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2025/04/21 15:46 |
オペラの歴史
オペラの成立
「オペラ」(opera) という単語はイタリア語で「仕事」「作品」を意味し、この語自体は同義のラテン語 opus (単数属格形 operis) の複数形主格 opera に由来する。今日 opera は単独で歌唱によって進行される演劇ないし楽曲作品を意味するが、元来は opera musicale (音楽的作品)と呼んだものの省略から、この語義が生じた。

ルネサンス後期の16世紀末、フォレンツェで古代ギリシャの演劇を復興しようという動きが始まった。ギリシャ悲劇を模範に、歌うようなせりふを用いる劇が考えられた。今日、オペラとみなされる知られる限り最古の作品は、1597年ごろのヤコポ・ペーリによる『ダフネ』 (Dafne) であるが、作品は現存しない。のちのペーリの作品である『エウリディーチェ』は1600年以降に作曲されたもので、今日に残る最初のオペラ作品である。

ペーリはしばしばオペラの発明者であると考えられているが、今日でも上演される最古のオペラは1607年にマントヴァで初演されたクラウディオ・モンテヴェルディ作曲の『オルフェオ』である。この作品では先駆者の様式に従いながらも、調性や強弱の変化による緊張感を高めた、より劇的な表現が見られる。モンテヴェルディは後にヴェネツィアのサンマルコ聖堂で楽長の地位を得、同地に新設された専用のオペラ劇場のために優れた作品を生み出す。この時期にはイタリア各地でオペラが上演されるようになり、18世紀に掛けてナポリで隆盛を極めた。様式は朗唱だけでなく歌謡的なアリアの比重が高まり、伴奏の規模も拡大して、より充実した音響効果がみられるようになる。衣装や舞台装置も徐々に複雑できらびやかなものとなり、オペラ劇場は王侯貴族や富裕な市民の社交と娯楽の場としても発展した。


オペラ・セリア
もともとギリシャ悲劇の再来を目指した当時のオペラは後にオペラ・セリア(正歌劇)と呼ばれるようになる(セリアは英語の serious の意)。題材はやはりギリシャ神話に求められることが多いが、ローマ時代などの人物を扱ったものも見られる。

オルフェウスとエウリディケ(既出のペーリやモンテヴェルディら多数)
ディドとエネアス(パーセル)
テセウス/アリアドネ/ディオニュソス
ポッペアの戴冠(モンテヴェルディ)
ポントの王ミトリダーテ(ポントス王国のミトリダテス6世)、イドメネオ、皇帝ティートの慈悲(ティトゥス)(モーツァルト)

オペラ・ブッファ
これに対し、もっと世俗的な内容の作品がオペラ・ブッファ(喜劇オペラ)である。もともとは、3幕もののセリアの幕間劇として演じられたコメディが独立し、規模拡大したものである。初期の幕間劇で今日まで残るものとして、ペルゴレージの『奥様女中』がある。18世紀には独立されたジャンルとして発展し、パイジエッロ、チマローザ、サリエリなどが多数の作品を残した。中でも、モーツァルトがダ・ポンテの台本に作曲した『フィガロの結婚』『ドン・ジョヴァンニ』『コジ・ファン・トゥッテ』が有名である。


イタリアオペラとドイツオペラ
何世紀もの間、イタリアオペラが正統派オペラの形式であり、多くのオペラは、作曲者が主に英語やドイツ語を話していたとしても、イタリア語の台本に作曲された。

18世紀においてもなお、イタリア音楽こそが最高のものであるという認識が残っており、どこの宮廷でもイタリア人音楽家をこぞって重用した。その一方で今日名を残す多くのドイツ人作曲家が登場したが、彼らの多く、たとえばグルックやヘンデルはイタリア語オペラのみで、ドイツ語のオペラ作品は書いていない。また、また、ドイツの宗教的・国民的気風が快楽主義的なオペラという形式自体を嫌った側面もある。

ドイツ語オペラの作曲に意欲を燃やした最初の作曲家はモーツァルトである。なかでも死の年(1791年)に書かれた『魔笛』は優れた作品である。これは当時ジングシュピールと呼ばれたジャンルとして書かれた。本来のジングシュピールがせりふによる劇の進行のところどころに歌を配した文字通りの歌芝居であるのに対し、彼がヴィーン時代の初期に作曲した『後宮からの誘拐』(1782年)は、すでに堂々たるオペラになっている(音楽が主、語りが従)。伝えられる逸話によれば、上演に接したオーストリア皇帝ヨーゼフ2世はモーツァルトに対し「音符が少々多い」と感想を述べたところ、彼は「音符はまさに必要なだけございます」と答えたという。真偽はともかく、このジャンルに対する一般の認識と、作曲者の対抗心が対比されており興味深い。


