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2025/05/15 18:22 |
パリ・コレクションの歴史
「パリコレ」はもともと、オートクチュールのショーだけであった。オート(haute)クチュール(couture)を作り出し、高級衣装店協会を設立したシャルル・フレデリック・ウォルトが先頭に立ち、最高の素材と技術、芸術的センスで仕立てられる最高権威のコレクション「パリ・オートクチュール・コレクション」として1910年頃から開催されるようになった。
1950年頃までは世界のオーダー・ファッションをリードする存在であったが、
1960年中頃から量産既製服であるプレタポルテのショーが始まり、そちらが主流になった。


「パリ・オートクチュール・コレクション」は現在、1シーズンで約20のブランドがコレクションを発表している。しかし、最高級注文服をオーダーする顧客は減少の一途であり、世界では1500人程ではないかという一説もある。すでにオートクチュールだけでのブランドの存続はありえない状況で、数少ない顧客はそれぞれのブランドの高級な顔として象徴的な存在である。

オートクチュール、プレタポルテ、メンズの3つのコレクションはパリで開かれるので「パリコレ」と言える。近年は単に「パリコレクション」といえばプレタポルテのコレクションを意味するようになってきた。区別する時は「パリ・オートクチュール・コレクション」等と言う

「パリ・プレタポルテ・コレクション」は3月に春夏物、10月に秋冬物の展示会が約1週間の日程で開かれる。そのほか、「パリ・オートクチュール・コレクション」は1月と7月に、メンズは2月と7月に開かれる。しかし日程が毎年決まっているわけではなく、前後することも多い。通常「パリコレ」と略される。

数々のデザイナーが新作を発表し、宣伝のために主にバイヤーやジャーナリストやカメラマンを招待する。ビジネスの場なので、一般の人々は基本的に見ることは出来ない。

有名なプレタポルテのコレクションは他にニューヨーク・ミラノ・ロンドン・東京で開かれるが、100以上のブランドが参加するパリ・コレクションが一番規模が大きく、その年の流行が作られるため注目度は非常に高い。

常設会場がルーヴル美術館に隣接して作られるが、ブランドごとに独自に会場を設けることも多い。
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2007/09/04 13:24 | 日記
キノコ狩り
日本では、主に秋のキノコ採集シーズンにおいて、各地域のキノコ愛好家団体による同定会が開催されてている。公立試験研究機関や大学のキノコ関連の研究室が開催している場合もある。同定会に参加すれば、判定するための試薬や顕微鏡といった資材が利用できる上、複数の経験者により的確な判断が得られることなど、安全さと正確さを確保することができる上、自分で採集したキノコ以外を観察することもできるので、単なる食の判断にとどまらずキノコ全般や現地の自然環境についての知識を養うことができる。

同定会の前に採集会がセットされているのが通例で、団体で行動することにより山中でのトラブルを避けることができる。山中のトラブルといえば転落事故や熊・イノシシによる攻撃をイメージしがちだが、もっと注意すべきなのは他人の私有地の中に踏み込みそこでキノコを採取したことによる財産権の問題である。特に商品価値の高いマツタケが生育する場所では、マツタケの採取権と土地の所有権とが別に管理されている場合もあり、特に注意しなければならない。

採集会に参加する際は、指導者からの指示をよく守るべきである。特に狭い地域に多人数が押し寄せてキノコを探し回り踏み荒らすと発生環境が乱され、キノコの発生が減少するにとどまらず、そこの生態系に強い損害を与える危険性がある。

キノコを収穫するだけでなく菌糸体そのものに傷を付けたり好適な基物を破壊したりすると、来シーズンの収穫見込みが減るだけではなく、その区域の自然の多様性を損なうおそれもある。友人のため、家族のためという名目で何でもかんでも引っこ抜いて行くというのは慎むべきである。逆に食用きのこの胞子をまいて増やそうとする行為も稀に見受けられる。効果が疑問であり明確に有害だとは言えないが、自然のバランスを乱す行為には違いない。また、人間にとって危険かつ無用な毒キノコだからといって「討伐」するような行為は、何ら益のない単なる自然破壊に過ぎない。

不幸にしてキノコによる中毒が疑われる状態になった場合には、食べたものを吐かせ、直ちに医師の診察を受けなければならない。その際には、食べたキノコの残りがあれば持っていった方がよい。どのようなキノコによる中毒かがわかった方が適切な治療がしやすいからである。調理したものの残りや吐いたものの中にも手がかりがある場合がある。キノコの種類によっては、摂取から発症までに数日を要するものもある。したがって、医師の診察を受ける際には「4日前に山で採集したキノコを食べた」というようなことを伝えることで救命率が改善されると見られる。

