古田は野村克也らと並ぶ日本球界で有数の名捕手である。プロ入り前後に最大の欠点とされた眼鏡着用にも関わらず、強肩、堅守がプロ入りの同時期に監督に就任した野村克也監督の意向に沿い、その指導もあって、セ・リーグのみならず日本を代表する捕手となった。その頭脳的なリードから「ID野球の体現者」と呼ばれ、対戦相手の打者は投手だけでなく古田の配球との戦いにも直面することになった(打者は、投手ではなく古田との対戦とまで言われた)。
こうした緻密な計算を元にしたリードをする一方で、勝負球を一球目から投げさせたりインサイドに数多くの球を放らせたりと意外なリードをする事も特徴にあげられる(インサイドに投げさせることが原因かどうかはわからないが、死球の数は歴代四位とかなり多い)。また、ボールくさい際どい球をストライクに見せるキャッチングも、打者にとって悩みの種となった。
さらに、強肩と捕球から送球までの早い動作により盗塁阻止率リーグ1位が9回、1993年と2000年には阻止率6割以上という驚異的な数字を残している。ちなみにこの捕球から送球までの動作は、古田の新人時代に、自身名捕手であった野村監督が一見するや歩み寄ってきて「お前、もういっぺんやってみい」と言った後、動作を確認し、「ほお、お前、そうやるんか。なるほどな。勉強になったわ」と言わしめたほど洗練されたものである。
また、守りのみならず、打撃にも優れ、2004年までに通算8回の打率3割は、日本の捕手史上最多である。野村曰く、このような打撃における成長の原因は「捕手としての自分のアドバイスを打撃に利用している」からだとか。
2000本安打達成時、GET SPORTSにて「打者古田敦也」が特集された。新人の頃落合博満の打撃を捕手側からみて、落合の打撃を参考にし、自分の打撃に取り入れたことを明かしている。また独自の打撃理論を持ち「2ストライク」になると三振があるため打率がグッと下がることから(事実多くの野球選手は2ストライク時の打率は下がる)、初球の重要性を挙げている。初球を打つことを投手に印象付けることで、自然とボールから入ることが多くなり、ボールを先行させることで打ちやすい球が自然と呼び込めるようになるというもの。この理論からか古田は2000本安打達成者の中では四球が極端に少ないため、大卒、社会人を経た選手で史上初の2000本安打を達成できたと分析されている。
現役の捕手登録されている選手では唯一の打撃三部門のタイトルホルダー(1991年首位打者)である。(ただし、入団時捕手だった選手では和田一浩、2年目捕手登録された小笠原道大がいる)
正捕手・中軸バッターとして攻守にわたってチームの要として活躍し、5度のリーグ優勝(日本一は4回)に貢献している。
また、2度のノーヒットノーランを導いている。1995年9月9日の対巨人22回戦(東京ドーム)でテリー・ブロス、1997年9月2日の対横浜23回戦(横浜スタジアム)で石井一久をリードして、快挙達成をアシストした。日本プロ野球史上、ノーヒットノーランに複数回立ち会った捕手は通算21人いるが、2006年現在の現役捕手では矢野輝弘(阪神)、谷繁元信(中日)と合わせ計3人である。
古田の労働組合・日本プロ野球選手会会長としての活動は有名だが、この間(1998年 - 2005年)選手の権利の強化に努め、特に2004年の球界再編においては渡邉恒雄に「たかが選手が」と言われながらも、プロ野球ストライキを決行し、近鉄の消滅は阻止できなかったものの2リーグ制維持のための新規球団である東北楽天ゴールデンイーグルス参入への道筋をつけた。この時期の古田には、ヤクルトファンのみならず対戦相手チームのファンからも惜しみない声援が送られていたことは特筆すべきであろう。また、古田の功績としてアマチュア球界との関係改善があり、プロ経験者による母校訪問・アマ球界での指導者への就任・球児向けのシンポジウムの開催が可能になった。
このように奔走した後の翌2005年には小野公誠や米野智人に捕手としての出場機会を譲ることが多くなった。そして、この年に勇退した若松勉監督の後任に、かつての恩師である野村克也(当時・南海、現・楽天監督)以来29年ぶりに選手兼任監督として2006年シーズンからヤクルトの指揮を執ることで同年10月18日、球団と合意した(監督としては2年契約)。それと同時に労働組合・日本プロ野球選手会の会長は退任し、後任を同僚の宮本慎也が務めることになった。こうして臨んだ2006年シーズンでは、監督としては強打者のリグスを2番で起用するなどの大胆な采配でリーグ随一の強力打線を作り上げたが、反面投手陣に故障者が多く、特にリリーフ陣を固定しきれなかった。チーム最多セーブは高津臣吾の13セーブだが、これは12球団で最も少ない数字である。最終順位は3位とAクラスは確保したが優勝した中日には18ゲーム差と大きく水をあけられた。また、注目された交流戦での東北楽天ゴールデンイーグルス・野村監督との「師弟対決」では5勝1敗と大きく勝ち越すことに成功した。選手としては右肩の故障により出場機会は限られたものになり、ほとんどが代打での出場だった。結局終わってみれば自己最低と言っていい成績に終わり、契約更改では当時のプロ野球史上最大減俸となる1億8000万円ダウンの年俸6000万円(これは選手としての評価であり、監督としての契約交渉は別)で契約を更改、捕手が育っていないチーム事情もあって2007年も兼任監督を続ける事が決まった。球団側は2008年度以降の選手契約を結ばない旨を通達し、9月18日、自らの意思で同年限りで、選手としては現役引退、監督としてはチームを退団することを決断した。選手としてヤクルトスワローズに入団して以来「ヤクルトの顔」であっただけに、ファンからは非常に惜しまれている。9月19日、中日戦の前に東京・明治記念館で記者会見を行い、チームの成績不振の責任を取って2年契約の切れる今季限りで監督を退任するとともに現役も引退し、18年間所属したヤクルトのユニフォームを脱ぐことを正式に発表した。