ドイツオペラの誕生と興隆
このドイツ語オペラの流れは、その後もルートヴィヒ・ヴァン・ベートーヴェンの『フィデリオ』を生むが、真にドイツオペラをオペラ界の主要ジャンルとして確立させたのはヴェーバーの『オベロン』や『魔弾の射手』といった作品で、イタリアのセリアともブッファとも異なるドイツ・ロマン派音楽の特質を表しており、これはヴァーグナーへの道でもある。一方、オペラ・ブッファに対応するドイツオペラも誕生し、オペレッタとして大衆的な支持を得て発展した。一方でワーグナーの登場もあり、ドイツオペラは硬軟両面で急速に興隆していく。

とはいえ、ドイツ・オーストリアにおいてはオペラを全く書かなかった、あるいはめぼしい作品を残さなかった大作曲家としてシューベルト、メンデルスゾーン、シューマン、リスト、ブラームス、ブルックナー、マーラーらがおり、前世紀のバッハを含め、むしろこちらの方が多数派であることがわかる。ベートーヴェンにせよ1曲だけであり、それもさん然たる代表作とは言いがたい。その点、オペラ以外の作品が希少なぐらいなイタリアとは事情が異なる。モーツァルト、ワーグナー、R・シュトラウスの三巨峰がそびえ、魅力的なウィンナオペレッタの数々がふもとを彩るとはいえ、少なくとも作品系譜としてはイタリアオペラに一歩を譲る位置づけといえよう。

ただし、上演は別である。今日ドイツは140もの歌劇場を擁し、イタリアの3倍を超える上演数を誇る(しかもオーストリアとスイスを別勘定として)世界最大のオペラ大国である。


フランスオペラ
ジャン=バティスト・リュリによりフランス語で歌われる独立したフランスオペラの伝統が創始された。19世紀半ばには、フランス国内で上演されるオペラは一般的にフランスで書かれたものか、フランス語に翻訳されたものであった。フランスオペラの特徴は5幕でバレエを含む大規模な形式で、グランド・オペラ様式といわれた。代表的な作曲家はマイヤベーアである。ヴァーグナーやヴェルディもパリで自作を上演する際にはわざわざバレエを追加したくらいである(『タンホイザー』と『ドン・カルロス』)。この様式の大家としてはマイアベーアが人気を博し、『アフリカの女」『ユグノー教徒』など、今日でも上演される作品を残している。

イタリアのオペラ・ブッファに相当するオペラ・コミック(ドイツのジングシュピールやオペレッタのようにせりふを用いる)の誕生は18世紀にさかのぼるが、喜劇だけではなくせりふで演ずるオペラとして発展した。特にジャック・オッフェンバックの『地獄のオルフェ』(邦題『天国と地獄』)が国際的に爆発的な成功を納めた。オッフェンバックはヨハン・シュトラウス2世にオペレッタの創作を勧め、ウィンナ・オペレッタ誕生につながっていく。その後フランスではジョルジュ・ビゼーの『カルメン』などが生まれた。

なお、これらのうちマイヤベーアとオッフェンバックは元々ドイツ人であるが、作品はあくまでパリを拠点にフランス語で書かれたためフランスオペラとして扱われる。ただし、オッフェンバック作品は本人の生前からウィーン上演が好評を博したこともあり、死後はドイツ語訳上演のほうが多くなっている。このほかよく上演される作品として、トマ(『ミニヨン』)、グノー(『ファウスト』)、サン=サーンス(『サムソンとデリラ』)、マスネ(『マノン』『ウェルテル』)、シャルパンティエ(『ルイーズ』)、ドビュッシーの『ペレアスとメリザンド』などがある。


19世紀前半のイタリアオペラ
19世紀ヨーロッパの音楽界では、ロッシーニが『セビリアの理髪師』『アルジェのイタリア女』『チェネレントラ(シンデレラ)』などのオペラ・ブッファを量産するなど、引き続きイタリアオペラが主流の座を占めた。ヴィーンでもベートーヴェンはロッシーニの人気の足元にも及ばぬ状況であった。またオペラ・セリア様式の作品も、題材はギリシャ古典から中世以降に下った時期になったが悲劇として継続しており、ドニゼッティの『アンナ・ボレーナ』(イングランド国王ヘンリー8世の王妃アン・ブーリン)『マリア・ストゥアルダ』(スコットランド女王メアリー・スチュアート)、『ランメルモールのルチア』などが知られる。ベッリーニもまた『清教徒』『ノルマ』『カプレーティ家とモンテッキ家』(ロメオとジュリエット)などのセリアの作曲で知られる。もっともドニゼッティはブッファの傑作『愛の妙薬』でも有名であり、ロッシーニも『タンクレディ』『オテロ (ロッシーニ)』(シェイクスピア原作)『湖上の美人』(ウォルター・スコットの原作)『セミラーミデ』(ヴォルテールの原作)といったセリア作品や、『泥棒かささぎ』といったセミ・セリア作品及び『グリエルモ・テル』(シラーのヴィルヘルム・テルによるグランドオペラ)でも評価を得ている。


