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2025/05/17 17:16 |
深川丼
飯の上に、アサリやハマグリとねぎなどの野菜などを煮込んだ味噌汁をかけた丼のこと。

隅田川の河口あたりは、アサリがよく取れたことからきているらしい。 江戸時代末期に江戸深川の漁師が食べ始めたのが由来といわれている。 漁獲が豊富であったため単価が安く、調理が簡単のため早く用意が出来、さらにす早くかき込むことができることが好まれたようである。ただ、当時は時間がかからない方法で味噌汁をぶっかけた方法が取られていたのであって郷土料理という感覚はなかったものと思われる。

江東区の深川、門前仲町あたりでは、深川丼の看板を出した店があちこちにある。 また近年ではアサリやハマグリを炊きこんだご飯を、深川丼として提供する店もある。 炊き込んだ物は元々は深川飯(ふかがわめし)と呼ばれていたが、近年は混同されるようになった。この炊き込んだ「深川飯」仕立てのものは、前述の深川丼をアレンジし、近年になって登場したものである。また、近年は、ご飯の上に煮たアサリを乗せた蒸籠蒸しの深川飯を出す店もある。
お薦め深川丼の具
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2007/08/23 22:07 | 日記
フョードル・ミハイロビッチ・ドストエフスキー
モスクワの貧民救済病院の医師の次男として生まれ、15歳までモスクワの生家で暮らした。作家時代を送ったペテルブルクは物語の舞台として数々の作品に登場する。

1846年、処女作『貧しき人々』を批評家ベリンスキーに激賞され、華々しく作家デビューを果たす。デビュー前のドストエフスキーから直接作品を渡されて読んだ詩人ネクラーソフが、感動のあまり夜中にドストエフスキー宅を訪れたという逸話は有名である。その後空想的社会主義サークルのサークル員となったため、1849年に官憲に逮捕される。死刑判決を受けるも、処刑間際で特赦が与えられ、1854年までシベリアで服役。この時の体験に基づいて後に『死の家の記録』を著す。 刑期終了後、兵士として勤務した後1858年にペテルブルクに帰還。この間に理想主義者的な社会主義者からキリスト教的人道主義者へと思想的変化があったとされる。その後『罪と罰』、『カラマーゾフの兄弟』などの長編を発表。短編も少なからず残されている。 自身の賭博好きな性質、シベリア流刑時代に悪化した持病のてんかん(側頭葉てんかんの一種と思われる。恍惚感をともなう珍しいタイプのてんかん)などが創作に強い影響を与えており、これらは重要な要素としてしばしば作品中に登場する。

また、小説以外の著作として『作家の日記』がある。これはいわゆる日記ではなく、雑誌『市民』でドストエフスキーが担当した文芸欄(のちに個人雑誌として独立)であり、文芸時評(トルストイ『アンナ・カレーニナ』を絶賛)、政治・社会評論、エッセイ、短編小説、講演原稿(プーシキン論)、宗教論(熱狂的なロシアメシアニズムを唱えた)などを含み、後年ドストエフスキー研究の貴重な文献として参照されることとなった。

1881年1月28日に家族に看取られながら60歳で亡くなる。死去するまでに残した著作は全部で35篇である。

ドストエフスキーが日本文学に与えた影響は計り知れない。ドストエフスキー熱は現在でも冷めることなく、「ドストエーフスキイの会」(木下豊房代表)、「ドストエーフスキイ全作品を読む会」などがある。

ドストエフスキーの末裔、ドミトリー氏は現在もサンクト・ペテルブルグで活躍中。関東(早稲田大学)、関西(天理大学)で2004年に来日記念講演を行った。

著作
1841年『マリア・ステュアルト』、『ボリス・ゴドゥノフ』(いずれも現存せず)
1846年『貧しき人びと』、『分身』、『プロハルチン氏』、『剃り落とされた頬髯』、『廃止された役所の話』(後の二作品は現存せず)、
1847年『九通の手紙にもられた小説』、『ペテルブルグ年代記』、『家主の妻』
1848年『他人の妻』、『弱い心』、『ポルズンコフ』、『世なれた男の話』(のちに改稿の上『正直な泥棒』と改題)、『クリスマス・ツリーと結婚式』、『白夜』、『嫉妬ぶかい夫』(のちに『他人の妻』と合わせて『他人の妻とベッドの下の夫』と改題)
1849年『ネートチカ・ネズワーノワ』
1857年『小英雄』
1859年『伯父様の夢』、『ステパンチコヴォ村とその住人』いづれも笑劇的な滑稽小説であるが、不当に無視されている。
1969年『死の家の記録』
1861年『虐げられた人びと』、『ペテルブルグの夢―詩と散文』
1862年『いまわしい話』
1863年『冬に記す夏の印象』
1864年『地下室の手記』
1865年『鰐』(未完)
1866年『罪と罰』、『賭博者』
1868年『白痴』
1869年『大いなる罪人の生涯』(創作ノート)
1870年『永遠の夫』
1871年『悪霊』
1873年『ボボーク』*
1875年『未成年』
1876年『キリストのもみの木祭りに行った男の子』*、『百姓マレイ』*、『百歳の老婆』*、『やさしい女』*
1877年『おかしな人間の夢』*
1880年『カラマーゾフの兄弟』
題名のあとに「*」をつけてあるものは『作家の日記』に収録された短編である。

