当初は年3回例祭が行われていたが、最も盛大な秋の例祭に次第に一本化されていった。明治に入り新暦に換算され、9月14日が宵宮、15日が本宮となった。1966年(昭和41年)、敬老の日が制定されて以降は14日だけが平日であったが、2003年(平成15年)、ハッピーマンデー制度導入により、15日も平日となった。祭りの観客動員数が減少してしまうことや、社会人や高校生以上の学生などの曳手が参加できなくなり、曳行に支障が出ることを踏まえて、2006年(平成18年)、日程が130年ぶりに(ただし、130年前は新暦への換算であり、事実上初めて)変更され、敬老の日(9月第3月曜日)の直前の土・日曜日に開催されるようになった。
欅で作られただんじりは鳴り物と呼ばれる大太鼓や鐘、笛を備えている。町ごとに1台づつ持ち、岸和田旧市で22台が存在している。地車に100mほどの2本の綱をつけ、500人程度で地元の町を疾走する。基本的には、16–23歳程度までの若者が綱を曳き、欅に女神が宿ると信じられているため、女性を地車に乗せないが、曳き手として参加することは許されている。テレビ報道等では、地車が家の屋根を破壊する映像が取り上げられることが多いが、そのような事故はそう多くはない。
祭礼第1日目の早朝、午前6時から一斉に各町のだんじり21台(2007年(平成19年)からは南上町が加わり22台となる)が通称カンカン場へ向かって繰り出し、やりまわしを行い、『曳き出し』が始まる。早い町は午前5時半頃には自町を出発し、『曳き出し』に参加する。第1日目の午後1時から南海岸和田駅前にて『パレード』が行われる。第2日目の午前9時過ぎから祭の最大の神事『宮入り』が岸城神社・岸和田天神宮・弥栄神社で行われ、クライマックスに達する。特に、岸城神社に向かう際の岸和田市役所前(コナカラ坂)のシーンは人気があり、圧巻である。両日の午後7時から10時頃までの間は、『灯入れ曳行』(ひいれえいこう)と呼ばれ、約200個の提灯で飾られただんじりを小さい子供から老人まで楽しめるよう歩行曳行し、昼間のだんじりの「動」に対し、雅やかな「静」を演出している。曳行時の掛け声は「ソーリャ、ソーリャ」。
「だんじり」は、岸和田だけでなく、泉州・河内や大阪、神戸、奈良など、関西一円の祭の形態として、広く存在している。「だんじり」には大きく分けて、岸和田型の「下だんじり」と、堺市、河内、大阪市および阪神間などに多い「上だんじり」がある。岸和田市内に82台あるだんじりは、全て岸和田型の「下だんじり」である。また、岸和田市近隣の泉佐野市、貝塚市、和泉市(上代町を除く)、熊取町、忠岡町、田尻町にあるだんじりも、全て岸和田型の「下だんじり」である。(和泉市上代町も平成22年の新調で下だんじりになる)。 下だんじりはやりまわしに向いており、上だんじりはゆっくりと曳行するのに向いている。
岸和田だんじり祭は、昭和の終わりから平成のはじめにかけて、多くのマスコミに取り上げられたこともあり、それまで、関西の一地方の祭であったものが、一気に全国区の祭へと大きな飛躍をとげた。長い伝統を誇る日本の著名な祭の多くが、資金難や町衆のパワー不足のため、現状を維持し、現状のままを後世へ伝えていくのがやっと、というような時代の中で、岸和田だんじり祭は、今でもだんじりを保有する町が年々増加し、ますますパワーアップしている。また、それだけでなく、堺市、高石市、和泉市、泉大津市(濱八町を除く)などの近隣の市でも、今まで「上だんじり」を保有していた町が、新調を機に岸和田型の「下だんじり」に買い換えてしまうケースが後を絶たない、というくらいの勢いと影響力をいまだにもち続けているのである。(大阪市、大阪狭山市、南河内郡太子町、奈良県大和高田市、和歌山県橋本市、香川県坂出市などにも岸和田型下だんじりを購入し、曳行している町がある)。岸和田だんじり祭が、現代においてもこれほどの隆盛をきわめている理由は、岸和田だんじり祭そのものの魅力もさることながら、岸和田という街がおかれた、歴史的・地理的な特殊性・偶然性を抜きにしては語れない。
伝統的で盛大な祭は古くから栄えた街で存在することが多く、そのための要件としては「城下町」「港町」「門前町」等があげられる。「大きな城下町」であった街の多くは、明治以降、「都道府県庁所在地」としてさらに大きな発展を遂げた。ただ、その発展が、祭にとっては逆にあだとなり、城下町として栄え、祭が存在していた中心部では、オフィスビル化・空洞化という現象により、町衆が減少し、その結果として祭の活力がそがれるという結果になることがある。京都の祇園祭などはその典型である。また江戸時代に比較的小さな藩によって築かれた「小さな城下町」の大半は、地方都市として過疎に見舞われ、街の活力とともに祭も活力を失っていったのである。
岸和田は江戸時代に譜代大名・岡部氏5万3000石の比較的「小さな城下町」として栄えていた。本来であれば、このような「小さな城下町」は明治以降、衰退の道をたどるのが一般的であるが、岸和田は、大都市・大阪から約20kmという、その恵まれた立地のために、戦後、大阪を中心とする「関西大都市圏」に組み込まれる形で、地方の小城下町でありながら、大阪のベッドタウンとしてさらに発展を続け、人口も増加していったのである。このため、岸和田は「空洞化」・「過疎化」のいずれにも見舞われることなく、町衆は増え続け、そのパワーも温存することができたのである。このことが今日の岸和田だんじり祭の発展の礎となったといえよう。