ヴァーグナー
オペラの発展は、ヴァーグナー(ワーグナー)とヴェルディによって、19世紀に最も劇的な段階を迎えた。

ヴァーグナーは、通奏低音で伴奏される比較的小音量のレチタティーヴォに、フルオーケストラ伴奏によるアリアがところどころ挿入され、アリアの終了の度に熱心な聴衆の拍手喝さいにより演奏が中断されるという伝統的なオペラの形式を拒んだ。それに替わりレチタティーヴォとアリアが混然一体となり、また常にオーケストラにより伴奏されるという、通して歌われる様式を導入した先駆者となった(このため拍手は幕間にだけ行われるようになった)。さらにヴァーグナーはライトモティーフを大々的に使用した。ライトモティーフは、かつてカール・マリア・フォン・ヴェーバーの使用例もあるが、物語中の登場する登場人物、道具や概念などを音楽で描こうという音楽的な工夫である。例えばある人物が舞台に登場するときや、舞台にいなくても他の登場人物が彼(彼女)について触れるときに、その人物を表すライトモティーフを奏でることであたかも映像を見ているような描写的効果を得ている。

ヴァーグナーはまた、楽劇とよばれる独特のオペラで作品の大規模化ももたらした。より重厚な響きを求めて大編成化したオーケストラに歌唱が埋没せぬよう、聴衆が舞台のみに集中して鑑賞するように、彼は自分自身の作品を上演する専用の劇場を必要とするに至り、バイエルンのルートヴィッヒ2世からの資金援助を受けて、オーケストラ・ピットを舞台の下に押し込めるという特異な構造の劇場をバイロイトに建設した。そこで上演される『ニーベルングの指輪』は4つの楽劇に分かれた巨大作品で、四夜を費やして演奏される。これを通して観ると約15時間程になり、空前絶後の大規模作品である。(現在はシュトックハウゼンの「光」という一週間を要する作品があり、規模の上ではこれを上回る。)

ヴァーグナーの楽劇の題材は北欧神話や中世の物語を扱っており、その意味ではオペラ・セリアの延長線上にあるともいえる。中世ドイツのマイスター(職人の親方たち)を題材にした『ニュルンベルクのマイスタージンガー』は唯一の喜劇的作品であるが、ロッシーニの喜劇に比べるとはるかに生真面目ともいえる。


ヴェルディ
ヴェルディはヴァーグナーのような音楽の革命家ではなかったが、オペラ・セリアの伝統的形式を継承発展させる形で作曲した。彼のオペラの登場人物は、まだ市井の一般人ではないが、神話的人物や叙事詩的英雄というわけでもなく、現代的な(彼の同時代という意味で)オペラセリアを再構築したということもできる。彼は初期の作品で、イタリア独立運動を支持する人々の愛国心を高揚させて大いに支持を受けた。ついで、登場人物の人間性に鋭く迫って劇的に表現する作風を確立し、音楽としてもドラマとしても完成度の高い中期の傑作群を創作した。グランドオペラ風の『アイーダ』と(オペラではないが)死者のためのミサ曲『レクイエム』を最後にいったんリタイアしたあと、作曲家ボーイトらのすすめで再度筆をとり『オテロ』『ファルスタッフ』をのこした。


ヴェリズモ・オペラ
ヴェリズモ・オペラは、イタリアで発生したヴェリズモ文芸運動がオペラに波及したものとみることも、自然主義文学のオペラへの影響とみることもできる。そこでは市井の人々の生活が、病苦・暴力といった暗部をも含む形で描写される。マスカーニの『カヴァレリア・ルスティカーナ』(田舎騎士)は、シチリアの小村における悲劇であり、ヴェリズモ・オペラの初期の傑作である。またレオンカヴァルロの『道化師』では、現実と仮想世界との区別の付かなくなった道化師カニオが舞台上で妻を殺してしまう。この傾向のオペラは1890年代から20世紀初頭にかけて多くの模倣・追随者を生んだ。


ロマン派オペラの終焉
リヒャルト・シュトラウスは、『サロメ』、『エレクトラ』で大きな反響を得た。前者の官能を刺激する色彩的な音楽は賛否両論を生み、後者の大胆な和声は伝統的な響きに慣れ、それらを好む聴衆からは猛反発を受けた。しかし、R.シュトラウスのオペラ作家としての地位は固まり、詩人ホフマンスタールとともに様々な新機軸を出した。後年、円熟した擬古的な作風の『ばらの騎士』『アラベラ』『ナクソス島のアリアドネ』などで音楽的完成度と大衆的な人気をともに確保して、モーツァルト・ヴァーグナーと並ぶ「ドイツの3大オペラ作曲家」と呼ばれるようになった。しかし、晩年の作品はロマン派の最盛期を過ぎた残照のような位置づけであることは否めない。

ジャコモ・プッチーニは、ヴェリズモオペラの影響を受けつつも、イタリアオペラの伝統に沿った作品を書いた。彼は庶民的な題材と美しいメロディをほどよくバランスさせ、親しみやすいなかにも完成度の高い作品群を作って人気を博した。出世作『マノン・レスコー』と引き続く『ラ・ボエーム』は好評を持って迎えられ、彼の地位を確立した。『蝶々夫人』では歴史的な失敗を喫したが、今日ではあらゆるオペラのなかでも人気の高い作品として知られるようになった。

