龍馬は慶応3年11月15日(1867年12月10日)の暗殺当日には風邪を引いて河原町の蛸薬師で醤油商も営む近江屋新助宅母屋の二階にいたとされる。当日は陸援隊の中岡慎太郎や土佐藩士の岡本健三郎、画家の淡海槐堂などに訪問されている。中岡はそのまま龍馬と話していたところ、十津川郷士と名乗る男達数人に切られた。龍馬達は近江屋の人間が入ってきたものと油断しており、帯刀していなかった。龍馬はまず頭部を深く切られ、奮戦するもののそれが原因ですぐに死亡。中岡も重傷を負うが数日間は意識があり事件の証言を残した。慎太郎もまもなく死亡した。
新選組犯行説
龍馬暗殺当時の現場に残された鞘などの物証や、数日前に暗殺された伊東甲子太郎の同志らの証言から新選組の原田左之助によるものと信じられていたが、刀傷は左利きによるものであると言う説もある。これを採用するなら左利きで、北辰一刀流の達人である龍馬を殺害できるだけの実力のある人物となると、斉藤一という説もある。しかし現在では、新選組犯行説を支持する研究者はほとんどいない。
見廻組実行説
大正時代になって元見廻組隊士だった今井信郎、渡辺篤の口述で、佐々木只三郎らが実行犯であると証言している。また、勝海舟は幕府上層部の指示であるとも推測している。この見廻組実行説がいわば通説となっており、これに疑問を呈する歴史学者は皆無に等しい。ただし、今井や渡辺の口述に食い違う部分があるため、主に作家を中心に色々な異説が唱えられている状況である。
2006年に学習研究社から発売された『新・歴史群像シリーズ④ 維新創世 坂本龍馬』では、「寺田屋事件の際に捕縛方一人を殺害したことで「お尋ね者」になっており、見廻組が逮捕のためにやってきた」という説を出しているが、この説に関しても今後精査が必要である。
薩摩藩陰謀説
大政奉還以降、龍馬は幕府に対する態度を軟化させ、徳川慶喜を含めた諸侯会議による新政府の設立に傾いていたともいわれる。武力倒幕を目指していた西郷隆盛、大久保利通らが、こうした龍馬の動きを看過できなくなり、故意に幕府側に龍馬の所在を漏らしたとする説。ただし、この説は大政奉還路線と武力倒幕路線の対立を必要以上に強調しすぎたきらいがあり、両者は相容れない路線ではなかったとする学説を全く考慮に入れていないところが最大の問題で、その点で根拠が弱い。この説には一部で熱狂的な支持者がいるものの、歴史学界ではほとんど相手にされていないのが実情。
その他
京都国立博物館には数箇所の血痕が残る掛け軸が所蔵されている。それは淡海槐堂が暗殺当日に誕生日祝いとして贈った「梅椿図」という作品である。付着した血痕は暗殺された龍馬らのものとされている。

新選組犯行説
龍馬暗殺当時の現場に残された鞘などの物証や、数日前に暗殺された伊東甲子太郎の同志らの証言から新選組の原田左之助によるものと信じられていたが、刀傷は左利きによるものであると言う説もある。これを採用するなら左利きで、北辰一刀流の達人である龍馬を殺害できるだけの実力のある人物となると、斉藤一という説もある。しかし現在では、新選組犯行説を支持する研究者はほとんどいない。
見廻組実行説
大正時代になって元見廻組隊士だった今井信郎、渡辺篤の口述で、佐々木只三郎らが実行犯であると証言している。また、勝海舟は幕府上層部の指示であるとも推測している。この見廻組実行説がいわば通説となっており、これに疑問を呈する歴史学者は皆無に等しい。ただし、今井や渡辺の口述に食い違う部分があるため、主に作家を中心に色々な異説が唱えられている状況である。
2006年に学習研究社から発売された『新・歴史群像シリーズ④ 維新創世 坂本龍馬』では、「寺田屋事件の際に捕縛方一人を殺害したことで「お尋ね者」になっており、見廻組が逮捕のためにやってきた」という説を出しているが、この説に関しても今後精査が必要である。
薩摩藩陰謀説
大政奉還以降、龍馬は幕府に対する態度を軟化させ、徳川慶喜を含めた諸侯会議による新政府の設立に傾いていたともいわれる。武力倒幕を目指していた西郷隆盛、大久保利通らが、こうした龍馬の動きを看過できなくなり、故意に幕府側に龍馬の所在を漏らしたとする説。ただし、この説は大政奉還路線と武力倒幕路線の対立を必要以上に強調しすぎたきらいがあり、両者は相容れない路線ではなかったとする学説を全く考慮に入れていないところが最大の問題で、その点で根拠が弱い。この説には一部で熱狂的な支持者がいるものの、歴史学界ではほとんど相手にされていないのが実情。
その他
京都国立博物館には数箇所の血痕が残る掛け軸が所蔵されている。それは淡海槐堂が暗殺当日に誕生日祝いとして贈った「梅椿図」という作品である。付着した血痕は暗殺された龍馬らのものとされている。

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