セルティックのMF中村俊輔(28)は20日(日本時間同日午後10時)の今季リーグ最終戦、対ハイバーニアン戦(アウェー)でリーグ戦初のベンチスタートとなる。中村は19日、「明日は多分、出ない。全試合出場の記録とリーグ10得点は頭にあるけど、タイトルが大事」と話し、今季チーム2冠目をかけるスコットランド杯決勝(26日・対ダンファームリン)に照準を絞る。ストラカン監督(50)は「スーパーサブで5分間だけ出てくれ」と要請し、全試合出場は達成する見込み。
また、日本代表のアジア杯(7月7〜29日)に関し、「(招集)文書はキリン杯だけきた。クラブとどっちも大事だけど個人的には代表に行きたい」と、出場を希望している。
中村俊輔
ポジションはミッドフィルダー。身長178cm。体重70kg。血液型はO型。
兄の影響を受けて横浜市立深谷台小学校入学と同時に深園FC(2007年廃部)に入団、サッカーを始める。市立深谷中学時代、日産(現横浜F・マリノス)のジュニアユースに所属し、全国優勝に貢献するなどエースとして活躍するが、背が小さい事でユースへの昇格が出来ず、桐光学園に進学しサッカー部に所属することなる(同級生には川崎フロンターレの佐原秀樹がいる)。高校時代は練習に明け暮れ、現在の彼の武器であるキックの精度などを磨いた。高校2年では全国高校サッカー選手権で活躍、脚光を浴びた。高校3年では山本昌邦率いるU-20日本代表に、高校生としてただ一人召集されてアジアユースに出場。またこの年の全国高校サッカー選手権では準優勝を収めた。
1997年、横浜マリノスに入団。徐々に実力を発揮しクラブの主力選手に成長。同年のワールドユースに出場し、1998年初頭にはA代表合宿に初参加。その後U-23代表に招集され、2000年のシドニーオリンピックに主力として出場し、アメリカ戦でアシストを決めるなどベスト8進出に大きく貢献。さらに同年、A代表に招集され、アジアカップでは左サイドで存在感を示し、日本代表選手として定着した。JリーグでもMVPを受賞する活躍を見せた。
2002年5月、日韓W杯直前の親善試合では直接フリーキックで得点をあげる活躍で、本大会メンバーへの召集が有力視されていたが、代表合宿で痛めていた足首のケガが長引いたことや、当時の日本代表監督であったトルシエの選考基準に合致しなかったことなどで落選した[1][2]これにより噂されたレアル・マドリードへの移籍は立ち消えとなった。ケガが癒えた直後の同年7月、イタリアのセリエA のレッジーナに移籍し、3シーズンに渡って準レギュラーながらもクラブの1部残留に尽力。2002年には、ワールドカップ落選の苦境を乗り越えてセリエAで生きていくその姿が、道徳の授業を受け持つ教職員の「参考書」で取り上げられた。
日韓W杯終了後からは新しく代表監督に就任したジーコ監督からチームの柱として絶対的信頼を与えられ、試合に出場していくこととなる。2003年コンフェデレーションズ杯のフランス戦では、ゴールキーパーのバルテズの逆を突くフリーキック[3]や、ジダンのマルセイユルーレットならぬ、横浜ルーレット(俊ターンとも言う)など随所に高い技術を見せ、『宝石のように輝いていた』(レキップ紙)、「彼の左足は豆の缶詰を開けることが出来るだろう(よく曲がる)」(スティーブ・ペリマン)などと評された。
2004年2月、タレント経験がある元ペットショップ店員と結婚。同年12月、第1子誕生。
2005年7月、スコティッシュ・プレミアリーグの強豪セルティックへ移籍。移籍初年度からリーグ優勝と国内カップ戦優勝の2冠を獲得した。スコティッシュ・プレミアリーグはセルティックとレンジャーズの2チームがタイトルを長年に渡り独占している状態にありこの2チームを除くとリーグレベルは高くない。しかし中村個人にとっては欧州トップリーグでの不安定なプレー環境(途中出場や途中交代、守備的なポジションでのプレーなど)よりも、リーグレベルは明らかに低いがチャンピオンズリーグなどで強豪や古豪と対戦でき、また攻撃の起点や中心となれるセルティックを選択したことを評価されることも多い。またセルティックのストラカン監督は、中村を獲得する際に欧州サッカー連盟のロクスブルク技術委員長に評価を求めたところ、「ヘディングはできない。タックルもできない。だが天才だ。」と言われ獲得を決めた。後に2007年の2年連続リーグ優勝を決めた試合後にゴードン・ストラカン監督自身もメディアに対して「周囲は中村はタックルができないと言うが、それがどうした。彼は天才だ。」とコメントしている。
2006年4月、フットボールスクール『Shunsuke Park Soccer School』を出身地横浜に開校。
