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2025/06/10 15:43 |
お嫁サンバ 男バージョン
歌手の郷ひろみ(51)の「お嫁サンバ」の一部歌詞を名前に替えた“個人向けバージョン”男性版が8日から新たに配信されることになった。

5月末の藤原紀香・陣内智則夫妻の披露宴で「恋する紀香はきれいさ〜」と歌ったことで話題を呼び、6月に100人分の女性の名前に替えた替え歌を携帯電話の「着うた」限定で発売。10万配信を超えるヒットで、女性からプレゼント用に“男性版”も発売して欲しいという要望が殺到した。

郷も「こうなったら、いくところまでいくでしょう」と男性の名前50種類に加え、女性の名前もさらに100種類追加録音。男性版には御三家のライバル「ごろう」(野口五郎)、「ひでき」(西城秀樹)や、尊敬する沢田研二の愛称「じゅりー」を収録した。

郷ひろみ
1972年1月にNHK大河ドラマ『新・平家物語』で俳優として芸能界デビュー後、同年8月1日に『男の子女の子』で歌手デビューを果たす。ジャニーズ事務所に所属し、当時人気絶頂だったフォーリーブスの後継者としての活躍が期待された。芸名の「郷」は、「5人目のフォーリーブス」という意味もかけていると言われる。女の子に間違えられる位に甘美で可愛らしいルックスと、鼻にかかった独特の歌声が、若い女性に絶大なる人気を博し、一躍トップアイドルになる。野口五郎、西城秀樹とともに新御三家と呼ばれ、音楽番組以外に日本テレビ系『カックラキン大放送』などのバラエティ番組でも共演した。またテレビドラマにも多数出演し、まさに男性アイドルの典型でかつ象徴的な存在として、1973年、1977年の「ブロマイド」の年間売上実績でNo.1に輝いた。
『小さな体験』、『愛への出発』、『裸のビーナス』(1973年)、『花とみつばち』、『よろしく哀愁』(1974年)、『誘われてフラメンコ』(1975年)、『マイレディー』(1979年)、『How manyいい顔』(1980年)、『お嫁サンバ』(1981年)などがアイドル時代の代表的なヒット曲。また、TBS系ドラマの挿入歌で、共演の樹木希林とのデュエット曲『お化けのロック』(ムー・1977年)、『林檎殺人事件』(ムー一族・1978年)が大ヒットした。
1976年、ジャニーズ事務所からバーニングに移籍。ジャニーズ事務所社長のジャニー喜多川はこの騒動で体調を崩すほどショックを受けたと言われている。この間の経緯については郷の著書『たったひとり』(1980年)に記述がある。
1978年には、ベストドレッサー賞の特別賞を受賞している。
1980年代には、『素敵にシンデレラコンプレックス』(1983年)、『2億4千万の瞳』(1984年)などのヒットもさることながら、西城秀樹の『YOUNG MAN(Y.M.C.A.)』の大ヒットに刺激されて『哀愁のカサブランカ』や『哀しみの黒い瞳』(1982年)、『ケアレス・ウィスパー』(1984年)などの洋楽でバラード曲のカヴァーを次々と発売し、アイドル歌手から大人の魅力を持った本格派歌手への脱皮を図る。またこの頃ボイストレーニングに渡米し、ブレス使いを学んで力まずに声を出す手法を会得し、スローバラードも聴かせられるほど歌唱力がアップした。この事は1990年代のバラード3部作のヒットにも大きな影響力をもたらしたと言えるだろう。
1982年に音楽番組「ザ・ベストテン」への出演を拒否して話題となった。「僕にとっては僕の歌は全部1番、他人に僕の歌のランク付けされるのは嫌だ!」という理由からと説明されたが、絶大な人気を誇っていたテレビ番組への出演拒否は人気の面に悪影響も及ぼしたとされる。
1984年、初代ベストジーニスト賞に輝く。
1985年、交際を公にしていた歌手・松田聖子と破局。1987年、女優の二谷友里恵と結婚(二谷は引退)。以来、生活の拠点を主にニューヨークに置く。
1986年、主演した映画「鑓の権三」(篠田正浩監督)がベルリン国際映画祭銀熊賞を受賞する。
1990年代に入るとTBS系ドラマ『お見合いの達人』の主題歌『言えないよ』などのバラードがヒット。
1998年、二谷と離婚。告白本『ダディ』を出版し、ミリオンセラーとなり出版元の幻冬舎の躍進に大きく貢献したとされる。
1999年、リッキー・マーティンの世界的ヒット曲『Livin' La Vida Loca』の日本語版『GOLDFINGER '99』のプロモーションとして渋谷でゲリラライブを行い、警察の許可を取っていなかったため交通渋滞を引き起こし渋滞に巻き込まれた都バスが数本運休する騒動になり、レコード会社社員が書類送検される事件に発展し話題となった。デビューの年にレコード大賞の新人賞、さらに1976年『あなたがいたから僕がいた』で同賞の大衆賞を受賞して以来、賞には余り縁がなかったが、この年同賞の最優秀歌唱賞を受賞している。
2000年、再婚。2001年の紅白歌合戦を最後に活動を休止し、新妻と共に再びアメリカに移住。日本では「高須クリニック」のCMでのみ姿が見られる状態に。院長の高須克弥とは30年来の付き合い。
2005年3月、久々の活動再開を宣言。しかし同年4月、二度目の離婚。
2006年9月、デビュー35周年記念ライブとして、東京・日比谷野外音楽堂など全国6カ所で8公演を開催。
2007年5月、『Come On Baby』を国土交通省の「ビジット・ジャパン」のキャンペーンソングとして楽曲提供したことにより表彰された。
2007年5月30日、藤原紀香と陣内智則の結婚披露宴でスペシャルゲストとして「お嫁サンバ」を披露した。同披露宴は日本テレビで中継され、熱唱場面は高視聴率をたたき出した。
15年以上前から「ボランティア」「チャリティ」活動に従事する。これまでにフィリピンに学校を4つ設立した。そして日本テレビ「トシガイ」という自分の年齢の数だけ(51歳×1万円)好きなものに使えるという番組で、初めてフィリピンを訪問し子供たちから熱烈な歓迎を受ける。51万円で子供たちに文房具、Tシャツなどをプレゼントした。これからもライフワークにしていきたいと熱く語った。
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2007/08/08 12:54 | 日記

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