欅で作られただんじりは鳴り物と呼ばれる大太鼓や鐘、笛を備えている。町ごとに1台づつ持ち、岸和田旧市で22台が存在している。地車に100mほどの2本の綱をつけ、500人程度で地元の町を疾走する。基本的には、16–23歳程度までの若者が綱を曳き、欅に女神が宿ると信じられているため、女性を地車に乗せないが、曳き手として参加することは許されている。テレビ報道等では、地車が家の屋根を破壊する映像が取り上げられることが多いが、そのような事故はそう多くはない。
祭礼第1日目の早朝、午前6時から一斉に各町のだんじり21台(2007年(平成19年)からは南上町が加わり22台となる)が通称カンカン場へ向かって繰り出し、やりまわしを行い、『曳き出し』が始まる。早い町は午前5時半頃には自町を出発し、『曳き出し』に参加する。第1日目の午後1時から南海岸和田駅前にて『パレード』が行われる。第2日目の午前9時過ぎから祭の最大の神事『宮入り』が岸城神社・岸和田天神宮・弥栄神社で行われ、クライマックスに達する。特に、岸城神社に向かう際の岸和田市役所前(コナカラ坂)のシーンは人気があり、圧巻である。両日の午後7時から10時頃までの間は、『灯入れ曳行』(ひいれえいこう)と呼ばれ、約200個の提灯で飾られただんじりを小さい子供から老人まで楽しめるよう歩行曳行し、昼間のだんじりの「動」に対し、雅やかな「静」を演出している。曳行時の掛け声は「ソーリャ、ソーリャ」。
「だんじり」は、岸和田だけでなく、泉州・河内や大阪、神戸、奈良など、関西一円の祭の形態として、広く存在している。「だんじり」には大きく分けて、岸和田型の「下だんじり」と、堺市、河内、大阪市および阪神間などに多い「上だんじり」がある。岸和田市内に82台あるだんじりは、全て岸和田型の「下だんじり」である。また、岸和田市近隣の泉佐野市、貝塚市、和泉市(上代町を除く)、熊取町、忠岡町、田尻町にあるだんじりも、全て岸和田型の「下だんじり」である。(和泉市上代町も平成22年の新調で下だんじりになる)。 下だんじりはやりまわしに向いており、上だんじりはゆっくりと曳行するのに向いている。
岸和田だんじり祭は、昭和の終わりから平成のはじめにかけて、多くのマスコミに取り上げられたこともあり、それまで、関西の一地方の祭であったものが、一気に全国区の祭へと大きな飛躍をとげた。長い伝統を誇る日本の著名な祭の多くが、資金難や町衆のパワー不足のため、現状を維持し、現状のままを後世へ伝えていくのがやっと、というような時代の中で、岸和田だんじり祭は、今でもだんじりを保有する町が年々増加し、ますますパワーアップしている。また、それだけでなく、堺市、高石市、和泉市、泉大津市(濱八町を除く)などの近隣の市でも、今まで「上だんじり」を保有していた町が、新調を機に岸和田型の「下だんじり」に買い換えてしまうケースが後を絶たない、というくらいの勢いと影響力をいまだにもち続けているのである。(大阪市、大阪狭山市、南河内郡太子町、奈良県大和高田市、和歌山県橋本市、香川県坂出市などにも岸和田型下だんじりを購入し、曳行している町がある)。岸和田だんじり祭が、現代においてもこれほどの隆盛をきわめている理由は、岸和田だんじり祭そのものの魅力もさることながら、岸和田という街がおかれた、歴史的・地理的な特殊性・偶然性を抜きにしては語れない。
伝統的で盛大な祭は古くから栄えた街で存在することが多く、そのための要件としては「城下町」「港町」「門前町」等があげられる。「大きな城下町」であった街の多くは、明治以降、「都道府県庁所在地」としてさらに大きな発展を遂げた。ただ、その発展が、祭にとっては逆にあだとなり、城下町として栄え、祭が存在していた中心部では、オフィスビル化・空洞化という現象により、町衆が減少し、その結果として祭の活力がそがれるという結果になることがある。京都の祇園祭などはその典型である。また江戸時代に比較的小さな藩によって築かれた「小さな城下町」の大半は、地方都市として過疎に見舞われ、街の活力とともに祭も活力を失っていったのである。
岸和田は江戸時代に譜代大名・岡部氏5万3000石の比較的「小さな城下町」として栄えていた。本来であれば、このような「小さな城下町」は明治以降、衰退の道をたどるのが一般的であるが、岸和田は、大都市・大阪から約20kmという、その恵まれた立地のために、戦後、大阪を中心とする「関西大都市圏」に組み込まれる形で、地方の小城下町でありながら、大阪のベッドタウンとしてさらに発展を続け、人口も増加していったのである。このため、岸和田は「空洞化」・「過疎化」のいずれにも見舞われることなく、町衆は増え続け、そのパワーも温存することができたのである。このことが今日の岸和田だんじり祭の発展の礎となったといえよう。

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