R.シュトラウスとプッチーニは、ロマン派のオペラの幕を引いたといってよい。これ以降は、演劇と音楽が協調してできたオペラの役割は、映画あるいは今日ではテレビが担うことになる。


諸国の国民的オペラ
ロシアの国民主義のオペラはグリンカにより創始され、ロシア5人組によって継承発展された。ムソルグスキーの『ボリス・ゴドゥノフ』は名高い。また、リムスキー=コルサコフは『金鶏』『サドコ』など多数の作品を残した。チャイコフスキーは『エフゲニー・オネーギン』や『スペードの女王』で知られるが、彼のバレエ音楽とともにむしろ西欧風の作品といえる。20世紀に入ると、ショスタコーヴィチが『ムツェンスク郡のマクベス夫人』という近代オペラの傑作に数えられる作品を生んだ。

またスペインではサルスエラとして知られる、民族音楽風味を取り入れた独自様式のオペラが作られた。これはフランスのオペラ・コミックやドイツ・オーストリアのオペレッタに近い位置づけである。


戦後オペラ史
第二次大戦後、前衛の世代は何がざん新かということを問い詰めるために、極度に禁欲的な姿勢で創造に臨むことになる。規模も大きく、経済的事情と手間暇のかかるオペラという存在は、早くも前衛作曲家の目の敵とみなされた。だいたい、声楽家が現代音楽にかかわるというキャシー・バーベリアンのようなケースがまれで、声域にあわせて移調が可能なジャンル、つまり声域が合わなければ役を降りられるという過剰な演奏家擁護の姿勢は現代化に最も不利な属性である。

そのような中、オペラ創作にハンス・ヴェルナー・ヘンツェが先頭を切ってきた。しかし、現時点では彼のオペラ創作は必ずしも前衛イディオムをフル活用したとは言えず、疑問の残る出来である。前衛の時代に書かれた最も素晴らしいオペラは、前衛イディオムを批判的に使うことが可能だったベルント・アロイス・ツィンマーマンの「兵士達」であることに異論はなかろう。

そして前衛の時代が終わり、前衛の世代が金銭的に潤ったことを背景にオペラという概念を「音楽劇」という側面から、作曲家一人一人が個別に考える時代に入った。

ルイージ・ノーノのようにいくつかの試行を経て「耳で聞く悲劇」という様式へ収斂させた「プロメテオ」。
数々の演奏家が別々に個別の音楽を奏でる「ミュジ・サーカス」というアイデアが存分に生かされたジョン・ケージの「ユーロペア1~5」。
演出、衣装、振付、作曲、演技全てを一人で管轄し、ダ・ヴィンチ型才能を駆使するシルヴァーノ・ブッソッティの「ロレンザッチョ」。
「オペラはストラヴィンスキーで終わった。これからは音楽が劇を操作する“音楽劇”でなくてはならない」という欲望を実らせたルチアーノ・ベリオの「オウティス」。
25年超をかけて一週間かかる長大な自叙伝的オペラを完成させたカールハインツ・シュトックハウゼンの「光」は歌手ではなく、器楽奏者が主役になる。
人造言語に基づき、原言語の意味を過激なパフォーマンスで問うハンス・ヨアヒム・ヘスポスの「イオパル」。彼の器楽作品は音を出さない行為も音楽として扱うが、この考え方はジョン・ケージの4分33秒に近い領域に属する。これをマウリッシオ・カーゲルの諸器楽作品と同じくムジーク・テアターとして扱う音楽学者もいる
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2007/09/20 22:09 | 未分類
鬼子母神
仏教諸神の一。サンスクリット語のハーリティーの漢訳。ハーリティーを音写した訶梨帝母(かりていも)とも言う。

元は鬼神・般闍迦の妻で、500人(一説には千人または1万人)の子の母でありながら、常に他人の子を捕えて食べてしまうため、釈迦は彼女が最も愛していた末子・愛好を隠して子を失う母親の苦しみを悟らせ、仏教に帰依させた。以後、仏法の護法神となり、子供と安産の守り神となった。盗難除けの守護とも言われる。

インドでは、とりわけ子授け、安産、子育ての神として祀られ、日本でも密教の盛行に伴い、小児の息災や福徳を求めて、鬼子母神を本尊とする訶梨帝母法が修せられたり、上層貴族の間では、安産を願って訶梨帝母像を祀り、訶梨帝母法を修している。また、法華経では十羅刹女(じゅうらさつにょ)とともに鬼子母神が、法華信奉者の擁護と法華信仰弘通を妨げる者の処罰を誓っていることから、日蓮はこれに基づき文字で表現した曼荼羅本尊に鬼子母神の号を連ね、鬼子母神と十羅刹女に母子の関係を設定している。このことが、曼荼羅諸尊の彫刻化や絵像化が進むなかで、法華信奉者の守護神としての鬼子母神の単独表現の元となった。

