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2025/05/09 13:30 |
オシム監督、秘策伝授
16日の1次リーグ最終戦、ベトナム戦に向け、老将は公式会見では慎重なコメントを連発。実はその裏で、選手に早い時間帯に得点しサポーターを意気消沈させ、逆に4万観衆が相手のプレッシャーとなるような展開に持ち込むことを指示した。目指すは4大会連続の1位突破だ。

老将が使い分ける「表と裏」の顔。ベトナム戦前日も、それは見事に浮き彫りとなった。公式会見では慎重なコメントに終始。「ベトナムにとって歴史的な試合になる。ホームであり、ベトナムがいいゲームをする可能性はある」と相手を持ち上げたかと思えば、選手やスタッフが口をそろえる1位突破に関しても、「通過することがまず優先。通過した後でほかのことについて考える」と、独特な言い回しでけむに巻いた。だが、それはもちろん、本心ではなかった。

今大会1勝1分けと負けなしのベトナム。勢いを生み出す最大の要因はスタンドを埋める4万を超える大観衆だ。オシム監督は、誰もが恐れる逆風に自分もおびえているかのように振る舞い、実は選手にはそれが日本の追い風となる可能性を指摘。「相手には4万人のサポートがある。こちらは心理的に厳しいが、それをひっくり返してみろ! そうすれば、相手は精神的にその倍きつくなるんだ」と、指示していた。

その秘策のポイントは、早い時間帯の得点にある。俊輔はベトナムに関して、「カタール戦で1点取られてから極端に動けなくなった。(サポーターも)期待してた分、静かになったり、やっぱり日本が違うなと4万人が思えば、向こうは動きが鈍くなる」と話した。早い段階でゴールを奪えれば、大群衆が逆に相手に重圧となり、焦りも生み出せる。

オシム監督
1978年 - 古巣ジェリェズニチャルでコーチの仕事を始める。ユースチーム監督就任。
1979年 - ジェリェズニチャル トップチームの監督に昇格。
1982年 - 副業的にユーゴ代表チームのアシスタントコーチを務めるようになる。チームはロサンゼルスオリンピックで銅メダルを獲得した。
1985年 - ジェリェズニチャルの監督としてUEFAカップ準決勝まで駒を進めるが敗れ、決勝進出を逃す。
1986年 - ユーゴ代表監督に就任。
1987年 - 翌年に行われる欧州選手権の予選最終戦、イングランド代表に1-4で大敗、本大会出場を逃す。
1990年 - FIFAワールドカップイタリア大会でベスト8。大会後、代表監督のままパルチザン・ベオグラードの監督も兼務することとなる。
この後ユーゴスラビアの分裂が決定的となる。
1991年 - 翌年の欧州選手権の予選通過を決めていたが、この年の夏にスロベニアとクロアチアが連邦から離脱、両国の選手抜きで本大会に臨むことになった。
1992年 -
3月27日 - ボスニア・ヘルツェゴビナの連邦離脱を受けて、ユーゴ軍がサラエボに侵攻。オシムは直前に仕事のため次男を伴いベオグラードに赴いたため戦火を免れる事が出来たが、夫人と長女はサラエボを脱出することが出来なくなった。
5月21日 - サラエボ侵攻とユーゴ分裂に抗議する意味を込め、パルチザンとユーゴ代表の監督を共に辞任。この後、国連の制裁決議を受けて欧州サッカー連盟(UEFA)、国際サッカー連盟(FIFA)はユーゴ代表チームの国際大会からの締め出しを決定する。
1992-1993年 - ギリシャのパナシナイコスの指揮を執る。この間戦火のサラエボに夫人と長女を残してのギリシャ赴任であった。
1993年 - オーストリアのSKシュトゥルム・グラーツ監督に就任。翌1994年、夫人・長女との再会を果たす。グラーツではUEFAチャンピオンズリーグに3度出場。
2002年 - グラーツ監督を辞任。
2003年 - ジェフユナイテッド市原監督に就任。
2005年 - ジェフユナイテッド市原・千葉にてJリーグヤマザキナビスコカップ優勝。
2006年 - 日本代表監督に就任。
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2007/07/16 11:02 | 未分類

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