同年6月、ドイツW杯出場を果たす。グループリーグ第1戦のオーストラリア戦で、自身のワールドカップ本大会初得点をあげる。ちなみにこの得点は誤審による得点であった。続くグループリーグ第2戦のクロアチア戦、第3戦のブラジル戦では、精彩を欠き非難の対象になった。チームは2敗1分で決勝トーナメント進出は成らなかった。 またドイツワールドカップ期間中、長年の夢であるスペイン移籍かセルティック残留かとその去就にも注目されたが、6月14日、2006-07シーズンのUEFAチャンピオンズリーグ出場権を得ているセルティックに残留することを選んだ。 クラブではゴードン・ストラカン監督が全幅の信頼を置いており、そのプレイスタイルは現地サポーターの心もしっかり掴んでいる。
同年9月、2006-07シーズンのUEFAチャンピオンズリーグ(以下CL)出場を果たす。グループリーグ第1戦、オールドトラフォードで開催されたマンチェスター・ユナイテッド戦では、フリーキックで日本人初となる得点を挙げる(前身のチャンピオンズカップでは奥寺康彦が得点している。)も3-2で敗れた。
同年11月のCL・対マンチェスター・ユナイテッド戦では再びフリーキックで得点し、CL個人通算2得点目。これが決勝点となり、セルティックは現行のチャンピオンズリーグとなって初、また日本人選手としても初のチャンピオンズリーグ決勝トーナメント進出が決定した。1回戦のACミラン戦では2試合とも精彩を欠いたが、試合前には相手のACミランのアンチェロッティ監督やカカ、ガットゥーゾから「最も注意すべき選手」として名指しで警戒されていた。CLを間近に控えた2007年2月、スコットランド杯のインバーネス戦で左手小指を骨折し、コンディションが心配されたが、その後も保護プロテクターを装着して試合出場を続ける。同年3月、CL決勝トーナメント1回戦の対ACミラン2戦目がアウェイのサンシーロで行われ、延長戦の末0対1の敗戦。1戦目をスコアレスドローで終えていたため、8強入りの夢はここで潰えた。
2007年のA代表初戦となる3月24日のキリンチャレンジカップ・ペルー戦において、海外組としてはアイントラハト・フランクフルトの高原直泰と共に、オシムジャパン発足以来初の選出を受ける。フリーキックから全得点をアシストし、2−0の勝利に貢献した。
2007年4月、セルティックのリーグ戦連覇が決まり、日本人で初めて欧州リーグで連覇を経験した選手となっている(なお、近年の欧州リーグでの優勝に関しては中田英寿がASローマ(セリエA)所属時代に経験している)。 2006-2007シーズンの活躍は目覚しく、スコットランドPFA年間最優秀選手賞とスコティッシュプレミアリーグベストイレブン、さらにスコットランド・サッカー記者協会年間最優秀選手賞を受賞した。また、ダンディーユナイテッド戦のループシュートが年間ベストゴールにも選ばれている。

また、日本代表のアジア杯(7月7〜29日)に関し、「(招集)文書はキリン杯だけきた。クラブとどっちも大事だけど個人的には代表に行きたい」と、出場を希望している。
中村俊輔
ポジションはミッドフィルダー。身長178cm。体重70kg。血液型はO型。
兄の影響を受けて横浜市立深谷台小学校入学と同時に深園FC(2007年廃部)に入団、サッカーを始める。市立深谷中学時代、日産(現横浜F・マリノス)のジュニアユースに所属し、全国優勝に貢献するなどエースとして活躍するが、背が小さい事でユースへの昇格が出来ず、桐光学園に進学しサッカー部に所属することなる(同級生には川崎フロンターレの佐原秀樹がいる)。高校時代は練習に明け暮れ、現在の彼の武器であるキックの精度などを磨いた。高校2年では全国高校サッカー選手権で活躍、脚光を浴びた。高校3年では山本昌邦率いるU-20日本代表に、高校生としてただ一人召集されてアジアユースに出場。またこの年の全国高校サッカー選手権では準優勝を収めた。
1997年、横浜マリノスに入団。徐々に実力を発揮しクラブの主力選手に成長。同年のワールドユースに出場し、1998年初頭にはA代表合宿に初参加。その後U-23代表に招集され、2000年のシドニーオリンピックに主力として出場し、アメリカ戦でアシストを決めるなどベスト8進出に大きく貢献。さらに同年、A代表に招集され、アジアカップでは左サイドで存在感を示し、日本代表選手として定着した。JリーグでもMVPを受賞する活躍を見せた。
2002年5月、日韓W杯直前の親善試合では直接フリーキックで得点をあげる活躍で、本大会メンバーへの召集が有力視されていたが、代表合宿で痛めていた足首のケガが長引いたことや、当時の日本代表監督であったトルシエの選考基準に合致しなかったことなどで落選した[1][2]これにより噂されたレアル・マドリードへの移籍は立ち消えとなった。ケガが癒えた直後の同年7月、イタリアのセリエA のレッジーナに移籍し、3シーズンに渡って準レギュラーながらもクラブの1部残留に尽力。2002年には、ワールドカップ落選の苦境を乗り越えてセリエAで生きていくその姿が、道徳の授業を受け持つ教職員の「参考書」で取り上げられた。
