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2026/04/29 03:44 |
おいしい関西風お好み焼きの作り方
最もポピュラーなお好み焼きのメニュー「豚玉」の基本的な作り方を以下に示す。

1、生地を作る。小麦粉を水またはカツオ・昆布出汁でダマにならないよう溶き8時間程度寝かせる。(水の分量は粉と同じ重量をおおむねの目安とする)
2、卵と山芋をすり下ろしたものを生地に適量加える。
3、生地の中にキャベツを気持ち1cm幅で切り、その塊をおもむろに少し溢れる程度に入れさっくりとかき混ぜる。
4、油を引き、よく熱した鉄板の上に円盤状に広げる。(直径は約25cm、厚み2.5cm程度)
5、その上に豚肉の薄切り肉を並べるように多めにのせる。
6、裏面がこんがりと焼けてきたら、専用の大型のコテ(ヘラ)2本でひっくり返し反対側の面を焼く。(ひっくり返す際、破れたり飛び散ったりしないよう注意する)
7、両面がキツネ色に焼けてきたら火を弱め表側の面にたっぷりソースをぬる。
8、鰹節・青海苔を全面にふりかける。
9、コテで縦横に切り完成。
※コテはテコと呼ぶこともある。

あとは焼き上がれば、鉄板の上でお好みのサイズに自分で切って食べる。豚肉の代わりにイカをのせれば「イカ玉」になる。具材はこのほか海老、牛肉、ホタテの貝柱などもあり、これらをミックスしたものもある。火の通りにくい食材を入れる場合、別に具材だけを鉄板で軽く焼いておくとよい。近年は表面に好みに応じてマヨネーズをかける。

一般的な具材・・・豚肉、牛肉、イカ、ホタテ、カキ、海老、ネギ、天かす(揚げ玉)、紅しょうが、その他に餅、チーズ等も。
店のお好み焼き屋さんの場合、ふっくらとした仕上げにするため、水で溶いた小麦粉を寝かせることが多いが、市販のお好み焼き粉にはベーキングパウダー、塩、出汁などが多少加えられている。

(近畿地方の関西風お好み焼きの一部の店では、店は生の具と生地をオーダーごとに提供し、客が調理し焼き上げる半セルフサービス形態の店がある。自分好みの焼き加減にできることで、店員の焼き方に満足できない客にニーズがある。お好み焼きが家庭でも一般化したメニューであるため、店員と客で調理技術の差が少ないこともうかがえる。)

関西風お好み焼きのソース
ツヤと粘度があり、各種野菜とナツメヤシなどを用いて甘みと辛味の加減が程良いお好み焼き専用のソースが用いられる。近畿地方では大阪市のイカリソース、神戸市のオリバーソースなど、関西の調味料メーカーが以前からお好み焼き用のソースを販売している。近年は広島市のオタフクソースも流通し、使用される。好みで、辛口のオリバーどろソースやウスターソースを加えることもある。店によってはウスターソースとトンカツソースを1:1の割合で混ぜ、お好み焼きソースとしている場合もある。


関西風お好み焼きのマヨネーズ
関西風お好み焼きにマヨネーズをつけるようになったのは、ぼてぢゅうが嚆矢とされているが、それ以前から家庭内で使われていたと言う説もあり、判然としない。ただ現在、関西風お好み焼きを供する店の大部分がマヨネーズを使用していることから、ソースの甘辛さにマヨネーズの酸味が旨い、と認識されていることは確かなようである。また、店によっては溶き芥子を少量加えることもある。ただし神戸と大阪ではマヨネーズに対する意識に違いがあり、神戸ではより伝統的なお好み焼きをこだわる店ではマヨネーズを置いていないことが多く、置いていても注文しないと出てくることがまずない。最近では若者向けに工夫を凝らす店では客に出す時点でかけられていることも多いが、40代以降の方にはあまり受け入れられていない様子である。大阪ではたいていの店でマヨネーズがかけられているようである。

