忍者ブログ
[PR]
×

[PR]上記の広告は3ヶ月以上新規記事投稿のないブログに表示されています。新しい記事を書く事で広告が消えます。


2026/03/29 22:18 |
ボーイング787 ドリームライナー開発の経緯
当初ボーイングは、エアバスのA380に対抗するためにボーイング747の機体を延長した747Xを開発していたが、エアバスが実際にA380の計画実行に入ると、ボーイングは2001年に入って計画を延期してしまった。次に、将来必要な旅客機は音速に近い速度で巡航できる高速機であると考え、2001年の初期からソニック・クルーザーを研究・開発していたが、9月の同時多発テロ後の航空業界の冷え込みの影響もあり、少しでも運航経費を抑えたいという航空会社各社の関心を得ることができなかったため、2003年に計画を中止してしまった。

そこでボーイングは、効率を重視したボーイング767クラスの双発中型旅客機を開発することに計画を変更した。

2004年、ボーイング副社長が来日し、その後に全日本空輸が50機発注したことによって、開発がスタート。その後、日本航空やベトナム航空、コンチネンタル航空など多くの大手航空会社が発注している。

一方、ライバルのエアバスも787に対抗するため、、A330に大幅に手を加えたA350を発表し、すでに180機ほどを受注しているが、ボーイングとの熾烈な争いから各航空会社からの支持が得られず設計変更せざるを得ない事態に陥っている。現在のところ787の方が明らかに優勢である。性能ではA350の方が航続距離、旅客数ともに増加しているとされるのだが、ボーイング社は「787は全く新しい旅客機のため(エアバスがA330をリファインしても当機を)超えることはできない」と主張している。

ボーイング、エアバス共に、将来的な航空旅客の増加を予想している点においては共通する。しかしその対処の方法に違いが存在し、それが新型機の開発のコンセプトの違いに影響している。 すなわちエアバス側は、ハブ空港間で運用する大型機を開発し、ローカルへは持ち駒豊富な自社の中小機での乗客の振り分けを想定しているのに対し、ボーイング側は、乗客は面倒な乗り換えを好まず、中型機による直近の空港への乗り入れを求めるようになる、とする予想を立てているということである。

原油価格の推移や主要国のCO2削減に伴い、各航空会社がどのような選択をするのか、今後の動向が注目される。

日本の協力
三菱重工業は747X計画時の2000年5月にボーイングとの包括提携を実現しており、機体製造に置ける優位性を持っている。すでに1994年には重要部分の日本担当が決定しており、三菱は初めて主翼を担当、川崎重工業が主翼と中胴の結合部と中央翼、富士重工業がセンターボックスと主翼フェアリングに内定していた。計画は747Xからソニック・クルーザーを経て787となったが、担当部位の変化はおおむねなく、日本企業の担当比率は合計で35パーセントと過去最大となっており、この35パーセントという数字はボーイング社自身の担当割合と等しい。全日空と日航は、ローンチカスタマーチームに加わっている。

特徴
巡航速度:マッハ 0,85 (903 km/h か 561 mph)
航続距離 8.500海里 (15,700 km)、ロサンゼルスからロンドン、あるいはニューヨークから東京路線をカバーするのに十分。
同クラスの767と比較すると、燃費は15 - 20%向上するとされている。また最大旅客数も若干増加している。
この燃費の向上は、空力改善・複合材(炭素繊維素材)の多用による軽量化・エンジンの燃費の改善・これらの相乗効果によるものだという。ちなみに複合材の使用により、耐腐食性等の問題が解決され、ボーイング777ではコックピットのみへのオプション装備だった加湿器が、初めてキャビンに標準搭載される。
コックピットは、777のようなLCDを多用したグラスコックピットをさらに進化させたものになり、ヘッドアップディスプレイ (HUD) も機長・副操縦士の両席に付く予定。
大型の窓が採用され、乗客は広い視界を楽しむことが出来る。また窓にはシェードがなく、代わりにLCDを使った電子カーテンを使用し、乗客各自が窓の透過光量を調節することになる。
ただし、LCDによる遮光は太陽の熱をカットする事ができないため、まぶしさは防げても熱さを防ぐことは出来ない。このため、従来のカーテンとの併用、または熱線遮蔽ガラスの採用などによる何らかの対策が必要になるものと思われる。