日韓W杯終了後からは新しく代表監督に就任したジーコ監督からチームの柱として絶対的信頼を与えられ、試合に出場していくこととなる。2003年コンフェデレーションズ杯のフランス戦では、ゴールキーパーのバルテズの逆を突くフリーキック[3]や、ジダンのマルセイユルーレットならぬ、横浜ルーレット(俊ターンとも言う)など随所に高い技術を見せ、『宝石のように輝いていた』(レキップ紙)、「彼の左足は豆の缶詰を開けることが出来るだろう(よく曲がる)」(スティーブ・ペリマン)などと評された。
2004年2月、タレント経験がある元ペットショップ店員と結婚。同年12月、第1子誕生。
2005年7月、スコティッシュ・プレミアリーグの強豪セルティックへ移籍。移籍初年度からリーグ優勝と国内カップ戦優勝の2冠を獲得した。スコティッシュ・プレミアリーグはセルティックとレンジャーズの2チームがタイトルを長年に渡り独占している状態にありこの2チームを除くとリーグレベルは高くない。しかし中村個人にとっては欧州トップリーグでの不安定なプレー環境(途中出場や途中交代、守備的なポジションでのプレーなど)よりも、リーグレベルは明らかに低いがチャンピオンズリーグなどで強豪や古豪と対戦でき、また攻撃の起点や中心となれるセルティックを選択したことを評価されることも多い。またセルティックのストラカン監督は、中村を獲得する際に欧州サッカー連盟のロクスブルク技術委員長に評価を求めたところ、「ヘディングはできない。タックルもできない。だが天才だ。」と言われ獲得を決めた。後に2007年の2年連続リーグ優勝を決めた試合後にゴードン・ストラカン監督自身もメディアに対して「周囲は中村はタックルができないと言うが、それがどうした。彼は天才だ。」とコメントしている。
2006年4月、フットボールスクール『Shunsuke Park Soccer School』を出身地横浜に開校。
同年6月、ドイツW杯出場を果たす。グループリーグ第1戦のオーストラリア戦で、自身のワールドカップ本大会初得点をあげる。ちなみにこの得点は誤審による得点であった。続くグループリーグ第2戦のクロアチア戦、第3戦のブラジル戦では、精彩を欠き非難の対象になった。チームは2敗1分で決勝トーナメント進出は成らなかった。 またドイツワールドカップ期間中、長年の夢であるスペイン移籍かセルティック残留かとその去就にも注目されたが、6月14日、2006-07シーズンのUEFAチャンピオンズリーグ出場権を得ているセルティックに残留することを選んだ。 クラブではゴードン・ストラカン監督が全幅の信頼を置いており、そのプレイスタイルは現地サポーターの心もしっかり掴んでいる。
同年9月、2006-07シーズンのUEFAチャンピオンズリーグ(以下CL)出場を果たす。グループリーグ第1戦、オールドトラフォードで開催されたマンチェスター・ユナイテッド戦では、フリーキックで日本人初となる得点を挙げる(前身のチャンピオンズカップでは奥寺康彦が得点している。)も3-2で敗れた。
同年11月のCL・対マンチェスター・ユナイテッド戦では再びフリーキックで得点し、CL個人通算2得点目。これが決勝点となり、セルティックは現行のチャンピオンズリーグとなって初、また日本人選手としても初のチャンピオンズリーグ決勝トーナメント進出が決定した。1回戦のACミラン戦では2試合とも精彩を欠いたが、試合前には相手のACミランのアンチェロッティ監督やカカ、ガットゥーゾから「最も注意すべき選手」として名指しで警戒されていた。CLを間近に控えた2007年2月、スコットランド杯のインバーネス戦で左手小指を骨折し、コンディションが心配されたが、その後も保護プロテクターを装着して試合出場を続ける。同年3月、CL決勝トーナメント1回戦の対ACミラン2戦目がアウェイのサンシーロで行われ、延長戦の末0対1の敗戦。1戦目をスコアレスドローで終えていたため、8強入りの夢はここで潰えた。
2007年のA代表初戦となる3月24日のキリンチャレンジカップ・ペルー戦において、海外組としてはアイントラハト・フランクフルトの高原直泰と共に、オシムジャパン発足以来初の選出を受ける。フリーキックから全得点をアシストし、2−0の勝利に貢献した。
2007年4月、セルティックのリーグ戦連覇が決まり、日本人で初めて欧州リーグで連覇を経験した選手となっている(なお、近年の欧州リーグでの優勝に関しては中田英寿がASローマ(セリエA)所属時代に経験している)。 2006-2007シーズンの活躍は目覚しく、スコットランドPFA年間最優秀選手賞とスコティッシュプレミアリーグベストイレブン、さらにスコットランド・サッカー記者協会年間最優秀選手賞を受賞した。また、ダンディーユナイテッド戦のループシュートが年間ベストゴールにも選ばれている。
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