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2025/04/20 12:11 |
5月3日〜5月5日は、浜松まつり
静岡県浜松市で毎年ゴールデンウィーク期間中の5月3日から5月5日までの三日間にわたり開催される凧揚合戦と、同時に市内各地で行われる各種イベントを合わせた恒例行事のこと。昔(1960年代頃)は、5月1日〜5月5日の5日間行われていた。

凧揚合戦は町単位で参加し、その町に誕生した子供(初子)の誕生を祝って、それぞれの町紋(凧印)に子供の名前と家紋を書き入れた大凧(初凧)を揚げ、町同士で凧糸を切り合って競う。
夜には御殿屋台の引き回しと初練りが行われる。
「まつり」と名が付いているものの、特定の神社仏閣の祭礼ではない。但し、地元の神社での安全祈願の為の参拝や、組長の持つ提灯と御殿屋台に御幣を飾る等の神事は習慣として行われる。

これまでその起源は、室町時代の永禄年間(1555年 - 1569年)に、引間城(現在の浜松城)の城主であった飯尾豊前守の長男・義廣公の誕生を祝って、入野村の住人であった佐橋甚五郎が義廣公の名前を記した大凧を揚げた、という史書『浜松城記』の記述を定説としていたが、近年になってこの縁起そのものが大正時代の創作であることがわかっている。
現浜松市の市域において、端午の節句に凧を揚げることに関する最古の資料は、有玉下村(現浜松市有玉台)在住の国学者・高林方朗(みちあきら)の日記に、寛政元年(1789年)4月に凧を購入したという記述が確認されている。
江戸時代の中期には、端午の節句に祝凧を贈って揚げるという風習は浜松だけでなく遠州地方全域で行われており、嫁の里から凧が贈られ、贈られた家では、糸や用具を整え、それを近所の若者が揚げた。
明治に入り庶民の娯楽が多様化すると、初凧の習俗は「古くさいもの」として次第に行なわれなくなってしまうが、浜松の城下町では初凧に糸切合戦の要素が加わりそれが人々を熱狂させ今日まで続くに至る。
明治20年頃、浜松の職人町に町火消が組織されると各町の若者同士の対抗意識が高まって町同士による凧合戦が行われるようになった。町火消単位で凧合戦に参加していたことを直接確かめる資料は見つかっていないが、町火消の影響は、参加各町を町名ではなく頭文字と組で表すことや、古くから参加している町の凧印には纏を図案化したものが多いことからも伺える。
この頃数組以上が集まって凧合戦が行われていた場所として田町の大安寺・法雲寺、北寺島町の機関庫建設予定地、新川端から馬込川端、伊場の鉄道工場建設予定地などがあったが大正7年からは和地山の練兵場に一本化されて行われた。第二次世界大戦による一時中断の後、昭和23年に会場を一時的に中田島に移し、浜松市連合凧揚会主催で第1回の凧揚げ合戦が、50か町余の参加を得て開催された。
戦後の再開頃から行政が主導するようになると、浜松市の観光イベントとして急激に拡大路線へ転換した。昭和45年に自主的な管理組織であった連合青年団統監部が解散させられると、浜松市・観光協会・商工会議所・自治会連合会からなる浜松まつり本部が新たに組織され、観光路線にさらに拍車がかかることになった。長い間、市内中心部の五十町余のみによって行われていた祭りだったが、昭和50年に行政の後押しにより卸本町が途中参加すると、以降毎年のように参加町が増え、わずか30年の間に112町も参加町が増加した。これにより参加者が激増し、全国で5指の人出数を誇る祭りとなったが、急激な肥大化により参加町の3分の2以上が途中参加という現実は浜松の凧そのもののありようを大きく変化させるに至っている。

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2007/05/01 13:27 | 未分類

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