されたもの。

1950年代に、コウテイペンギンなどの飼育に成功した実績などが評価される。以来1970年代頃まで、南極産ペンギンを飼育する数少ない動物園のひとつであった。

ジャイアントパンダ飼育開始以来、世間(特に部外者や首都圏以外に住む人)への最大の売り物(および象徴)がジャイアントパンダになりがちであったが、無論他の動物の飼育についても評価されるべきである。

代表的な飼育動物
ジャイアントパンダ
スマトラトラ
ニシローランドゴリラ
インドライオン
ドール
ホッキョクグマ
レッサーパンダ
アイアイ
アジアゾウ
アミメキリン
シロサイ
オカピ
シマウマ
ニホンザル
タンチョウ
オジロワシ
ヤギ
ヒツジ
ブタ
ガチョウ
ウサギ
ゾウガメ

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2007/08/20 21:49 | 未分類
日本画の誕生、歴史
奈良時代から平安時代にかけて、中国や朝鮮半島などから渡来した技法や様式、あるいはそれに倣い日本で描かれた図画が「唐絵」と呼ばれた。これにに対して日本的な主題を描くものが産まれ、「大和絵」と呼ばれた。 その後「漢画」に対する「和画」や、「唐画」に対する「和画」などと、呼び方やその区分は時代によって異るが、海外から新しく流入した画風に対し、旧来のものを日本の伝統的なものと考えるパターンは繰り返されていた。 「日本画」は明治初期にヨーロッパからもたらされた油彩画すなわち西洋画(または「洋画」)に対して、それまでの日本にあった図画に対して用いられた用語である。

明治初期の1876年、明治政府は西洋画法を学ぶためイタリアからアントニオ・フォンタネージを招き、工部美術学校を創立した。浅井忠らがその第1期生であった。 その2年後の1878年にフォンタネージは帰国。いっぽうアメリカ合衆国からアーネスト・フェノロサが来日し、東京帝国大学で哲学などを教えた。

フェノロサが日本の美術に強い関心を示し、評価したことは有名である。 フェノロサが1882年に龍池会で行った講演『美術真説』で使った Japanese painting の翻訳が「日本画」という言葉の初出である。 この講演でフェノロサは次のような点を日本画の特徴として挙げ、優れたところと評価している。

写真のような写実を追わない。
陰影が無い。
鉤勒(こうろく、輪郭線)がある。
色調が濃厚でない。
表現が簡潔である。
フェノロサの通訳を勤めており助手であった岡倉覚三(のちの天心)らはこれに大きく力づけられ、1889年に東京美術学校(後の東京藝術大学)を開くと、西洋画の教育を排し、絵画としては橋本雅邦らを教師として日本画科をのみ設けた。第1期生には横山大観らがいる。 西洋画を教えていた工部美術学校は、これに先立ち1883年に閉鎖されている。

岡倉は1890年には東京美術学校の校長にもなるが、1898年に職を追われ、横山らと日本美術院を作った。 岡倉らが東京美術学校、日本美術院で育てようとした日本画は旧来の技法や様式を守るだけのものではなく、西洋画から採り入れるものを採り、それと対抗できるような日本の絵画であった。 橋本雅邦は兄弟子狩野芳崖とともに狩野派の出身でありながら、独自の画風を拓こうとした画家であったし、横山も新しい技法を開発している。

フェノロサが最初に使った「日本画」という言葉は、西洋から渡来した油彩画に対して、それまでに日本にあった図画全般を単に指すものではなく、中国や朝鮮半島に由来しながらも、日本の中で熟成、独自に発展した様式について言っているものであろう。しかし、これに発して岡倉らが育てて現在に至る日本画はそれとも異り、洋画の対抗勢力としてその後に発達したものである。その意味では日本画は明治以降のものであり、明治の横山大観が日本画家であっても、江戸時代の狩野永徳は日本画家ではない。

日本画の誕生は、明治政府の欧化政策のもとでの西洋文化の急速な流入に対する国粋主義的な危機感と、当時のアメリカ合衆国でヨーロッパ由来の文化との対抗軸を模索していたフェノロサとの出会いと共感が造り出したものかもしれない。1876年、英国から独立を果たし、南北戦争を経て安定したアメリカ合衆国では、ボストン美術館が設立された。フェノロサは1890年に帰国後その初代日本部長となり、岡倉はその後を引き継いで1910年、ボストン美術館中国・日本美術部長となる。