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2007/08/28 13:30 | 日記
上海
ルール
最初は、季節牌4枚、花牌4枚を含む合計144枚の麻雀牌が積み上げられた状態が表示される。
その牌の山の中から、同じ牌を2枚選ぶと、その牌を取り除くことができる(季節牌と花牌は、季節牌同士、花牌同士であれば良い)。ただし、左右両方に隣接する牌がある場合や、上に牌が乗っている場合はその牌を選ぶことはできない。
144枚全てを取り除くことができればゲームクリア、牌が残っているにも関わらず、消すことのできる牌がなくなったらゲームオーバーとなる。

『上海』 ハドソン PCエンジン 1987年10月30日
『上海』 サンソフト ファミリーコンピュータ 1987年12月4日
『上海』 ハドソン ゲームボーイ 1989年7月28日
『上海II』 ハドソン PCエンジン 1990年4月13日
『上海II』 サンソフト ゲームギア 1990年12月27日
『スーパー上海 ドラゴンズアイ』 ホット・ビィ スーパーファミコン 1992年4月28日
『上海III ドラゴンズアイ』 アスク講談社 PCエンジン 1992年12月18日
『上海III』 サンソフト スーパーファミコン 1994年9月15日
『上海 万里の長城』 サンソフト スーパーファミコン 1995年11月17日
『上海 グレート・モーメンツ』 サンソフト セガサターン 1996年11月15日
『上海 真的武勇』 サンソフト プレイステーション 1998年9月23日
『上海Pocket』 サンソフト ワンダースワン 1999年4月1日
『上海ミニ』 SNK ネオジオポケット 1999年7月29日
『上海ダイナスティ』 サクセス ドリームキャスト 2000年3月16日
『上海フォーエレメント』 サンソフト プレイステーション2 2000年9月28日
『上海~昇龍降臨~』 タイトー プレイステーション 2001年6月7日
『上海~三国牌闘儀~』 サンソフト プレイステーション2 2002年12月19日
『上海』 サクセス ニンテンドーDS 2005年12月22日発売

PCゲーム・携帯端末
パーソナルコンピュータ
『上海』 システムソフト PC-9801 1987年発売
『上海2』 システムソフト PC-9801 1987年発売
『上海』 システムソフト X68000 1987年発売
『上海』 システムソフト FM-TOWNS 1988年発売
『上海2』 ハドソン X68000
『上海 万里の長城』 EAビクター X68000
『上海 グレート・モーメンツ』 ゲームバンク Windows95 1996年発売
『上海 ドラゴンズアイ』 メディアカイト Windows98~XP 2004年11月19日発売
携帯端末
『上海』 サンソフト ザウルス 2003年9月22日発売

携帯アプリ
iアプリ・Vアプリ・EZアプリ
『上海』『上海DX』『上海DXII』『上海EX』『上海☆娘』他多数


2007/08/28 13:26 | ゲーム
恐!!吸血病
人獣問わず、血液を好む症状を示す病気のこと。 自傷行為により自らの血液を飲む人もいれば、付き合っている人から血液を提供してもらうというタイプの人もいる。

自傷型の場合は程度によるが、小さい傷から血液を得る、大きい傷を創って血液を得ると大別される。極度に症状が進行した場合、自分の血液に飽き足らず、犯罪に走って血液を追い求める者もうまれる。以上のような症状は鬱病などとして安定剤を医師に処方してもらうほか、カウンセラーによる症状の改善・回復が求められる。そうしなければ、社会的に復帰するのが困難だからである。

