古代に大陸から伝来したため、「唐傘(からかさ)」とも言う。竹を材料として軸と骨を製作し、傘布に柿渋、亜麻仁油、キリ油等を塗って防水加工した油紙を使用した物である。防水性には大変優れているが、耐久性に乏しく、また、重いという欠点がある。
和傘には番傘と蛇の目傘(じゃのめがさ)の種類があり、この内、蛇の目傘は、傘の中央部と縁に青い紙、その中間に白い紙を張って、開いた傘を上から見た際に蛇の目模様となるようにした物で、外側の輪を黒く塗ったり、渋を塗るなどのバリエーションも見られる。
和傘の歴史
東洋では、傘はまず、貴人に差しかける天蓋として古代中国で発明され、その後、飛鳥時代の552年に仏教の儀式用の道具として朝鮮半島(百済)を経由して日本に伝来され、「きぬがさ」(絹笠、衣笠)と呼ばれた。
その後、平安時代に製紙技術の進歩や竹細工の技術を取り込んで改良され、室町時代には和紙に油を塗布する事で防水性を持たせ、現在と同じ用途で広く使用されるようになった。
また、それと共に傘を専門に製作する傘張り職人が登場して、技術が進歩し、『七十一番職人歌合わせ』には傘張り職人の姿が描かれているほか、奈良の大乗院には唐傘座が組織された。
更に安土桃山時代に、呂宋助左衛門によって呂宋(フィリピン)からろくろを使用して開閉させる傘が輸入され、江戸時代に広く普及するようになった。元禄年間からは柄も短くなり、蛇の目傘がこの頃から僧侶や医者達に使用されるようになったほか、その広げた際の面積の大きさに着目し、雨天時に屋号をデザインした傘を客に貸与して、店の名前を宣伝して貰うといった事も行われたほか、歌舞伎の小道具としても使用されるようになった。また、その製作過程は分業化され、江戸時代には失業した武士が副職として傘を製作する事もあった。長野県下伊那郡喬木村における阿島傘などはその一例で、今日でも同村の特産品となっている。
しかしながら、明治時代以後の洋傘の普及により、和傘は急速に利用されなくなっていった。現在では雨傘としての利用はほとんどなく、観光地での貸し出しや、日よけ用として旅館や和菓子屋の店先、野点用などに、持ち歩くのでなく固定して利用される程度である。 現在では岐阜、京都、金沢、淀江、松山等に少数の和傘製造店が残っている。

和傘には番傘と蛇の目傘(じゃのめがさ)の種類があり、この内、蛇の目傘は、傘の中央部と縁に青い紙、その中間に白い紙を張って、開いた傘を上から見た際に蛇の目模様となるようにした物で、外側の輪を黒く塗ったり、渋を塗るなどのバリエーションも見られる。
和傘の歴史
東洋では、傘はまず、貴人に差しかける天蓋として古代中国で発明され、その後、飛鳥時代の552年に仏教の儀式用の道具として朝鮮半島(百済)を経由して日本に伝来され、「きぬがさ」(絹笠、衣笠)と呼ばれた。
その後、平安時代に製紙技術の進歩や竹細工の技術を取り込んで改良され、室町時代には和紙に油を塗布する事で防水性を持たせ、現在と同じ用途で広く使用されるようになった。
また、それと共に傘を専門に製作する傘張り職人が登場して、技術が進歩し、『七十一番職人歌合わせ』には傘張り職人の姿が描かれているほか、奈良の大乗院には唐傘座が組織された。
更に安土桃山時代に、呂宋助左衛門によって呂宋(フィリピン)からろくろを使用して開閉させる傘が輸入され、江戸時代に広く普及するようになった。元禄年間からは柄も短くなり、蛇の目傘がこの頃から僧侶や医者達に使用されるようになったほか、その広げた際の面積の大きさに着目し、雨天時に屋号をデザインした傘を客に貸与して、店の名前を宣伝して貰うといった事も行われたほか、歌舞伎の小道具としても使用されるようになった。また、その製作過程は分業化され、江戸時代には失業した武士が副職として傘を製作する事もあった。長野県下伊那郡喬木村における阿島傘などはその一例で、今日でも同村の特産品となっている。
しかしながら、明治時代以後の洋傘の普及により、和傘は急速に利用されなくなっていった。現在では雨傘としての利用はほとんどなく、観光地での貸し出しや、日よけ用として旅館や和菓子屋の店先、野点用などに、持ち歩くのでなく固定して利用される程度である。 現在では岐阜、京都、金沢、淀江、松山等に少数の和傘製造店が残っている。

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