その像は天女のような姿をし、子供を1人抱き、右手には吉祥果(ザクロ)を持つ。ザクロは人肉の味がするから、とも言われるが、これは後になって付け加えられた話である。

鬼子母神は、法華経守護神として日蓮宗の寺院で祀られることが多く、「おそれいりやの鬼子母神」で知られる、東京都台東区入谷の鬼子母神(真源寺)、東京都豊島区雑司が谷の法明寺鬼子母神堂、千葉県市川市の中山法華経寺の鬼子母神が有名である。縁日は毎月8の付く日(8日,18日,28日)である。

2007/09/20 22:00 | 未分類
帆船の歴史
初期の帆船(紀元前)
人類がいつ帆船を発明したかは良く分かっていない。エジプトのナイル渓谷の遺跡には、帆をもった舟らしき壁画が残されている。この壁画は約8000年前に描かれたと推定されている。

古代ギリシア、古代ローマでは、軍船は帆と櫂を併用するガレー船であったが、商船は純粋な帆船であった。これらの帆船は1本のマストに四角帆が船の前後方向に対し斜めに張られたものであったが、紀元元年前後のローマ帝国では、2本のマストを持つ帆船も現れだした。


アラブの帆船 (7世紀~15世紀)
アラブ人は、イスラムの共同体や信用制度を基礎として、インド洋を中心として、東アフリカから果ては中国にまで及ぶ、帆船による海上貿易ネットワークを構築し、インド洋は「イスラムの海」の様相を呈していた (勢力図が変化したのは16世紀にポルトガルなどヨーロッパ諸国が進出してからである)。アラブ人は独特な海図と航海術を発展させ、夜間の航海も可能にした。『アラビアンナイト (千夜一夜物語)』の「船乗りシンドバッド」は、10世紀ごろのアラブ人船乗りの世界を描いている、と言われている。 また同海上貿易ネットワークは、インド化したアラブ人を出現させたように、アラブ化したインド人船乗りも出現させた。多くのインド商人が帆船でソファーラ(モザンビーク)周辺に行き、銑鉄を高額で買い付け回り、インドに輸出していた模様なども、アラブ人イブン・アル・ワルディの旅行記に記されている。 三角帆を特徴としたアラブ独特の帆船は、今でもザンジバル島(アフリカ)、パキスタン、モルディブ、インドネシアなど広範囲で使用されており、「ドーニー」 (ドーニィ) や「ダウ」などと呼ばれている。


中国の帆船(13~15世紀)
ヴェネツィアの旅行家マルコ・ポーロ(Marco Polo,1254年 -1324年)は20年近く元朝のクビライ・ハーンに仕えた。そのときのことを口述した『東方見聞録』において、元朝の南方交易用の帆船は、4本のマストを持ち乗員は60名程度であること、竜骨(キール)によって船体は高い強度を保っていること、浸水しても沈没を免れる隔壁構造の船体を採用していること、羅針盤によって正確な遠洋航行が可能であることを報告している。また、中国や黄金の国「ジパング」など、東方に莫大な富が存在していることを紹介し、後の大航海時代において東方を目指す強力な推進力となった。

ヨーロッパの大航海時代に先立ち、中国の明朝では鄭和が1405年から1433年にかけて7回の大航海を行った。航海した範囲は東南アジア、インド、アラビア半島、アフリカ東岸にまでわたった。これらの航海には長さ173m、幅56mにも及ぶ巨大な帆船が用いられた。


大航海時代 (15~16世紀)
ポルトガルのエンリケ航海王子(1395年 - 1460年)は、インド航路を開拓するために、船乗りの援助や帆船の改良に力を注いだ。 当時、東方との交易は、イスラム商人によって高い関税がかけられていたため、直接、中国やインドなどから香料、香辛料、絹、陶磁器などを入手するルートを開拓する必要があったのである。大型帆船には様々な改良が加えられた。それまでの帆船は1本マストであったが、この頃から3本マストの帆船が現れてきている。特にキャラベル船の誕生は、帆船の活動範囲を大幅に拡大した。キャラベル船は3本のマストに三角帆(ラテン帆)を採用することで、逆風でも前進できることが特徴である。クリストファー・コロンブスの第一回目の航海におけるサンタ・マリア号の僚艦、ニーニャ号とピンタ号がキャラベル船である。15世紀、キャラベル船とほぼ同時期に開発されたキャラック船は遠洋航海による大量輸送を可能にし、それまで主にヨーロッパのみを活動域とし、量も小規模に完結しがちだった商取引を、大西洋やインド洋を越え、なおかつ大量の物品を扱うものとすることをも可能とした。

このような背景のもと、いわゆる大航海時代が幕開いた。バーソロミュー・ディアスによる喜望峰の発見、コロンブスによるアメリカ大陸の発見(1492年)、ヴァスコ・ダ・ガマによる喜望峰を経由するインド航路の発見(1498年)など、次々と帆船による偉業が達成された。 そして、ついに1519年から1522年にかけてフェルディナンド・マゼランによる世界一周航海がなされている。