性的嗜好としてこれらに属する人がいたりするが、それよりは鬱病的なことが原因で発症することが多い。また、一度この症状にかかると、タバコや酒を飲むことなどのように日常化してしまい、禁煙や禁酒が困難なように、いわば「禁血」を行うことが困難となる。これに対抗するには禁煙・禁酒の如く強い精神力を持って解決するか、症状の根本的な原因を当事者自らが探り出さなければならないということとなる。いずれにせよ、一度ヴァンパイアフィリアにかかってしまうと、止めようにも止められないという状態に陥ってしまう為、改善には必ず長期戦を伴うこととなる。

改善の一歩として民間療法ではあるが「生肉を食べる」ことや「ドリップ(生肉から出る汁)を飲む」などの方法もある。ただ、衛生面で気をつけるべきは生肉の鮮度などであり、細菌感染などに特に注意すべきで、古い肉よりは新しい肉を、加熱用の肉よりは生食用の肉を食べたりするのが望ましい。

ヴァンパイアフィリアでもっとも注意すべきは、他人の血液を得るケース。この場合は特に血液性の感染症に注意すべきであり、特にその点を留意した上で吸血すること。血液感染症への対策と自己の抑制(コントロール)にさえ注意すれば、他人を害することの非常に少ない症状ではある。しかしながら、嫌悪感を示す人間がいることも確実なため、早期の回復が望まれるのはどの病気や症状も同じであるといえる

2007/08/28 13:23 | 日記
宮本 武蔵の生涯
寛永20年(1643年)に60歳となり、天正12年(1584年)に播磨国(現在の兵庫県)に生まれたと考えられるが、江戸後期にまとめられた小倉宮本家系図(弘化3年1846以前に養子伊織の子孫作成)並びに武蔵を宮本氏歴代年譜の筆頭に置く『宮本氏正統記』には天正10年(1582年)壬午の生まれ、正保2年(1645)享年64と記されていることから、天正10年生誕説を主張する研究者もいる。また、江戸後期の地誌『東作誌』が主張する美作国(現在の岡山県)生誕説は吉川英治の小説『宮本武蔵』に採用され有名である。

武蔵の養子伊織が武蔵の死後9年目の承応3年(1654年)に記した小倉碑文によると父は兵法家の新免無二である。同時代に活躍した當理流の宮本無二斎藤原一真と同一人物とされる。武蔵の養子伊織による『泊神社棟札』にある「有作州之顕氏神免者天正之間無嗣而卒于筑前秋月城受遺承家曰武蔵掾玄信」という記述から、天正年間に秋月城で亡くなった新免某を無二とし、武蔵は無二の養子となったと主張する研究者が多いが、新免無二は明らかに天正年間以後も生存している。また、江戸後期にまとめられた小倉宮本家系図の「新免無二之助の養子となる《為新免無二之助養子》」の記述を根拠に無二は養父であると主張する研究者もいる。美作国(現在の岡山県)の名家であった新免姓は無二の代から用いていたと伝えられる。小倉宮本系図には伊織の祖父田原家貞の次男とされているが、伊織自身による『泊神社棟札』や小倉碑文にはそのことは記されていない。また武蔵や伊織に関する多くの記事を載せている江戸中期に平野庸脩が作成した地誌『播磨鑑』にも武蔵が田原家の出であるとはまったく触れられていない。なお、『東作誌』等で、武蔵の父親を「平田武仁」とする説が有名であるが、「平田武仁」は武蔵の誕生以前に死んでいる。また、それらの史料では、他の武蔵関係の記述も他史料との整合性が全く無く、武蔵に関しての史料価値はほとんど否定されている。

『五輪書』には13歳で初めての勝負を新当流の有馬喜兵衛と決闘して以来29歳までに60余回の試合を行い、すべてに勝利したと記述される。

慶長5年(1600年)の関ヶ原の戦いでは従来、父無二の旧主君であった新免氏が宇喜多秀家配下であったことからそれに従って西軍に参加したと言われてきたが、父の新免無二が関ヶ原の戦い以前に東軍の黒田家に仕官していたことを証明する黒田家の文書(『慶長7年・同9年黒田藩分限帖』)が存在することから、父と共に当時豊前を領していた黒田如水黒田孝高に従い東軍として九州で戦った可能性が高い。黒田家の二天一流道統に伝わる武蔵の伝記『武州傳来記』には、黒田如水の軍に属して九州豊後の石垣原(今の別府)で西軍大友義統軍との合戦に出陣し、出陣前の逸話や、冨来城攻めでの奮戦振りの物語が記されている。