一般に『罪と罰』、『白痴』、『悪霊』、『未成年』、『カラマーゾフの兄弟』が、ドストエフスキーの5大作品と呼ばれている


2007/08/23 21:51 | 日記
にがりの製法
江戸時代以降、次の方法でにがりを得た。海水から得られた塩をカマスに詰め、縁の下でスノコに載せて夏の間寝かしておくと、湿気の多い季節であるから空気中の水分を吸って潮解が起きる。このときしたたり出る液がにがりである。この工程を「枯らし」という。このようにしてよく枯らした食塩は「甘塩」として高価で取引されたという。

今日では伝統的製法を謳う食塩でも「枯らし」を行うものはほとんど無い。多くの製品は海水を加熱して煮詰めることで結晶化させ、遠心分離でにがり分を除去している。現在のにがりは煮詰めて塩の結晶を除いた残りの液体と遠心分離で分離される液体を混ぜて、濃度を調整して製造されているものが多い。

にがり(苦汁)とは、海水からとれる食品添加物。海水から塩を作る際にできる余剰なミネラル分を多く含む粉末または液体。 主に豆腐の伝統的製法において、豆乳を固める凝固剤として使用される。また料理のアク取りにも使われる。

海水に含まれている塩類は、塩化ナトリウムが多数を占める。海水から食塩を生成する場合、塩化ナトリウムが結晶化し、これを取り除いた後に残った物が苦汁である。成分は、塩化マグネシウムや塩化カルシウムなどである。ほかにカリウム・鉄などのミネラルを含む。味は文字通り苦い。

食品衛生法ではにがりは「粗製海水マグネシウム」という名称で既存添加物名簿に収録されている。法律では食品に添加物を使用した際は基本的に名簿にある物質名で標記をすることになっているが、粗製海水マグネシウムは豆腐の凝固剤として使用した場合のみ「にがり」と標記してもよいことになっている。

日本では、にがりはダイエット食品として話題になってきているが、科学的根拠は明確でなく下痢やミネラルの吸収阻害などの悪影響が出る場合がある。


2007/08/23 13:23 | 日記
タルト生地の作り方
1、ボウルにバターを入れクリーム状になるまでよく混ぜる。
2、ふるった砂糖を2~3回に分けて加え、空気をいれるようにしてすり混ぜる。
3、溶きほぐした卵黄を少しずつ加えながら混ぜ合わせ、バニラを加える。
4、さらに薄力粉を加え、ひとかたまりになるまで練らないようにして混ぜる。
5、全体が均一に混ざれば、軽く打ち粉をした台に乗せ、麺棒を軽く転がすようにして生地を伸ばす。
6、2~3ミリの厚さに生地が伸びたら、麺棒に巻きつけて、タルト型の上にのせる。
7、麺棒を回しながら生地を型の上にかぶせ、指で押さえて生地を型になじませる。
8、麺棒を型の上で転がし、余分な生地を切り取る。
9、生地の底にフォークで穴を沢山あけ、生地が膨らむのを防ぐ。
10、生地の上にアルミ箔を敷き、重石をして180℃のオーブンで15分焼き、重石をとってさらに10分焼

タルトとは、菓子の一種。複数の種類がある。

パイ生地(あるいはビスケット状の生地)で作った器の上に、クリーム・果物等を盛りつけた菓子がそう呼ばれているが、正確にはタルト生地というものが存在する。

カステラ生地に餡をはさみ巻いて作る、ロールケーキに似た洋菓子。タルトレートに由来する、愛媛県松山市の郷土菓子。なお、熊本県の天草地方には、このタルトの上に赤に着色したすあまを巻いた「あかまき」と呼ばれる菓子がある。余談ではあるが、愛媛県松山市では、タルトといえば、一般的にはこちらのことを指す。


2007/08/22 21:52 | 日記
童話かわいそうなぞう
あらすじ
第二次世界大戦が激しくなり、東京・上野動物園では空襲で檻が破壊されて猛獣が街に逃げ出したら大変だということで、猛獣を殺すことを決定する。ライオンや熊が殺され、残すは象のジョン、トンキー、ワンリーだけになる。

象に毒の入った餌を与えるが、象たちは餌を吐き出してしまい、その後は毒餌を食べないため殺すことができない。毒を注射しようにも針が折れて注射が出来ないため、餌や水を与えるのをやめ餓死するのを待つことにする。象たちは餌をもらうために必死に芸をしたりするが、ジョン、ワンリー、トンキーの順に餓死していく。

背景
戦前、上野動物園(東京)・天王寺動物園(大阪)・東山動物園(名古屋)などには、それぞれ多くの動物がいた。しかし戦争の激化により、空襲時に逃げ出したら危険ということで地方行政から猛獣たちを殺処分する命令が出された。各動物園の職員達は反対したが、食糧事情の悪化などもあり、結局戦争が終わったときには殆どの動物は死を迎えていた(また猛獣以外の多くの動物たちも殺処分されたことから、真の理由は危険防止の観点からではなく、敗戦が色濃くなる中での国民に対する戦意高揚にあったとされる)。東京が都政を敷いて間もない昭和18年(1943年)の出来事であり、東京都として最初期におこなった動物園行政が皮肉にも飼育動物の殺処分命令であった。上野動物園には今もこの象舎のすぐそばに動物慰霊碑がある。


2007/08/20 21:52 | 日記

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