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2025/05/14 07:03 |
セルシオの歴史
初代(10系:1989年~1994年)
1989年10月登場。キャッチコピ―は「この車から、クルマが変わります。」「トヨタ50年の歴史を超えた創造と挑戦の車、セルシオ。」「最高という名のセルシオ。」


エンジンはV8・4000cc(1UZ-FE)を使用している。装備の違いでA・B・Cのグレードが存在した。
サスペンションは、前後ダブルウィッシュボーン式となる。AとB仕様はコイルサスペンションを装備した。B仕様には、路面状況によりダンパーの減衰力が通常走行時の「ハード」の設定から瞬時に「ソフト」に切り替わる電子制御サスペンション「ピエゾTEMS」が装備された。C仕様には、乗り心地がさらにスムーズになる電子制御エアサスペンションを装備した。この仕様には後席の居住性を重視した「Fパッケージ」が存在し、センチュリーのようなショーファードリブンとしての使用を視野に入れたものである。最廉価のA仕様はオーナードライバー向けの仕様としたが、売れ筋はC仕様であった。これは現在でもかわらない。このA・B・Cという基本グレード構成はセルシオのアイディンティティとして3代目まで受け継がれた。
なお、車体そのものや車体に貼られるエンブレムにこのパッケージの違いは出ておらず、そこがクラウンなど既存の国産車との趣向の差である。

2代目(20系:1994年~2000年)
1994年10月に登場。キャッチコピーは「変化を求めず、深化をめざす」。
初代のスタイリングを踏襲し、外観がほとんどかわらなかったため新旧の違いはわかりにくいものであったが、車体の基本的骨格であるプラットフォームの改良により、最小回転半径を縮小し、さらに後席居住性を改善した。初代で不満の多かったブレーキ性能も、フロントにアルミ製対向4ポッドキャリパーを装備するなど、内容の変更は大きいものであった。エンジンは引き続き、V8・4000ccの1UZ-FE型を使用、パーツの見直し等による5psの出力向上と最大110kgの大幅な車両軽量化を達成し、動力性能を向上させた。販売グレードもA・B・C仕様のパッケージが受け継がれた。しかしながら、助手席肩口のパワーシートスイッチや、マイコンプリセットドライビングシステムの設定がなくなるなど、バブル崩壊の影響を少なからず感じさせるモデルでもある。
1996年8月の小変更では助手席肩口のパワーシートスイッチやマイコンプリセットドライビングシステムが再設定された。安全性も向上し、衝突安全ボデー「GOA」を採用したほか、運転席・助手席のサイドエアバッグを標準装備した。また、A仕様とB仕様に欧州仕様のユーロチューンド・サスペンションを採用したeRバージョンが追加された。


1997年7月 マイナーチェンジを行う。キャッチコピーは「その世界的価値」。
フロントグリルとヘッドライトを独立させ、全体的に従来型よりも精悍なスタイリングとなる。ヘッドライトは従来のハロゲンヘッドランプに代わって、オートレベライザー付ディスチャージヘッドランプが設定された。
エンジンもVVT-ⅰ(連続可変バルブタイミング機構)の採用によりMC前の265psから280psとなり、ATも4段から5段へと変更、動力性能と環境性能を同時に向上させた。特筆すべきは安全装備の充実で、6つのエアバッグはもとより、車体の横滑りを防止するVSC、緊急ブレーキのアシストをするブレーキアシスト、プリテンショナー&フォースリミッター付きシートベルトを全車に装備した。また、高速道路などでの使い勝手を向上したレーダークルーズコントロールがオプション設定、多発する盗難対策としてエンジンイモビライザーが標準装備された。このモデルでセルシオは発売10周年を迎え、初の特別仕様車として「10thアニバーサリー」が発売された。