武蔵21歳の時に京に上り兵法家吉岡一門と戦ったことは、文芸作品等でさまざまな脚色がされ有名である。

現在の研究では年月は特定できないが慶長年間に長門国(現在の山口県)の舟島(関門海峡に浮かぶ巌流島)で、巌流なる兵法者と戦った。古くは演劇・講談、現在は小説・映画・漫画等で有名な舟島(巌流島)での戦いは、『二天記』に書かれているような御前試合ではなく、『沼田家記』などに書かれているように、父無二または武蔵本人の門人と巌流の門人との争いから生じた私闘であると考えられる。また、相手の巌流は、佐々木小次郎という名で世間に知られるが、世間で紹介されている説明のほぼすべてが、文芸等で作られてきた虚像、または虚像をもとに考察されたものであり、その姓名・生涯等は一切不明である。

大坂の役(慶長19年(1614年) - 元和元年(1615年))では従来、豊臣方として参戦したと通説の如く語られるが、根拠のない俗説である。実際は、水野勝成の客将として徳川方に参陣し、勝成嫡子勝重(のち水野勝俊)付で活躍したことが数々の資料から裏付けられている。

その後、姫路城主本多忠刻と交渉を持ちながら活躍。明石では町割(都市計画)を行い、姫路・明石等の城や寺院の作庭を行っている。『海上物語』ではこの時期、後に神道夢想流杖術を創始した夢想権之助と明石で試合したことが伝えられている。(同記事のある『二天記』ではこの試合は江戸でのこととされるが、この記事は『二天記』の原史料である『武公伝』には記載されていない。)

元和の初めの頃、水野家臣中川志摩助の三男三木之助を養子とし、姫路城主本多忠刻に出仕させるが、三木之助は寛永3年(1626年)に亡くなった忠刻に殉死する。宮本家は三木之助の実弟が後を継ぎその後も存続したが、同じ年に播磨の地侍田原久光の次男伊織を新たに養子とし、宮本伊織貞次として明石城主小笠原忠真に出仕させている。伊織は寛永8年(1631年)20歳で小笠原家の家老となっている。

寛永15年(1638年)の島原の乱では、小倉城主となっていた小笠原忠真に従い伊織も出陣、武蔵も忠真甥の中津城主小笠原長次の後見として出陣している。小倉滞在中、忠真の命で宝蔵院流槍術の高田又兵衛と試合したことが伝えられている。

寛永17年(1640年)熊本城主細川忠利に招かれ熊本に移る。待遇は客分として7人扶持18石に合力米300石が支給され、熊本城東部に隣接する千葉城に屋敷が与えられ、同じく客分の足利義輝遺児足利道鑑と共に忠利に従い山鹿温泉に招かれるなど重んじられている。翌年忠利が急死したあとも2代藩主細川光尚により変わらず毎年300石の合力米が支給され賓客として処遇された。『武公伝』は武蔵直弟子であった士水(山本源五左衛門)の直話として「士水伝えて云、武公肥後にての門弟、太守はじめ長岡式部寄之、沢村宇右衛門友好、その他、御家中、御側、外様、及陪臣、軽士に至り千余人なり」とこぞって武蔵門下に入ったことを伝えている。この頃余暇に製作した画や工芸などの作品が今に伝えられている。

寛永20年(1643年)熊本市近郊の金峰山にある岩戸の霊巌洞で『五輪書』の執筆を始める。また、亡くなる数日前には「自誓書」とも称される『獨行道』とともに『五輪書』を兵法の弟子寺尾孫之允に与えている。