軍艦の発展 (16~18世紀)
16世紀に入ると帆船の主流はキャラベル船、キャラック船からガレオン船に代わっていった。ガレオン船は船首楼より高い船尾楼を持つことが特徴である。従来、竜骨の長さは船幅の2.5倍程度だったが、3倍まで船体の全長が長くなったことも特徴に挙げられる。ガレオン船は商船としても用いられたが、大量の大砲を搭載できたことから主に軍艦として用いられた。大航海時代の主役はポルトガルとスペインであったが、1588年、フランシス・ドレークらが率いるイギリス艦隊がスペインの無敵艦隊を破り、状況は一変する。スペインは大西洋の制海権を失い、イギリスが一大海運国として台頭するきっかけとなった。

17世紀後半から18世紀にかけて、軍艦は艦隊を組み、大火力による艦隊決戦をしばしば行うようになる。この時期に行われた有名な海戦としてトラファルガーの海戦(1805年)が挙げられる。艦隊の主力は「戦列艦」と呼ばれる2~3層の砲列甲板に合計50~130門の大砲をもつ艦種であった。戦列艦は20世紀の軍艦における戦艦や巡洋艦に相当する。戦列艦に比べ軽快な、1~2層の砲列甲板に合計20~50門の大砲をもつ「フリゲート」と呼ばれる艦種も登場してきた。18世紀初頭には従来の「舵取り棒」に代わって操舵輪が用いられるようになり、より効率のよい操船が可能になった。


ティークリッパー(19世紀)
19世紀には紅茶を運ぶための快速船「ティークリッパー」が中国からイギリスまで新茶を届ける速さを競い合った。最初に届けられた 新茶は高値で取引されるため、船主に莫大な利益をもたらしたのである。この競争は「ティーレース」と呼ばれ、「カティーサーク」、「サーモピレー」などのティークリッパーがしのぎを削りあった。ティークリッパーは外洋を高速で帆走できるよう、 標準よりも長細い船型をしている。例えば「カティーサーク」では縦の長さは横幅の6倍に達している。微妙な操船が困難になる細長い船型が可能になった背景には、蒸気機関によるタグボートが普及し、曳航によって出入港が出来るようになったことがあげられる。

19世紀は帆船から蒸気船に主役が交代した時代でもあった。19世紀前半あたりでは、石炭の補給の問題から蒸気船は比較的短距離の航路での運用に限られていたが、給炭地が整備され、蒸気機関の性能が向上するにつれ蒸気船の優位性が明らかになってきた。蒸気船の優位を決定的にしたのは、1869年のスエズ運河の開通である。スエズ運河一帯はほとんど無風であるため、蒸気船の独壇場だったのである。帆船はその恩恵に与ることが出来ず、上述の「ティークリッパー」の多くは中国航路から、オーストラリアからの羊毛輸送に転向を余儀なくされ、やがて姿を消していった。


帆船の衰退後 (20世紀~)
20世紀初頭にはアメリカの「トマス・W・ローソン」や、ヨーロッパ~チリ間の硝石輸送で大規模な帆走商船隊を編成したドイツのF・ライツ社が所有した「プロイセン」など、鉄・鋼鉄製の船体で大型・多マストの帆船が建造されたが、もはや帆船は海運の主役ではなくなっていた。イギリスに於いては19世紀末から帆船の建造が行われなくなっていたが、フランスでは1881年より帆船に対する補助金制度があったため、帆船時代の末期においても多くのフランス籍の大型商用帆船が就航していた。当時、フランス帆船は空荷で世界一周をしても、補助金によって十分な利益を挙げることができると言われていた。

第一次世界大戦でドイツ潜水艦による商船無差別攻撃などにより数多くの商用帆船が失われ、またフランスの補助金制度も打ち切られたため、所有していた英米仏の船会社は貨物運航を汽船に切り替えた。ドイツのライツ社は戦後賠償で失った船の一部を買い戻して再建を図ったが、結局1930年代前半迄に船員養成用の数隻を残して売却し汽船に置き換えた。両大戦間の時代はフィンランドの船主グスタフ・エリクソンが世界中で放棄された高性能の大型帆船を買い集めて大規模な帆走商船隊を編成し、ヨーロッパ~オーストラリア間で穀物輸送に当たっていた。当時は汽船の時代になってもなお航海士の免許に帆船の乗船経験を必要とした国が少なくなかったため、エリクソンの船団にはそのような実習生が多数乗船し、人的な面での需要もまだ残っていた。

しかし、エリクソンの帆走商船隊も第二次世界大戦で大半の船を失い、1947年の彼の死と共に終わりを告げた。最後まで残っていたのは南米のチリ沿岸で運航されていた1隻と、西ドイツの船主が練習船兼穀物輸送の貨物船として使用していた2隻だったが、1957年9月22日に西ドイツの「パミール」が南太西洋上で台風の直撃を受けて遭難沈没し、大半の乗員と実習生が犠牲となる惨事が起き、姉妹船の「パサート」も運航継続を断念、翌1958年6月18日にチリ沖で肥料輸送に就いていた「オメガ」が沈没し、ここに大型商用帆船は海上から姿を消した。