現在ボーイング787型機は3つの派生型を売り込んでいる:

787-3型機:航続距離3,500ノーチカルマイル (6,500 km)、交通量が多い路線を的にした296座席 (2クラス制) 短距離型である。発注しているのは日本航空と全日本空輸のみで、事実上日本国内線専用機となる公算が大きい。初飛行は2008年である。
787-8型機:座席数223座席 (3クラス制)であり航続距離8,500ノーチカルマイル (15,700 km) の787型機の基本型である。初飛行は2008年である。
787-9型機:胴体延長の座席数259座席 (3クラス制)。初飛行の目標は2010年である。
また、機体をさらに大型化した787-10型機の生産を計画しているが、仮に開発が決定されれば、787-10型機は同じボーイングの777-200と競合する事となる。
PR

2007/09/08 15:48 | 未分類
肺炎の症状と治療
肺炎の症状
発熱、咳、痰、呼吸困難、全身倦怠感、胸痛など

肺炎の診断
理学的所見、胸部X線、胸部CT、採血(白血球数、CRP値、KL-6、LDH)、喀痰培養など

喀痰のグラム染色は有用と考えられ、好中球による貪食像は起炎菌の同定につながることもある(肺炎球菌では特に)。ただし臨床研究では喀痰グラム染色と起炎菌とは一致しないと結論され、アメリカのガイドラインでは推奨されていない。

近年は迅速診断キットにより肺炎球菌、レジオネラについては尿を検体として検査が可能となった。 (商品名 BinaxNOW肺炎球菌、レジオネラ。溶血連鎖球菌の検査キットBinaxStrepAは咽頭粘液を検体とする。)

肺炎の治療
細菌性肺炎が疑われる場合は細菌にあった抗生物質の投与を行うが、原因菌特定には、喀痰培養同定・感受性検査など、時間のかかる事が多く菌の種類を推定して抗生剤の選択を行うことが多い。肺真菌症では抗真菌薬、ウイルス性肺炎では対応した抗ウイルス薬を用いる。

施設による違いはあるが、米国式やり方をとっている施設では、菌の種類は推定せず、市中肺炎であるか院内肺炎であるかによって抗生剤を使い分ける。それは、胸部レントゲン像で菌の種類をみわけることはできないとする臨床研究の結果にしたがったものである。市中肺炎では、肺炎球菌、マイコプラズマを主なターゲットとしてマクロライド系抗生剤(クラリスロマイシン、アジスロマイシン)や新しいニューキノロン(レボフロキサシン、ガチフロキサシン)を用いる。院内肺炎ではグラム陰性桿菌、たとえばテレビでも話題になっている緑膿菌やセラチア菌をターゲットとして第3世代セフェム(セフォタキシム、セフトリアキソンでは力不足、セフタジジム以上)を用いる。


2007/09/08 15:39 | 日記
大奥の構造
「奥」あるいは「奥向」は一般的に日本の屋敷における主人の私的な空間、女性の居室となる空間を指し、江戸城では奥向きのうちもっとも奥まった女性の居室となる部分を大奥、大奥と表(表向)の中間に位置する将軍の日常生活空間のことを「中奥」と呼んだ。

江戸城の大奥は原則的に将軍と、将軍の幼い息子を除けば男性が立ち入ることを許されない空間で、古代の朝廷の後宮でも天皇以外の男性が自由に出入りしていた日本の宮廷文化の伝統からみると珍しいものである。ただし、大奥の中には大奥の出納や台所などに関わる庶務をつかさどる男性の役人が詰める広敷と呼ばれる別棟の建物があり、大奥全体の中にまったく男性がいなかったわけではない。しかし、広敷と大奥の御殿の間には御錠口という厳重に管理された出入り口を通してしか通行することができず、広敷役人の御殿への立ち入りは固く禁ぜられた。広敷を除く大奥は、将軍の寝所、御台所や側室の居室、奥女中の仕事中の詰所などからなる御殿と、御台所や側室に仕える奥女中が日常の寝泊りをする長局というふたつの空間から成り立っていた。長局は二階建てで、奥女中の身分に応じて振り分けられた部屋を利用した。上臈や御年寄といった身分の高い奥女中であれば一人で一部屋を占有することができ、自分自身の身の回りの世話のために私的な女中を抱えられた。

