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2025/04/23 05:55 |
国際ヨットレース、アメリカスカップ
1851年、英国で開催された第一回万国博覧会の記念行事としてロイヤル・ヨット・スコードロン(Royal Yacht Squadron)が主催したワイト島一周レースに端を発する。このレースに米国からただ1艇参加した「アメリカ」号が優勝し、ビクトリア女王から下賜された銀製の水差し状のカップを自国に持ち帰った。その為このカップは「アメリカ」号のカップ、すなわち"アメリカスカップ"と呼ばれることとなった。その後「アメリカ」号のオーナー達は、「カップの保持者は、いかなる国の挑戦も受けねばならない」ということを記した贈与証書(Deed of Gift)とともに、このカップをニューヨーク・ヨットクラブ(New York Yacht Club)へ寄贈した。これに基づき1870年、第1回「アメリカス・カップ」が開催され、現在に至っている。

アメリカス・カップの本質は、贈与証書に基づくヨットクラブ間の国際親善レースである。しかし、莫大な投資、最新テクノロジーを凝縮したボートデザイン、セーラー達の神業的操船は世界最高峰のヨットレースと呼ぶにふさわしく、また使用するヨットは出場国での建造が義務付けられているため、単なる親善レースにとどまらず、むしろ出場国の威信を賭けたスポーツという名の戦争ともいえる。これに対しニューヨーク・ヨットクラブは1983年の第25回大会において、自らのクラブから出場した「リバティー」がオーストラリアの「オーストラリアII」に破らるまで、132年間に渡ってあらゆる国からの挑戦を退けカップを守り抜いてきた。これがアメリカスカップが文字通り"アメリカのカップ"とも称される由縁ともなっている。

「リバティー」のスキッパーであったデニス・コナーは「カップを失った最初のアメリカ人」として米国中からの非難に晒されたが、4年後オーストラリアで開催された第26回大会に自らのチームを率いて乗り込み、見事にカップ奪回に成功した。コナーは一転アメリカンヒーローとして凱旋し、ロナルド・レーガン大統領によってホワイトハウスに招待され、"ミスター・アメリカスカップ"と称されるようになった。本レースを描いた小説としては「至高の銀杯」(全四冊)ウォリック・コリンズ著 角川文庫 1991年刊 があるが、完結編にあたる部分が邦訳されていない。またリベンジを果たしたコナーの苦闘は映画「ウィンズ」の題材にもなった。

しかし、1995年の第29回大会にサンディエゴ・ヨットクラブからチーム・デニス・コナーを率いて出場したコナーは、ニュージーランドのロイヤル・ニュージーランド・ヨット・スコードロン:Royal New Zealand Yacht Squadronから出場したチーム・ニュージーランドに破れ、カップは再び南半球に渡ることとなった。その結果コナーは「カップを2度失った最初のアメリカ人」という汚名を着ることとなった。

チーム・ニュージーランドは続く2000年の第30回大会においてイタリアのヨットクラブ・イタリアーノ:Yacht Club Italianoから出場したプラダ・チャレンジの挑戦を退けカップ防衛に成功するが、直後にチームは分裂、スキッパーであったラッセル・クーツを始め、タクティシャン、ブラッド・バタワースら主要メンバーがスイスのチーム・アリンギに移籍してしまう。

2003年の第31回大会ではスイスのソシエテ・ノーティーク・デ・ジュネーブ:Société Nautique de Genèveから出場したチーム・アリンギが圧倒的な強さでチーム・ニュージーランドを破り、カップは152年ぶりにヨーロッパへ戻ることとなった。クーツはカップ3連勝となり新たな"ミスター・アメリカスカップ"と呼ばれるに至ったが、その後契約上の問題よりアリンギを脱退する。そこでアリンギはブラッド・バタワースを新たなスキッパーとして2007年の第32回大会へ出場、エミレーツ・チーム・ニュージーランドの挑戦を退け、カップ初防衛を果たしている。

主なルール
1992年(第28回)大会以降、レースはIACC(International America's Cup Class)規格に準拠したヨットを用いてマッチレースと呼ばれる一騎打形式で戦われる。挑戦者およびカップ保持者はシンジケートと呼ばれる巨大な運営団体を組織し、資金の獲得・艇体の開発からセーリング・チームの育成まで、あらゆる業務を一貫して行う。挑戦艇決定シリーズ(ルイ・ヴィトンカップ)を勝ち抜いた1シンジケートのみがカップを防衛するシンジケート(カップ保持者自身、もしくは同じ国のヨットクラブに属するシンジケート。もし複数のシンジケートがエントリーした場合は防衛艇決定シリーズを行い1シンジケートを選ぶ)に挑む権利を得る。

第28回大会では各シンジケートは無制限にヨットを建造することができたが、コストの高騰を防止する目的から1995年(第29回)大会以降、1シンジケートが新規に建造できるヨットの数は最大2艇に制限されている。また1995年大会において、当時のニッポン・チャレンジがJPN-30を当初の建造時と大きく異なる形に大改造したことに対し「実質的に新規建造と同じではないか」と他のシンジケートからクレームが出たことがきっかけとなり、2000年(第30回)大会以降「進水後の船体(ハル部分)の改造は新造艇については表面積の50%以下、旧艇(前回大会以前に建造されたもの)については同じく60%以下までに制限する」というルールが追加されている。

ヨットに乗り組むクルーの数は1艇につき最大17人、クルーの合計体重は1570kg以下に制限されている。またウェイト調整目的で18番目のクルーを乗せることも認められている(同クルーに限り体重制限はない)が、このクルーはそれ以外のヨットの操作や指揮に関与してはならないこととなっている。このため、通常は「18番目のクルー」としてスポンサー関係者や有名人などのVIPゲストを乗せレースを体験してもらい、新規スポンサー獲得やパブリシティ等に利用することが多い。


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2007/07/26 13:18 | 未分類

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