比較的古い(昭和中期)資料では、日本国内でも採れる毒キノコである「ベニテングタケ」を猛毒あるいは致死性の高い毒キノコと表記しているものがあった。ベニテングタケは他のキノコ(食用も毒も含めて)に比べて圧倒的に目立ちやすく、誤食した場合の症状が幻覚性であること、長野県のごく一部にて特別な方法を用いて食用とされる事例が存在することを勘案し、あえて毒性を強く書くことにより事故を予防したものと見られる。ただし、それによってキノコの色彩の派手さこそが毒性の強さの指標となるような誤った認識を助長し、地味な色彩の毒キノコへの警戒心を弱めてしまった側面は否めない。猛毒キノコには地味なものも派手なものもあるが、中毒者数から見た日本の代表的な毒キノコはツキヨタケであり、色彩は地味である。

こうした経緯もあり、最近の植物図鑑やキノコ類の資料においてはこのような記述はなく、「毒キノコの中では比較的毒性が弱い」というような科学的に正確な記述に置き換わっている。当然ながら、弱い毒性であれ人体に有害なのは事実である。幻覚を求めて誤食するようなことは生死に関わる問題である。ベニテングタケの主要な毒成分であるイボテン酸は神経伝達物質のアナログであり、脳の神経細胞を異常に興奮させることで不可逆的なダメージを与える可能性がある。民族学的にはベニテングタケなどの幻覚性キノコをシャーマニズムの幻覚剤などとして用いる事例が知られているが、こうした文化は伝統的に健康上、精神医学上のデメリットを最小限にするような慎重な使用法の経験の蓄積の上に成り立っていることを忘れてはならない。同様に幻覚性のあるシロシビン含有きのこをマジックマッシュルームとして摂取し幻覚作用を楽しむ風潮もあったが、現在は法律で禁止されている。


2007/09/04 13:13 | 日記
オランダせんべい
原料は小麦粉・砂糖(黒砂糖)・塩・膨張剤である。直径20cmほどの円形をしており、厚さは8mm前後の薄いものである。ベルギーワッフルのように表面に凹凸の模様がある。この模様のパターンは全体の1/4ごとに異なっている。専用の焼き型に生地を入れて焼き上げる。

一般の煎餅のようにパリパリしておらず、湿気を持ち弾力のある柔らかい食感を持つことが最大の特徴である。この食感と素朴な味わいに郷愁を感じる根室出身者も多い。なお、この食感は絶妙の焼き加減から生まれるものであり、焼きすぎると通常の煎餅のようにパリパリするという。

オランダせんべいという奇妙な名前の由来ははっきりしないが、表面の模様がオランダの石畳に似ているから、という説が有力である。

いつ頃から根室で販売されていたのかは定かな資料がなく不明だが、恐らく戦後であろうと言われている。最盛期にはたくさんの製造元があったが、次々と撤退し、現在残っているのは後発で参入した「端谷菓子店」のみである。

入手法
根室市およびその周辺のごくわずかなエリアでのみ販売されている。このため、同じ北海道でもその存在を知らない者も多い。根室市内であれば製造元の端谷菓子店だけでなく、地元資本のスーパーやコンビニエンスストア、土産物店などで幅広く販売されている。

なお、製造元の端谷菓子店に限り、製造過程で生じる耳の部分を販売している。この食感を気に入り、指名買いをする者も多いという


2007/09/03 22:18 | 日記
初夜権
領主・聖職者等が結婚初夜に花嫁と床を共にする権利のことであるが、歴史上実在したかについては争いがある

結婚儀式をとりおこなった後、権力者(領主や僧侶など)が、夫よりも先立って処女の花嫁と寝てセックスを行うことが中世ヨーロッパでは認められていたなどと言われている。[要出典] そして、この権利は新郎が金銭と引き換えに権力者から取り戻すことが可能であったとされる。

処女と性行為をすることは災難を招く云々の迷信が信じられている場合、特別の権威を有する領主や聖職者にそれを取り除く機能が期待されていたとも言われる。もちろん領主や聖職者の性的な欲求との合致もまた理由の1つであろう。女性に対し婚姻以前の不貞の有無を問う事を難しくする機能も果たした。

また、法となっていないまでも世界各地にこれと類似した風習があったという。近代以前の社会では、花婿は花嫁の処女を頂く権利さえ、支配階級によって奪われていたのである。 また女性の領主や聖職者の新郎に対する初夜権を認める地域もあった