こうした緻密な計算を元にしたリードをする一方で、勝負球を一球目から投げさせたりインサイドに数多くの球を放らせたりと意外なリードをする事も特徴にあげられる(インサイドに投げさせることが原因かどうかはわからないが、死球の数は歴代四位とかなり多い)。また、ボールくさい際どい球をストライクに見せるキャッチングも、打者にとって悩みの種となった。
さらに、強肩と捕球から送球までの早い動作により盗塁阻止率リーグ1位が9回、1993年と2000年には阻止率6割以上という驚異的な数字を残している。ちなみにこの捕球から送球までの動作は、古田の新人時代に、自身名捕手であった野村監督が一見するや歩み寄ってきて「お前、もういっぺんやってみい」と言った後、動作を確認し、「ほお、お前、そうやるんか。なるほどな。勉強になったわ」と言わしめたほど洗練されたものである。
また、守りのみならず、打撃にも優れ、2004年までに通算8回の打率3割は、日本の捕手史上最多である。野村曰く、このような打撃における成長の原因は「捕手としての自分のアドバイスを打撃に利用している」からだとか。
2000本安打達成時、GET SPORTSにて「打者古田敦也」が特集された。新人の頃落合博満の打撃を捕手側からみて、落合の打撃を参考にし、自分の打撃に取り入れたことを明かしている。また独自の打撃理論を持ち「2ストライク」になると三振があるため打率がグッと下がることから(事実多くの野球選手は2ストライク時の打率は下がる)、初球の重要性を挙げている。初球を打つことを投手に印象付けることで、自然とボールから入ることが多くなり、ボールを先行させることで打ちやすい球が自然と呼び込めるようになるというもの。この理論からか古田は2000本安打達成者の中では四球が極端に少ないため、大卒、社会人を経た選手で史上初の2000本安打を達成できたと分析されている。
現役の捕手登録されている選手では唯一の打撃三部門のタイトルホルダー(1991年首位打者)である。(ただし、入団時捕手だった選手では和田一浩、2年目捕手登録された小笠原道大がいる)
正捕手・中軸バッターとして攻守にわたってチームの要として活躍し、5度のリーグ優勝(日本一は4回)に貢献している。
また、2度のノーヒットノーランを導いている。1995年9月9日の対巨人22回戦(東京ドーム)でテリー・ブロス、1997年9月2日の対横浜23回戦(横浜スタジアム)で石井一久をリードして、快挙達成をアシストした。日本プロ野球史上、ノーヒットノーランに複数回立ち会った捕手は通算21人いるが、2006年現在の現役捕手では矢野輝弘(阪神)、谷繁元信(中日)と合わせ計3人である。
古田の労働組合・日本プロ野球選手会会長としての活動は有名だが、この間(1998年 - 2005年)選手の権利の強化に努め、特に2004年の球界再編においては渡邉恒雄に「たかが選手が」と言われながらも、プロ野球ストライキを決行し、近鉄の消滅は阻止できなかったものの2リーグ制維持のための新規球団である東北楽天ゴールデンイーグルス参入への道筋をつけた。この時期の古田には、ヤクルトファンのみならず対戦相手チームのファンからも惜しみない声援が送られていたことは特筆すべきであろう。また、古田の功績としてアマチュア球界との関係改善があり、プロ経験者による母校訪問・アマ球界での指導者への就任・球児向けのシンポジウムの開催が可能になった。
このように奔走した後の翌2005年には小野公誠や米野智人に捕手としての出場機会を譲ることが多くなった。そして、この年に勇退した若松勉監督の後任に、かつての恩師である野村克也(当時・南海、現・楽天監督)以来29年ぶりに選手兼任監督として2006年シーズンからヤクルトの指揮を執ることで同年10月18日、球団と合意した(監督としては2年契約)。それと同時に労働組合・日本プロ野球選手会の会長は退任し、後任を同僚の宮本慎也が務めることになった。こうして臨んだ2006年シーズンでは、監督としては強打者のリグスを2番で起用するなどの大胆な采配でリーグ随一の強力打線を作り上げたが、反面投手陣に故障者が多く、特にリリーフ陣を固定しきれなかった。チーム最多セーブは高津臣吾の13セーブだが、これは12球団で最も少ない数字である。最終順位は3位とAクラスは確保したが優勝した中日には18ゲーム差と大きく水をあけられた。また、注目された交流戦での東北楽天ゴールデンイーグルス・野村監督との「師弟対決」では5勝1敗と大きく勝ち越すことに成功した。選手としては右肩の故障により出場機会は限られたものになり、ほとんどが代打での出場だった。結局終わってみれば自己最低と言っていい成績に終わり、契約更改では当時のプロ野球史上最大減俸となる1億8000万円ダウンの年俸6000万円(これは選手としての評価であり、監督としての契約交渉は別)で契約を更改、捕手が育っていないチーム事情もあって2007年も兼任監督を続ける事が決まった。球団側は2008年度以降の選手契約を結ばない旨を通達し、9月18日、自らの意思で同年限りで、選手としては現役引退、監督としてはチームを退団することを決断した。選手としてヤクルトスワローズに入団して以来「ヤクルトの顔」であっただけに、ファンからは非常に惜しまれている。9月19日、中日戦の前に東京・明治記念館で記者会見を行い、チームの成績不振の責任を取って2年契約の切れる今季限りで監督を退任するとともに現役も引退し、18年間所属したヤクルトのユニフォームを脱ぐことを正式に発表した。
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