その後、大型帆船の活躍の場は海軍の士官や民間の船員養成の練習船など、限定されたものになってしまった。しかしながら、21世紀に入ってスタークリッパー社が、前述のプロイセン号をモデルにした5本マスト・シップ型の大型帆船「ロイヤル・クリッパー」を初めとする3隻の帆走クルーズ客船をカリブ海域に投入し、商業用途への回帰が注目されている。

2007/09/20 21:55 | 未分類
逮捕・監禁罪
刑法220条に規定されている罪。 不法に人を逮捕し、又は監禁する行為が犯罪となる。法定刑は3月以上5年以下の懲役。 逮捕・監禁の結果として傷害または死亡の結果が生じた場合には、逮捕・監禁致死傷罪(同法221条)に該当する。

自由に対する罪の一種であり、人の身体・行動の自由を保護法益とするが、例えば熟睡していて逮捕・監禁されていると現実に認識していない人の自由まで保護されるかという点で学説の争いがある。

公務員が職権を濫用して人を逮捕・監禁した場合には特別公務員職権濫用罪(刑法194条)となる。また特別法として、逮捕・監禁した人を人質として第三者に行為を要求した場合に重く処罰する人質による強要行為等の処罰に関する法律がある。

行為
本罪に該当する行為は、逮捕または監禁である。逮捕と監禁は次のように区別されるが、いずれにせよ同一構成要件内の犯罪なので、その区別はそれほど重要ではない。 なお、「不法に」という文言は、業務行為として警官が行う適法な逮捕などは当然除外されるという意味の注意を促す趣旨である。


逮捕
逮捕とは、人の身体を直接拘束することによって、行動の自由を奪うことを言う。紐で身体を縛るなどがこれにあたる。


監禁
監禁とは、人を一定の限られた場所から脱出することを不可能に、あるいは著しく困難にすることによって、行動の自由を制限することを言う。 部屋に鍵をかけて閉じ込めるといった物理的な監禁のほか、入浴中の人間の衣服を持ち去ることによって、羞恥心のために浴室から出られなくする場合や、逃げれば殺すぞと脅迫を加えたり、人が高い木に登っているときに梯子を持ち去ったりすることによって恐怖心から脱出できないようにする場合など、心理的な監禁を含む。

ただし、監禁というためにはそこから脱出するために身体・生命に危険が及ぶような場合でなければならないとして、入浴中に衣服を持ち去ることは監禁には当たらないとする見解がある。


継続犯
本罪は逮捕・監禁の状態を維持している間は犯罪が継続する継続犯である。従って、逮捕・監禁中の被害者の反撃は正当防衛となり得る。

継続犯であるので、多少の時間にわたって逮捕・監禁が継続していることが必要となる。瞬間的に羽交い絞めにして行動の自由を奪っただけであれば暴行罪になるに過ぎない。


客体
本罪は人の身体・行動の自由を侵害する罪であるから、客体も単に人であるだけでは不十分で、身体・行動の自由を有する自然人に限られるとするのが通説的見解である。 自らの意思で自由に行動することの出来ない乳児や高度の精神病者などは客体から除外される。


「現実的な自由」と「可能的な自由」
被害者が熟睡や泥酔のために一時的に自由な意思活動を行えない状態にある場合にも客体として保護されるかという点が問題となる。 熟睡している被害者のいる部屋を一時的に外から施錠し、目が覚める前に開錠した場合に監禁罪が成立するのかという事例で議論される。

学説は、現実に移動の意思があるときに移動できる自由という「現実的な自由」が侵害されることが必要とする立場(現実的自由説)と、もしも移動しようと思ったのであれば移動できる自由という「可能的な自由」あるいは「潜在的な自由」の侵害であれば良いとする立場(可能的自由説)が対立している。

現実的自由説は、自由の意識を欠く者の自由を侵害することはできないということを根拠として、現実に被害者の身体・行動の自由が侵害されることが必要であると考える。この説によれば上の事例は、単に鍵をかけただけでは監禁罪は成立せず、被害者が目を覚まし、自分が閉じ込められているという現実的な認識を得た時点から監禁罪が成立することになる。従って、施錠から開錠までの間に被害者が一度も目を覚まさず、自由が侵害されていることを現実には認識しなかった以上、監禁罪は成立しない。

一方、可能的自由説は、客観的に見て人の意思活動の自由を制限する危険があれば足りるとして、被害者が現実に自由を侵害されていると認識することまでは必要がないと述べる。そう考えると上の事例は、仮に「監禁」中に被害者が目を覚まして部屋から出ようとしたら、それが不可能だったのであるから、可能的な自由が侵害されている言える。よって、現実には被害者が監禁の事実を認識しなかったとしても、施錠した時点から監禁罪が成立する。