正保2年5月19日(1645年6月13日)千葉城の屋敷で亡くなる。墓は熊本市弓削にある通称武蔵塚。北九州市手向山に養子伊織による武蔵関係最古の記録のひとつである『新免武蔵玄信二天居士碑』、通称「小倉碑文」がある。

武蔵の兵法は、初め円明流と称したが、『五輪書』では、二刀一流、または二天一流の二つの名称が用いられ最終的には二天一流となったものと思われる。また、後世では武蔵流等の名称も用いられている。熊本時代の弟子に寺尾孫之允・求馬助兄弟がおり、兄孫之允の流系はその弟子柴任三左衛門が肥後を出て福岡藩黒田家などに伝えて広がり、弟寺尾求馬助の系は肥後熊本藩の二天一流兵法を隆盛させた。


2007/08/28 13:21 | 未分類
ジャンクSPORTS(ジャンクスポーツ)
毎回様々なテーマを決め、浜田雅功らMCとゲストのアスリートらがトークを展開する。また、様々な番組オリジナル競技でアスリートが対決するなどの企画もある。野球、サッカーなどのメジャースポーツの選手だけでなく、普段マスコミではあまり取り上げられないマイナースポーツの選手も恒常的にゲストに呼ぶのが特徴で、スポーツ振興としての役割も大きい。また「アスリートの奥様」「スポーツマスコミ」等、スポーツ関係者を広範に特集するなど、アスリート以外にもスポーツ業界の裏側が見られることも。メインMCである浜田の軽妙かつフレンドリーな出演者とのあしらいが、決してしゃべりが得意とは言えないスポーツ選手のいろんな側面を引き出し、魅力となっている。

番組開始当初は火曜23時という時間帯だったにもかかわらずMCとアスリートとのトークで高視聴率を獲得し、深夜時代、裏番組の「ぷっ」すまに打撃を与えた。2003年3月25日には2時間30分のゴールデン特番を放送。これが17.5%(関東地区)と高視聴率だったため、2004年1月11日からは2003年9月で終了した「笑う犬シリーズ」が大不振だった後をうけてゴールデン枠に昇格。2005年4月~6月クール分の平均視聴率が15.6%(レギュラー放送分)と、他の民放の同時間帯の番組である「どうぶつ奇想天外」と比較して0.6%上回っている。また、視聴率が前クールよりも2.1%上回ることにより同時期にスタートした久米宏司会の「A」を3ヶ月で打ち切りをさせた要因となった。また裏番組のNHK大河ドラマが低迷していることと相まって、数字的には互角に争っている。

また、この番組がきっかけで浜田はフジテレビ・FNS系列のトリノオリンピックの特別キャスターを務めることとなった(担当アナに三宅と同局の「新春かくし芸大会」「PRIDE」で内田と共に進行役と務めた高島彩が担当)。また内田恭子アナウンサーとダウンタウンなどのマネージャーを勤める吉本興業の木本公敏氏が2006年1月に結婚した。

又、同年の春には6年間に渡りレギュラー出演した俳優の金子賢が降板。4月23日からは俳優の石垣佑磨がレギュラーに加入。

司会
浜田雅功(ダウンタウン)
※基本の番組進行は浜田、男性レギュラー(金子賢→石垣佑磨)、女性アナ(大橋マキ→内田恭子)の3名で行なっているが、“司会”と肩書がテロップで表示されているのは番組開始以来、浜田のみである。ちなみに画面向かって中央にいる男性レギュラーには肩書なし、向かって左にいる女性アナには担当しているスポーツニュース番組のキャスターという旨の肩書(例:“「すぽると!」キャスター”)がつけられていたが、内田は「すぽると!」降板後の2006.4.9以降、肩書なしとなり、テロップのバランスが少し悪くなってしまった。


2007/08/28 13:16 | 未分類

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