忍者ブログ
[PR]
×

[PR]上記の広告は3ヶ月以上新規記事投稿のないブログに表示されています。新しい記事を書く事で広告が消えます。


2025/06/20 04:07 |
辰吉、現役続行
元WBC世界バンタム級王者の辰吉丈一郎(大阪帝拳)が14日、関西空港着の航空機で、トレーニングのために4月20日から訪れていたタイから帰国した。

現地で約80ラウンドのスパーリングなどを行った辰吉は「減量すれば、試合はいつでもできる」と、現役続行に向け手応えを語った。今後については「(まずはタイに)行っただけでアピールになる。その先のことはまだ考えていない」と話した。

辰吉は2003年9月を最後に試合から遠ざかっており、05年3月にはジム側から引退を勧告された。ボクサーライセンスの年齢制限は36歳で、辰吉は15日が37歳の誕生日。元世界王者などには、最後の試合から5年以内はライセンス交付申請ができる特例がある。

辰吉
ボクシングファンであった父・粂二(くめじ)より幼少のころから我流のボクシングを仕込まれた。中学時代の担任であった依田教諭の勧めで、中学卒業と同時に片道の電車代だけをもって大阪に渡り、大阪帝拳ジムに入門した。
 ちなみに、粂二は辰吉にボクシング(喧嘩)の稽古を付けていた時に、構える手の高さは胸の前あたりの方が、相手全体を見渡したり攻撃をかわしやすく、また、喧嘩の相手を掴んだり凶器を奪いやすいと教えた。辰吉の無意識にガードを下げる癖はそこに由来すると考えられる。辰吉自身の解釈は、喧嘩ではの相手がオーソドックスの場合に右足で蹴ってくる場合が多く、左手を下げておくことで蹴りを払い、右手でパンチを繰り出すことができるからだと映画「BOXER JOE]で語っている。
 なお、この時期の辰吉は、サウナや立ち食いうどん屋などでバイトをしながらボクシングに打ち込んでいた。

1987年、17歳で全日本社会人選手権バンタム級優勝。ソウルオリンピックの有力候補だったが、体調不良により予選で敗退した。この後約一年間、諸事情によりジムを離れて半ば放浪同然の生活を送っている。その後、後の専属トレーナー大久保淳一氏が主催するジムでのトレーニングを経て大阪帝拳に復帰。アマで数試合をこなす。この頃から辰吉の試合記事は関西地区のスポーツ新聞に写真入りで報じられており、その才能は早くから注目の的だった。アマチュア通算成績は19戦18勝(18KO・RSC) 1敗。

1989年9月29日、韓国ジュニア・フェザー級2位の崔相勉を2回2分47秒KO勝ちでプロデビュー。

1990年9月、国内最短タイ記録となる4戦目で日本バンタム級王座を獲得。

1991年9月19日、8戦目で世界初挑戦。グレグ・リチャードソン(米国)を10回終了TKOに降し、WBC世界バンタム級王座獲得。8戦目での世界王座奪取は国内選手としての史上最短記録で、現在も破られていない(2006年7月22日に名城信男が同じく8戦目でWBA世界スーパーフライ級王座を獲得)。

しかし、同年12月、無敗のWBC世界バンタム級5位、李勇勲(韓国)との初防衛戦に向けてトレーニング中、左眼網膜裂孔が判明し、長期間の休養を強いられる。

1992年9月17日、王座奪取から丸1年ぶりの初防衛戦。休養中にWBC世界バンタム級暫定王座に就いたビクトル・ラバナレス(メキシコ)と統一戦を戦うが、9回TKOに敗れ、王座陥落。しかし負けたのは、双子の弟「丈二郎」と言い張っていた。

その後、1戦をはさみ、1993年7月22日、WBC世界バンタム級暫定王座決定戦としてラバナレスと再戦。12回判定勝ちを収め、10ヵ月ぶりの世界王座返り咲きを果たす。

ところが、同年9月、今度は左眼網膜剥離が判明し、暫定王座返上。引退の危機に。しかし、1994年7月、ハワイで復帰戦を行い、3回KO勝ち。この勝利でWBCから返上していた暫定王座を再び与えられる。

同年12月、WBC世界バンタム級正規王者薬師寺保栄との統一戦が実現。この試合は彼のキャリアの中でも最大の注目を集め、圧倒的優位を予想されたが、12回判定負け。暫定王座から陥落。

その後、1996年3月と翌1997年4月の2度にわたり、WBCスーパーバンタム級王者ダニエル・サラゴサ(メキシコ)に挑むが、いずれも敗戦。「もはや世界王座返り咲きは無理」という声も聞かれるようになった。

同年11月22日、引退を賭け、通算5度目の世界挑戦。元のバンタム級に戻し、WBC世界同王者のシリモンコン・ナコントンパークビュー(タイ)に挑戦。圧倒的不利の予想を覆し、見事7回TKO勝ち。約3年ぶりの世界王座返り咲きを果たす。

1998年3月、横浜アリーナでホセ・ラファエル・ソーサの挑戦を受け、12回判定勝ち。

1998年8月、WBC世界バンタム級1位(当時)で指名挑戦者のポーリー・アヤラと対戦し、負傷判定ながら2度目の防衛を果たす。

1998年12月29日、大阪市中央体育館でウィラポン・ナコンルアンプロモーション(タイ)に6回KO負けを喫し、王座陥落。

1999年8月、挑戦者として大阪ドームでウィラポンと再戦するも、また7回TKO負けで雪辱ならず。試合後、「普通のお父っつあんに戻ります」と現役引退を表明した。

しかし、日増しに現役続行への思いが強まったようで、後に引退表明を撤回。

2002年12月、実に3年4ヵ月ぶりの復帰戦。元WBAフライ級王者のセーン・ソー・プルンチットを相手に復帰戦を行い、7回TKO勝ちを収める。

2003年9月には復帰第2戦を行い、10回判定勝ちを収めるも、その後は負傷した左脚の回復が思わしくなく、再び長いブランクに入っている。

現在も次戦開催の目処は立っておらず、最悪の場合このまま引退する可能性もあるが、現在プロボクサーを目指している 長男・寿希也とともに、奇跡の王座返り咲きを信じて練習を続けており、その「どんなことがあってもあきらめない姿勢」に励まされるファンは多い。

ダウンタウンの松本人志とは、親友として知られる。その縁で「ダウンタウンDX」などにもゲスト出演している。

ボクシング番組の解説などで明らかなパンチドランカーの症状(呂律が回っていない、発言内容が支離滅裂など)を見せており、ファンを心配させている。

交友範囲の広いことで知られる彼だが、特に岸本加世子には絶大な信頼をおいており、実の姉のように慕っている。

意外にも布袋寅泰、イチローと仲がよい(度々、会場まで試合観戦に訪れている)。

ファンに惜しまれながらも潔く現役を退いていくスポーツ選手が多い中で、どれだけみっともない姿をさらそうが、どれだけ陰口をたたかれようが、「最後に笑ったらエエ」という信念を絶対に曲げない人間である。ボクシング漫画の金字塔「はじめの一歩」では何度も扉ページに登場し、「勝っても負けても彼ほど人を感動させるボクサーはいない」と評されている。

PR

2007/05/14 13:10 | 未分類

<<人生の意義って何? | HOME | ファイナルファンタジーXI冒険者さんありがとうキャンペーン>>
忍者ブログ[PR]