多数説は可能的自由説であるが、本罪は危険犯ではないなどとして、現実的自由説からの厳しい批判がある。


錯誤の問題
被害者が錯誤により、逮捕・監禁されているという事実を認識していない場合に、逮捕・監禁罪が成立するかどうかが争われている。 ここでも、保護法益を「現実的な自由」と見るか「可能的な自由」と見るかにより異なった帰結が導かれ、学説が対立している。

典型例としては、犯人が強姦の意図を隠して被害者を車に乗せたが、被害者は強姦目的だなどとは知らなかったため、降車を要求することもなく、自らが監禁状態にあることを全く認識していなかった、というケースである。

可能的自由説は前述のように、被害者の認識を不要と考える。そのため、被害者が監禁されていると認識していないこのようなケースでも、客観的・社会的に見て監禁と評価できる行為であれば監禁罪の成立を認める。

一方現実的自由説に立てば、被害者が現実的な自由の侵害を認識することが必要なので、このようなケースでは監禁罪は成立しない。もっとも、被害者が監禁されていることに気づき、降車を要求したのにも関わらず監禁状態を継続すれば、その時点からは監禁罪となる。

これが問題となった事件で判例は、被害者に監禁の認識は必要ないとして、監禁罪の成立を認めている(広島高判昭和51年9月21日刑月8巻9=10号380頁)。


逮捕・監禁致死傷罪
故意の逮捕・監禁行為から過失により死傷の結果が生じた場合に重く処罰する結果的加重犯である。 監禁されている被害者が脱出のために高所から飛び降りて死亡したような場合がこれに該当する。

傷害の罪と比較して、重い刑により処断される。すなわち、致傷については逮捕・監禁罪と傷害罪の法定刑を比べ、致死については逮捕・監禁罪と傷害致死罪の法定刑を比べ、下限・上限ともに重いほうを選ぶということである。具体的には、致傷の場合は「3月以上15年以下の懲役」、致死の場合「3年以上の有期懲役」となる。

2007/09/20 13:28 | 未分類
男性の射精
通常は性的な刺激に対する反射として男性器から精液が放出される。ただし、睡眠中に自然に起きることもあり、そのような場合は夢精と呼ばれて区別される。前立腺のマッサージによって起こったり、稀ではあるが前立腺の疾患が原因で引き起こされることもある。

射精の過程は大きく分けて二つの段階からなり、精液が尿道前立腺部に集められる過程(エミッションemission)と、精液が尿道を経由して外尿道口から放出される過程(エジャキュレーションejaculation)とに分けられる。通常射精と呼んでいるのは後者を指すものである。

性的な興奮が高まると、精巣上体(副睾丸)尾部に蓄えられていた精子は少量の分泌液とともに精管の蠕動運動によって精管末端部にある精管膨大部まで順次運ばれ、精子はここで射精の瞬間まで待機する。

性的な興奮が頂点に達する(オーガズム)と大脳から脊髄にある射精中枢に指令が送られ、膀胱括約筋が固く収縮するとともに前立腺液が尿道前立腺部に排出され、精管膨大部に蓄えられていた精子も射精管を通って尿道前立腺部に押し出される。この過程がエミッションである。このとき膀胱の出口は固く閉じられているので精液が膀胱に逆流することはない。一方、尿道括約筋も固く収縮しているので精液は行き場を失い前立腺内で圧力が非常に高まる。これがいわゆる射精直前の感覚である。

第二段階のエジャキュレーションは尿道括約筋が弛緩することから始まり、前立腺内に充満した精液の内圧によって一気に押し出され、尿道の球海綿体筋などの働きによってペニス先端の外尿道口から勢いよく放出される。同時に精嚢の平滑筋も収縮を繰り返し、精液の約7割を占める精嚢液が少し遅れて律動的に放出される。

射精時の勢いと射精液の液量については個人差が大きく、通常の射精では約2~6ミリリットルが精液が放出されるといわれる(ティースプーンからテーブルスプーン程度)が、数滴やこれを超える例もあり、その幅は広い。射精液の液量については、その射精の前2日間で、最後に射精したのがいつであるのかに大きく依存している。言い換えると、最後の射精が最近であるほどその液量は少なく、射精後2日ないし3日目がその液量は最も多い。これは、4日以上蓄積された精液は、体内でたんぱく質として吸収されてしまうためである(当然、3日目まで蓄積された精子は、精液の量に反して活性が低い)。射精時の精液の出る勢いは、立って真横に射精した場合、数十センチから数メートルにも及ぶ。ただし、前回の射精からの間隔が短い場合には、ペニスから沁み出すようにして射精する例もある。

射精一度あたりの射精液が含む精子数もまた個人差が大きい。この数に影響を与える因子は数多くあり、最後の射精からどのくらいの時間が経過したか、睾丸の置かれた温度環境、射精までに要した性的興奮の時間、年齢、テストステロンのレベル、個人差、精液の量などに依存する。無精子症や乏精子症などの疾患では精液中に精子が全く見られなかったり少ないために不妊症(男性不妊という)の原因となる。

2007/09/20 13:23 | 未分類

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