3代目(30系:2000年~2006年)
2000年8月に登場。キャッチコピーは「セルシオを越えるのは、セルシオだけ。」「頂点であること、あり続けること」。
エンジンはV8・4300ccの3UZ-FEに変更された。また、デザインも大きく変わり、ドアはプレス式から後部ドアに三角窓の付くサッシュ式となった。面白いことに、メルセデス・ベンツSクラスはこの頃登場したモデルからセルシオと逆にドアがサッシュ式からプレス式となっている。電子制御も大幅に増加、全ドアイージークローザーが装備され、従来のワイヤレスドアロックの発展版であるスマートキーシステムが選択できるようになる。グレードは、A仕様(標準車・eRバージョン)・B仕様(標準車・eRバージョン)・C仕様(標準車・インテリアセレクション・Fパッケージ・Fパッケージインテリアセレクション)の設定。環境性能にも力を入れ、排気ガスは平成12年規制よりさらに75%低減、市販車では世界トップのCd値0.25を実現した。
2003年8月のマイナーチェンジで外装が変更され、全長はついに5mを超えた。ATが5段から6段になり、10・15モード燃費が従来型の8.2km/Lから8.9km/Lへ向上した。 B仕様が廃止され、A・B仕様のeRバージョンをeR仕様とした。グレード構成は、A仕様・eR仕様・C仕様(標準車・インテリアセレクション・Fパッケージ・Fパッケージインテリアセレクション)となる。安全装備はさらに磨きがかかり、ミリ波レーダーを使用したプリクラッシュ・セーフティシステムがオプションとして導入された。

2005年に国内レクサス店が展開され、次期LSを国内にも導入することとなり、セルシオの名前に終止符が打たれることが決まり、2006年4月新型LSの発表と同時に生産を終了した。

セルシオの販売終了に伴い、トヨタブランドでのラクシュリーセダンのポジションはクラウンマジェスタに一本化されることとなる。

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2007/08/28 21:51 | 未分類
カウンセリング
カウンセリングは一般的には訓練を受けた専門家が,援助ニーズのある人(クライエント)に対して,言語的手段を用いて,援助する方法である。カウンセリングの基盤をなす学問領域にカウンセリング心理学,臨床心理学がある。

心理的なカウンセリングから派生して、様々な分野での相談行為をカウンセリングと慣用的にいう事がある。ただし、その技法は直接この心理的なカウンセリングと関連する訳ではない。例えば、美容、転職、法律、ローンクレジット、結婚、その他の分野などである。

カウンセリングに近い概念として心理療法や精神療法がある。カウンセリングの主な対象者は発達や人間関係の問題で悩んでいる人であり,心理的問題や精神医学的な障害への治療を主な目的とする心理療法や精神療法とは異なる。米国においては,心理療法,精神療法,カウンセリングは区別されているが,日本においては両者を混同して使っている心理学者も多い。

カウンセリングの技法には、来談者中心療法、論理療法、ゲシュタルト療法、認知行動療法、精神分析法、交流分析などが有名である。カウンセリングの基礎技法として「傾聴」がある。これは、いかなる心理療法であってもこの「傾聴」というスキルを使って話を聴く。

米国においては、カール・ロジャースがカウンセリングブームの火付け役となり、どのカウンセラーに相談しているかが一つの社会的ステータスになったと言われている。しかし、このブーム時に専門的な教育を受けていない「自称カウンセラー」が大量に出現し、彼らのカウンセリングを受けた人達からは「カウンセリングは効果がない」という評価が出た。が、一方で、専門的な教育を受けた真のカウンセラーのカウンセリングを受けた人達からは「カウンセリングはすばらしい」という評価が出され、評価は二分された。

日本の臨床心理学ではカウンセリングを勉強する事はないが、米国の臨床心理学では、カウンセリングは必須の科目になっており、日米の臨床心理士のスキル差を生み出している。従って、日本でのみ学んだ臨床心理士はカウンセリングが出来ないと考えて良い。すなわち、日本ではカウンセリング心理学という学問体系が認知されていないのである。

なお、カウンセリングは、人の心の不具合を治療する事が目的ではなく、自分の生き方を反省させる技術だと言ってもいい。従って、いわゆる異常性欲に対しては、本人が「治療」を希望していない限り、カウンセリングは効果がないと見るべきだろう。


2007/08/28 21:47 | 未分類
宮本 武蔵の生涯
寛永20年(1643年)に60歳となり、天正12年(1584年)に播磨国(現在の兵庫県)に生まれたと考えられるが、江戸後期にまとめられた小倉宮本家系図(弘化3年1846以前に養子伊織の子孫作成)並びに武蔵を宮本氏歴代年譜の筆頭に置く『宮本氏正統記』には天正10年(1582年)壬午の生まれ、正保2年(1645)享年64と記されていることから、天正10年生誕説を主張する研究者もいる。また、江戸後期の地誌『東作誌』が主張する美作国(現在の岡山県)生誕説は吉川英治の小説『宮本武蔵』に採用され有名である。