日本における洋画と日本画はその後、互いに影響を与えながらも対抗的に併存、発展してきた。しかし今日では、主題や様式において、その境界を定めることは難しく、違いは画材にしか求められない状況とも言える。


2007/08/20 13:25 | 未分類
上菓子
上菓子は以下のような素材をもちい、美的につくりあげる。

こなし   
白こし餡(手亡豆の餡)と薄力粉をまぜて蒸したものに砂糖水をくわえねりあげたもの。色をつけてさまざまな形に加工する。梅の蕾をかたどった「未開紅」、紅葉にしたてた「竜田川」をはじめ、くず菓子の餡など多彩に展開する。
きんとん   蒸した山芋などをうらごしして砂糖と炊いたものを、うらごし器でそぼろ状にしたもの。色々な色にそめ、餡を包んで季節を表現する。 

求肥(ぎゅうひ)   
もち米を水で練って湯がき、火の上で砂糖を加えてねったもの。夏の菓子「鮎」、「調布」などにつかう。

くず   
本くず粉に水を加えたものをこして湯せんしながらとかしてかためる。透明感が涼しさをよぶ。またシンプルに六方を焼いただけの「葛焼」は熟練を要する菓子。

薯蕷(じょうよ)   
山芋をすりおろして砂糖と上用粉をくわえたものを蒸してつくる。「織部まんじゅう」など薯蕷(上用)まんじゅうの皮。

このほかにも「道明寺」「淡雪」「寒天」など中間素材は数多い。中間素材の段階までに炊く、蒸す、まぜる、練るなどの作業があり、そのひとつでもゆるがせにするとおいしい菓子はできない。また材料も厳選されたものを素材に応じてあくぬきなどをしながら、味をひきだす技術が要求される。そして最後に季節感や、菓子が食べられる場のコンセプトを表現しなければならない。繊細な感覚と確かな技術で上菓子はつくられる。



2007/08/20 13:19 | 未分類
緑茶
日本茶は、ほとんどが緑茶である。中国茶も緑茶に分類される物が主流で、また、中国で最も飲まれている茶も緑茶である。(日本国内で良く知られる烏龍茶、プーアル茶などは、中国国内では比較的特殊な部類に入り、産地を離れると余り飲まれない。日本人にとっての玉露や抹茶の様な扱いになる)。中国の緑茶では浙江省杭州の龍井(ロンジン)が最もよく知られ、その中では西湖付近で産する西湖龍井が名高い。

緑茶の製法は日本と中国では主流となっている方法がやや異なり、風味も異なる。日本では発酵を止めるために蒸すのに対し、中国では釜炒りを行うのが主流である。なお、日本国内でも嬉野茶(うれしのちゃ)や青柳茶(あおやぎちゃ)の様に釜炒りの製法を取っているものがある。

緑茶のように茶葉収穫後に加熱処理を加え、茶葉自身に含まれる酵素による酸化発酵を極力抑えた物を不発酵茶と言う。この場合の加熱処理を殺青(さっせい)と呼び、また、これを蒸製により行なった場合を特に蒸青(じょうせい)と呼ぶ。日本においては蒸製により殺青を行なうものが主流だが、世界的に見るとこれはかなり特殊な部類に入り(と言っても緑茶の消費は中国と日本が主であり、古来は中国においても盛んに行なわれていたが)、現在では日本固有のものと言える。この他、炒製(釜炒り)、煮製(番茶類)、焼製、晒青(日光に曝す)などによる方法がある。

緑茶同様に茶葉を処理した後、微生物の作用を持って発酵させた後発酵茶(黒茶)と呼ばれる一群の茶飲料が存在する。阿波番茶(あわばんちゃ)や碁石茶(ごいしちゃ)がその例である。これらは特殊茶のなかの漬物茶に分類される。

また、中国茶として知名度の高いジャスミン茶は、緑茶に乾燥させたジャスミンの花弁を入れて、香りを付けたものであるが、分類上は花茶、着香茶に入る。花弁は取り出す場合とそのまま残す場合がある。