しかし、セックスするまでの権利があったことを示す確固たる証拠はまったく無く、むしろ、「初夜権」の制度が廃れ始めた時代に形成された不確かな伝承であると言う説もある。領主の権利として、新婦は領主の所有物であり(と言っても結婚初夜の初交まで奪う権利があると言う訳ではなく)、新郎が新婦を領主から買う、という「結婚税」制度が曲解されたのが真相に近いと言う説もある。いかに腐敗していたとしてもカトリックの聖職者が世俗の女性と性的関係を結ぶことが公認されていたとは考え難い。

類似の風習としては、ヘロドトスによれば、紀元前5世紀のバビロンには女性は結婚を許可されるためにはイシュタルの神殿で一度見知らぬ男性に身を委ねなければならない、とする風習(いわゆる神殿売春)があったとされるが、これもイシュタルに仕える女性神官の振舞いを見誤ったものだとする説がある

2007/09/03 21:53 | 日記
東京の「そば」志向
立ち食い店を中心に日本全国には蕎麦とうどんを両方提供する店は多いが、東京では一般にこの様な店を「蕎麦屋」と呼ぶ。

古く江戸では、うどんも盛んに食べられていた。 しかし江戸時代中期以降、江戸での蕎麦切り流行に伴って、うどんを軽んずる傾向が生じたという。江戸でうどんよりも蕎麦が主流となった背景には、ビタミンB1を多く含む蕎麦を食べることで、当時江戸では、「江戸わずらい」と呼ばれ白米を多食する人に見られた脚気が防止できたことにもよる。

蕎麦とうどんの抗争を酒呑童子退治になぞらえた安永期の珍品黄表紙『化物大江山』(恋川春町作)は、当時の江戸人の蕎麦・うどんへの価値観の一面を描いていて、意外な資料価値がある。源頼光役は蕎麦、悪役の酒呑童子はうどんである。なぜか、「ひもかわうどん」だけは蕎麦側についており、蕎麦一色だった江戸でも例外的に人気があったようだ。

以後、江戸→東京では、蕎麦を手繰ることに一種のステータスさえ生じるようになり、「夕方早くに蕎麦屋で独り、天ざる(天ぷら付のざる蕎麦)肴に酒を飲む」ことが、スノッブ(俗物)な趣味として横行するまでに至る。

夏目漱石の『吾輩は猫である』(1905年)でも、粋人を気取るハイカラ遊民・迷亭が「うどんは馬子の喰うもんだ」とうそぶき、上がり込んだ苦沙弥先生宅で勝手に蕎麦の出前を取って一人で喰う描写がある。蕎麦食いの講釈をとうとうと垂れ、薬味のわさびの辛さに涙しつつやせ我慢で耐えて蕎麦を呑み込む迷亭のスノッブぶりに比べ、胃弱症の苦沙弥先生が「うどん好き」であることで、うどんのイメージは相対的に冴えないものとなる。

また、同じく漱石作品の『坊っちゃん』(1906年)においても、江戸っ子の主人公である“坊っちゃん”が松山くんだりで天ぷら蕎麦を注文するシーンが見られる。

漱石が江戸文化の影響を色濃く受けていた事を想起すれば、『猫』での描写は、江戸・東京におけるある種のステレオタイプにのっとったものだったろう。その観念は容易に抜き難く、現在でも東京では、うどんより蕎麦の方が優勢なままである。蕎麦を食べる前提で作られた濃厚な出汁をうどんに用いるのも、これに起因すると見られる。

江戸っ子の蕎麦における「美学」とされるものを示すと以下のようになる(多分に誇張がある)。

うどんは食わない。江戸ではうどんといえば鍋焼きうどんが一般的で、これは風邪引きのときに食べるものとされた。
種物は邪道。「かけ」か「もり」。天麩羅などは無粋のきわみ。
もりを食うときは蕎麦の先だけをつゆに浸す。蕎麦の風味を台無しにしないためと、江戸前のつゆは辛いせいであると言われる。
口に入れたらあまり噛まずに飲みこむ。噛みすぎると風味がうすれるからだという。
腹いっぱいになるまで蕎麦を食うのは野暮。あくまで虫やしないである。
大きな丼にたっぷりと蕎麦が入っているのは野暮。少なければ二杯食べるのが粋である。
箸は割箸。塗箸は好まれなかった。
酒を飲むのでなければ、さっさと食ってひきあげるのが粋とされた。したがって注文してから出てくるまで時間がかかる店は論外。
蕎麦は「手繰る」と言うのが一般的であった。(前出)
江戸・東京市中では、そばが圧倒的に優勢だったとはいえ、関東地方の農業地帯では小麦栽培が広く行われ、江戸・東京以外の地域ではうどんも好まれた。武蔵野台地(武蔵野うどん)をはじめとして、うどん優勢だった地域も多い。現在でも多摩地区・埼玉県西部および北部・群馬県などではうどん・そば共によく食べられている。


2007/09/03 13:13 | 日記

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