武蔵の養子伊織が武蔵の死後9年目の承応3年(1654年)に記した小倉碑文によると父は兵法家の新免無二である。同時代に活躍した當理流の宮本無二斎藤原一真と同一人物とされる。武蔵の養子伊織による『泊神社棟札』にある「有作州之顕氏神免者天正之間無嗣而卒于筑前秋月城受遺承家曰武蔵掾玄信」という記述から、天正年間に秋月城で亡くなった新免某を無二とし、武蔵は無二の養子となったと主張する研究者が多いが、新免無二は明らかに天正年間以後も生存している。また、江戸後期にまとめられた小倉宮本家系図の「新免無二之助の養子となる《為新免無二之助養子》」の記述を根拠に無二は養父であると主張する研究者もいる。美作国(現在の岡山県)の名家であった新免姓は無二の代から用いていたと伝えられる。小倉宮本系図には伊織の祖父田原家貞の次男とされているが、伊織自身による『泊神社棟札』や小倉碑文にはそのことは記されていない。また武蔵や伊織に関する多くの記事を載せている江戸中期に平野庸脩が作成した地誌『播磨鑑』にも武蔵が田原家の出であるとはまったく触れられていない。なお、『東作誌』等で、武蔵の父親を「平田武仁」とする説が有名であるが、「平田武仁」は武蔵の誕生以前に死んでいる。また、それらの史料では、他の武蔵関係の記述も他史料との整合性が全く無く、武蔵に関しての史料価値はほとんど否定されている。

『五輪書』には13歳で初めての勝負を新当流の有馬喜兵衛と決闘して以来29歳までに60余回の試合を行い、すべてに勝利したと記述される。

慶長5年(1600年)の関ヶ原の戦いでは従来、父無二の旧主君であった新免氏が宇喜多秀家配下であったことからそれに従って西軍に参加したと言われてきたが、父の新免無二が関ヶ原の戦い以前に東軍の黒田家に仕官していたことを証明する黒田家の文書(『慶長7年・同9年黒田藩分限帖』)が存在することから、父と共に当時豊前を領していた黒田如水黒田孝高に従い東軍として九州で戦った可能性が高い。黒田家の二天一流道統に伝わる武蔵の伝記『武州傳来記』には、黒田如水の軍に属して九州豊後の石垣原(今の別府)で西軍大友義統軍との合戦に出陣し、出陣前の逸話や、冨来城攻めでの奮戦振りの物語が記されている。

武蔵21歳の時に京に上り兵法家吉岡一門と戦ったことは、文芸作品等でさまざまな脚色がされ有名である。

現在の研究では年月は特定できないが慶長年間に長門国(現在の山口県)の舟島(関門海峡に浮かぶ巌流島)で、巌流なる兵法者と戦った。古くは演劇・講談、現在は小説・映画・漫画等で有名な舟島(巌流島)での戦いは、『二天記』に書かれているような御前試合ではなく、『沼田家記』などに書かれているように、父無二または武蔵本人の門人と巌流の門人との争いから生じた私闘であると考えられる。また、相手の巌流は、佐々木小次郎という名で世間に知られるが、世間で紹介されている説明のほぼすべてが、文芸等で作られてきた虚像、または虚像をもとに考察されたものであり、その姓名・生涯等は一切不明である。

大坂の役(慶長19年(1614年) - 元和元年(1615年))では従来、豊臣方として参戦したと通説の如く語られるが、根拠のない俗説である。実際は、水野勝成の客将として徳川方に参陣し、勝成嫡子勝重(のち水野勝俊)付で活躍したことが数々の資料から裏付けられている。

その後、姫路城主本多忠刻と交渉を持ちながら活躍。明石では町割(都市計画)を行い、姫路・明石等の城や寺院の作庭を行っている。『海上物語』ではこの時期、後に神道夢想流杖術を創始した夢想権之助と明石で試合したことが伝えられている。(同記事のある『二天記』ではこの試合は江戸でのこととされるが、この記事は『二天記』の原史料である『武公伝』には記載されていない。)

