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2025/04/20 11:02 |
聖カタリナ修道院
1884年、西暦およそ500年頃に建てられた修道院から太古の昔に届けられたと見られる、古の手記の断片がイタリアのある図書館で発見された。この手記の一片には「聖なる地」から書かれた旅行記の一部、そしてエルサレムにおける復活祭の詳細な叙述が含まれていた。手書きの文書はエゲリアという名の女性の手によるもので、ラテン語で書かれていた。彼女は聖地や、旧約聖書によりモーセが神から十戒を授かった地とされる、シナイ山やその周辺にある多くの場所を訪れていた。

聖カタリナは、初めは車輪で処刑されることを宣告されたキリスト教の殉教者である。しかし、この処刑が失敗に終わると、彼女は打ち首の刑に処された。伝承によれば、天使が彼女の遺体をシナイ山へと運んだと言われている。800年ごろ、当時のシナイ修道院の修道僧が彼女の亡き骸を発見した。この時、エジプトはムスリムの国であったため、シナイ山に連なる巨大な連峰に建てられていたこのキリスト教の修道院は、初期キリスト教のエジプト出身とされる聖人カタリナの名を使用することができたのである。

修道院は527年から565年の間に皇帝ユスティニアヌス1世の命により建設され、コンスタンティヌス1世の母親であるコンスタンティノポリスのヘレナが建設を命じた、燃える柴の教会を囲んだ。この教会の場所はモーセが神の言葉を授かったとされる燃える柴が見られる場所で、ここに生息する低木は原生のものであるという。現地はユダヤ教、キリスト教、そしてイスラム教の3大宗教から、神聖視されている。

修道院は通例聖カタリナのものとして知られているにもかかわらず、その実際の名称は「キリスト変容の修道院」である。しかし、この場所はその遺骨が奇跡的にも天使によってここへ運ばれてきたと言われる、聖カタリナと結び付けて考えられ、聖地巡礼者からの人気を誇る地となった。

修道院が所有し、ムハンマド本人により署名されたものとされる文書によると、修道院がある種の政治的亡命施設として容認されるようになった後、ムハンマドは敵から身を守るため修道院に身を隠したとされる。こうした理由と修道院領内にファーティマ朝のモスクが立てられた為、修道院は長年に渡る一帯のイスラム教支配下でも生き延びることができたのである。このモスクは間違ってメッカと関連付けられることがあるため、封印され使用されていない。

7世紀中に、シナイ山にいる孤立した隠者が排斥され、補強された修道院のみが残った。修道院は依然としてそれを守る巨大な防御施設により囲まれている。20世紀まで、入り口は外壁の高い位置にあるドアを通じたものであった。1099年から1270年までの十字軍の時代より、シナイ山における十字軍の存在がヨーロッパのキリスト教徒の興味を駆り立て、修道院を訪れる向こう見ずな巡礼者の数を増加させた。また、修道院はエジプト、パレスチナ、シリア、クレタ島、キプロスとコンスタンチノープルにある自主国によって支援されていた。

修道院図書館は世界中の初期の写本や手記の収集物を、世界で2番目に多く収蔵しており、唯一バチカン図書館がそれを越える数を誇るのみとなっている。収蔵するコレクションの長所には、ギリシャ語、コプト語、アラビア語、アルメニア語、ヘブライ語、古代シリア語で書かれたものが挙げられる。

複合施設にはかけがえのない美術品が収容されている。その中には、ギリシャとロシアのイコン、蝋画法による絵画、司祭の装身具、聖餐杯や聖遺物箱がある。最も重要なことに、現地は5世紀と6世紀における、初期イコン作品の拠点となっていた。旧約聖書を題材とした最も古いイコンもここに保管されている。図書館内で行う作品のカタログを作成する計画が、現在着手されている。

修道院はシナイ山正教会全体を構成する。この教会は修道院の大修道院長でもある大主教により率いられる、独立したキリスト教正教会である。大主教は伝統的にエルサレム総主教庁より聖別される。


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2007/09/06 12:56 | 未分類

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