日本の緑茶
玉露 - 福岡県八女市が最も生産量が多い。
煎茶 -日本で最も一般的
番茶
白折 - 茎茶ともいう。
抹茶 - 玉露茶を石臼を用いて微細な粉末に仕立てたもの。
粉茶 - 各種の茶葉を粉状にしたもの。
玄米茶
ほうじ茶

中国の緑茶
龍井茶(ロンジンちゃ) - 浙江省杭州市産
黄山毛峰(こうざんもうほう) - 安徽省歙県産
六安瓜片(ろくあんかへん) - 安徽省六安市産
廬山雲霧(ろざんうんむ) - 江西省九江市産
竹葉青(ちくようせい) - 四川省峨嵋山市産
信陽毛尖(しんようもうせん) - 河南省信陽市産
洞庭碧螺春(どうていへきらしゅん) - 江蘇省蘇州市産



2007/08/20 13:16 | 未分類
バーミヤン渓谷の文化的景観と古代遺跡群
アフガニスタンの首都カブールの北西230kmの山岳地帯に位置するバーミヤン渓谷(バーミヤーン渓谷)に設定されたユネスコの世界遺産(文化遺産)。

バーミヤン渓谷は古代以来の都市であるバーミヤーン(バーミヤン)の町を中心とするヒンドゥークシュ山脈山中の渓谷地帯で、標高2500mほどの高地に位置する。

古代から存続する都市バーミヤーンの近郊には、1世紀からバクトリアによって石窟仏教寺院が開削され始めた。石窟の数は1000以上にものぼり、グレコ・バクトリア様式の流れを汲む仏教美術の優れた遺産である。

5世紀から6世紀頃には高さ55m(西大仏)と38m(東大仏)の2体の大仏をはじめとする多くの巨大な仏像が彫られ、石窟内にはグプタ朝のインド美術やサーサーン朝のペルシア美術の影響を受けた壁画が描かれた。バーミヤーンの仏教文化は繁栄をきわめ、630年に唐の仏僧玄奘がこの地を訪れたときにも依然として大仏は美しく装飾されて金色に光り輝き、僧院には数千人の僧が居住していたという。

その後、ムスリム(イスラム教徒)勢力がこの地にも及ぶようになり、次第に仏教徒の共同体は消滅していった。11世紀初頭にこの地を征服したガズナ朝のマフムードによって石窟寺院遺跡が略奪を受けたとも言われる。大仏も装飾が剥がれ、顔面部が崩落するなど長年にわたる放置のために大きな被害を受けたが破壊はまぬがれ、偶像崇拝を否定するイスラムの時代を通じても依然として多くの壁画が残されていた。

19世紀以降、アフガニスタンが国際社会に組み込まれ、西洋人や日本人が山岳地帯の奥深くまで探検に訪れるようになると、バーミヤーン遺跡は大仏を始め多くの仏教美術が残されていたことから俄然注目を集めることとなった。20世紀には多くの学術調査が実施されてその価値は高く評価され、一躍アフガニスタンの誇る世界的な文化遺産とみなされるに至る。

しかし、1979年のソビエト連邦のアフガニスタン侵攻以来アフガニスタンで続いてきたアフガン紛争によって大きな被害を受けた。2001年には当時のアフガニスタンのターリバーン政権の手により爆破され、遺跡は壊滅的な被害を蒙った。紛争終結後の調査により、一連の混乱と破壊により大仏のみならず、石窟の壁面に描かれた仏教画のおよそ8割が失われたと報告されている。

2002年以来、日本が181万ドルを拠出する仏龕の修復事業をはじめ、国際支援による修復が進められている。

遺跡は「バーミヤン渓谷の建造物群」の名により文化遺産に推薦されたが戦争のため保存事業が進まず、1983年に審議延期が決定された。

2001年末にアメリカのアフガニスタン侵攻をきっかけにターリバーン政権が崩壊し、アフガニスタン内戦が一応の終結をみると、遺跡の修復と保全に対して世界的な支援の機運が高まった。まず2002年春に日本政府が70万ドルの拠出してユネスコ日本信託基金を設立してユネスコと共同で修復と保存に乗り出し、2003年には危機遺産として世界遺産に登録された。



2007/08/20 13:07 | 未分類

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