元和の初めの頃、水野家臣中川志摩助の三男三木之助を養子とし、姫路城主本多忠刻に出仕させるが、三木之助は寛永3年(1626年)に亡くなった忠刻に殉死する。宮本家は三木之助の実弟が後を継ぎその後も存続したが、同じ年に播磨の地侍田原久光の次男伊織を新たに養子とし、宮本伊織貞次として明石城主小笠原忠真に出仕させている。伊織は寛永8年(1631年)20歳で小笠原家の家老となっている。

寛永15年(1638年)の島原の乱では、小倉城主となっていた小笠原忠真に従い伊織も出陣、武蔵も忠真甥の中津城主小笠原長次の後見として出陣している。小倉滞在中、忠真の命で宝蔵院流槍術の高田又兵衛と試合したことが伝えられている。

寛永17年(1640年)熊本城主細川忠利に招かれ熊本に移る。待遇は客分として7人扶持18石に合力米300石が支給され、熊本城東部に隣接する千葉城に屋敷が与えられ、同じく客分の足利義輝遺児足利道鑑と共に忠利に従い山鹿温泉に招かれるなど重んじられている。翌年忠利が急死したあとも2代藩主細川光尚により変わらず毎年300石の合力米が支給され賓客として処遇された。『武公伝』は武蔵直弟子であった士水(山本源五左衛門)の直話として「士水伝えて云、武公肥後にての門弟、太守はじめ長岡式部寄之、沢村宇右衛門友好、その他、御家中、御側、外様、及陪臣、軽士に至り千余人なり」とこぞって武蔵門下に入ったことを伝えている。この頃余暇に製作した画や工芸などの作品が今に伝えられている。

寛永20年(1643年)熊本市近郊の金峰山にある岩戸の霊巌洞で『五輪書』の執筆を始める。また、亡くなる数日前には「自誓書」とも称される『獨行道』とともに『五輪書』を兵法の弟子寺尾孫之允に与えている。

正保2年5月19日(1645年6月13日)千葉城の屋敷で亡くなる。墓は熊本市弓削にある通称武蔵塚。北九州市手向山に養子伊織による武蔵関係最古の記録のひとつである『新免武蔵玄信二天居士碑』、通称「小倉碑文」がある。

武蔵の兵法は、初め円明流と称したが、『五輪書』では、二刀一流、または二天一流の二つの名称が用いられ最終的には二天一流となったものと思われる。また、後世では武蔵流等の名称も用いられている。熊本時代の弟子に寺尾孫之允・求馬助兄弟がおり、兄孫之允の流系はその弟子柴任三左衛門が肥後を出て福岡藩黒田家などに伝えて広がり、弟寺尾求馬助の系は肥後熊本藩の二天一流兵法を隆盛させた。


2007/08/28 13:21 | 未分類
ジャンクSPORTS(ジャンクスポーツ)
毎回様々なテーマを決め、浜田雅功らMCとゲストのアスリートらがトークを展開する。また、様々な番組オリジナル競技でアスリートが対決するなどの企画もある。野球、サッカーなどのメジャースポーツの選手だけでなく、普段マスコミではあまり取り上げられないマイナースポーツの選手も恒常的にゲストに呼ぶのが特徴で、スポーツ振興としての役割も大きい。また「アスリートの奥様」「スポーツマスコミ」等、スポーツ関係者を広範に特集するなど、アスリート以外にもスポーツ業界の裏側が見られることも。メインMCである浜田の軽妙かつフレンドリーな出演者とのあしらいが、決してしゃべりが得意とは言えないスポーツ選手のいろんな側面を引き出し、魅力となっている。

番組開始当初は火曜23時という時間帯だったにもかかわらずMCとアスリートとのトークで高視聴率を獲得し、深夜時代、裏番組の「ぷっ」すまに打撃を与えた。2003年3月25日には2時間30分のゴールデン特番を放送。これが17.5%(関東地区)と高視聴率だったため、2004年1月11日からは2003年9月で終了した「笑う犬シリーズ」が大不振だった後をうけてゴールデン枠に昇格。2005年4月~6月クール分の平均視聴率が15.6%(レギュラー放送分)と、他の民放の同時間帯の番組である「どうぶつ奇想天外」と比較して0.6%上回っている。また、視聴率が前クールよりも2.1%上回ることにより同時期にスタートした久米宏司会の「A」を3ヶ月で打ち切りをさせた要因となった。また裏番組のNHK大河ドラマが低迷していることと相まって、数字的には互角に争っている。

また、この番組がきっかけで浜田はフジテレビ・FNS系列のトリノオリンピックの特別キャスターを務めることとなった(担当アナに三宅と同局の「新春かくし芸大会」「PRIDE」で内田と共に進行役と務めた高島彩が担当)。また内田恭子アナウンサーとダウンタウンなどのマネージャーを勤める吉本興業の木本公敏氏が2006年1月に結婚した。

又、同年の春には6年間に渡りレギュラー出演した俳優の金子賢が降板。4月23日からは俳優の石垣佑磨がレギュラーに加入。

司会
浜田雅功(ダウンタウン)
※基本の番組進行は浜田、男性レギュラー(金子賢→石垣佑磨)、女性アナ(大橋マキ→内田恭子)の3名で行なっているが、“司会”と肩書がテロップで表示されているのは番組開始以来、浜田のみである。ちなみに画面向かって中央にいる男性レギュラーには肩書なし、向かって左にいる女性アナには担当しているスポーツニュース番組のキャスターという旨の肩書(例:“「すぽると!」キャスター”)がつけられていたが、内田は「すぽると!」降板後の2006.4.9以降、肩書なしとなり、テロップのバランスが少し悪くなってしまった。


2007/08/28 13:16 | 未分類
キャンピングカーの必須設備
寝泊まりが出来ることが要件なので、寝台が必要である。乗車定員の3分の1以上の人数分の平坦な寝台の面積が必要である。走行中に寝台を使用してはいけないので、寝台自動車として利用することはできない。可動式でも良いので、通常は座席の状態となっていることが多い。

調理設備が必要である。最低でも「湯が沸かせること」が必要なので、熱源(電気かガス)と水道設備(清水(=ホワイトタンク)と汚水(=グレータンク)の貯蔵設備と、その供給設備)、流し台や、調理スペースと、調理をする人間がそこに立つことのできる空間が必要である。

以上の状態が揃っていないと、違法な状態となる。寝台が使えない状態なり、湯沸しが出来ない状態となれば程度にもよるが、摘発される可能性もある。事故を起こせば、保険金の支払に問題が出ることも考えられる。

その他の設備
必須ではないがついていることのある設備は以下のようなものである。

トイレ
個室がある場合とない場合があるが、貯めておく容器のついたポータブルトイレが設置されることがある。臭気の問題、処理の容易さからあくまで簡易なものが多い。
冷暖房設備
車両のエンジンにより稼働するエアコンで冷暖房できる間は良いが、夜間の就寝時などエンジンをかけない場合を想定し暖房できるようにガソリンヒーターを備えているものがある。また、外部から給電したり発電機を車外に設置して、ルームエアコンを稼動させる場合もある。
冷蔵庫
シャワー
食事のできるテーブル
ベッドを利用して、ダイニングとして利用することが多いが、専用の食事用テーブルを持つものもある。
テレビ、ビデオ
充電システム
補助バッテリーを備えているものが多く、自動車走行中に充電したり、外部からの充電を制御するシステムがついていることが多い。
サイドオーニング(外部の日よけテント)
サイクルラック(後部に自転車を積む設備)

キャンピングカーは法律上の8ナンバー特殊用途自動車である必要はまったくない。よって必須の設備かどうかは使用者の判断である。以下は、法律上の特殊用途自動車に該当するためのものとして記してある。(以前、ここに記載のあった「規制強化」の項目については実質的なキャンピングカーの要件ではなく法律上の特種用途自動車適合性の記述であったので特種用途自動車の項目に移動した。)また、もともと、当項目が、8ナンバー取得要件のために書き起こされたと思われ、以下の項目も、道交法上の8ナンバー取得要件と実用上の快適性とが混在して記してあるため、誤解を招きやすい。今後の整理が必要である。


2007/08/27 21:52 | 未分類

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