中奥と大奥の間には廊下が2本あり(1本だった時代もある)、そのうちの御鈴廊下が中奥における将軍の休息所、寝所にあてられる書院のすぐ裏に位置する。将軍が母や妻たちと対面したり大奥で休息したりすることを望むときは、御鈴廊下を通って大奥に渡るようになっていた。将軍に近侍する中奥の小姓は廊下を渡ることを許されず、廊下から先の大奥では、御坊主という担当の奥女中が交代して近侍した。このとき小姓がこの廊下で鈴を鳴らし、将軍が大奥に渡ることを大奥側で控えている奥女中に知らせたことから、この廊下の名は御鈴廊下と呼ばれたという。

大奥の女性
将軍の生母や娘、御台所や側室を除けば、大奥の女性のほとんどは彼女らに奉仕する奥女中であった。身分の高い奥女中の局に雇われた私的な女中を除いた正規の奥女中は将軍・御台所に直接謁見することができるかどうかにより、(男性の幕臣の旗本と御家人のように)お目見え以上とお目見え以下という二段階の身分に大別される。最盛期では、約1000人以上いたと言われている。

御台所(みだいどころ)は多くの場合宮家や五摂家の娘で、形式的な正室であることが多かったが、将軍との間に世継となる子を設けたのは、二代将軍御台所・於江与ただ一人である。彼女らは夫に先立たれれば落飾して出家し、大奥に残っても夫の側室であった次期将軍の生母に対して実力的に劣る立場に追いやられることも覚悟しなければならなかった。

奥女中の中には、御台所に随行して京都から下向してきた中級公家の娘たちもいた。彼女らはお目見えの最上位である上臈(じょうろう)として将軍や御台所の近侍を務める格式ある職を務めたが、実権は武家の娘である奥女中に握られ、大奥において実力をもつことのできた者は少ない。大奥内で政治的実権を握っていたのは、奥女中第二位の御年寄(おとしより)で、表の老中に匹敵する役職であった。その御年寄の中でも筆頭たる大年寄が最高権力者として君臨していたという。御年寄の下には中年寄(ちゅうどしより)以下の奥女中が従い、その権勢は絶大であった。

若い奥女中のうち、選ばれたとくに器量がよく、見込みのある女性は、将軍や御台所の身の回りの世話係である御中臈(おちゅうろう)につけられ、将軍の側室はもっぱら彼女らの中から選ばれたが、上臈御年寄の公家の娘が将軍の寵愛を受けたり、もっと身分の低い奥女中が将軍の目にとまってお手つきになった例もあるので一概には言えない。将軍の寵愛を受けるとその奥女中は「御内証の方」(ごないしょうのかた)と呼ばれ、身分はそのままで将軍の寝所に公然と侍ることになる。内証の方が将軍の子供を産むと正式に側室の扱いを受けて独立の部屋を与えられ、「御部屋様」と呼ばれることになった。

大奥の主である将軍が死去すると、正室である御台所や、次期将軍の生母は大奥にそのまま残って大奥の権力者として君臨しつづけたが、成人した子供をもてなかった御内証の方や側室は江戸城を出て落飾出家し、桜田御用屋敷で前将軍の菩提を弔いながら余生を送った。

しかし、将軍のお手がつかなかった大半の奥女中は、代替わりをきっかけに大奥を出る強制力は特に働かず、そのまま新しい将軍の大奥に仕える女性も珍しくなかった。そもそも大奥へ奉公に出ることはつてさえあればそれほど大変なこととは思われていなかったらしく、武家や町人の娘が花嫁修行の一環として出仕し、特に何事もなく出世することもなければそのまま致仕して結婚することも特に珍しくなかったと思われる。

大奥最後の日
慶応4年(1868年)4月、江戸幕府は官軍に江戸城を明渡すことになった。当時の大奥総取締・瀧山はそれに伴い、奥女中たちに年功に合わせて拝領物を与え、奥女中たちを去らせた。大奥に残っていた、本寿院(十三代将軍生母)と天璋院(十三代将軍御台所)は一橋家の屋敷へ、静寛院宮(和宮親子内親王)は西ノ丸にいた実成院(十四代将軍生母)とともに田安屋敷へと移り、城の明け渡しに備えた。4月11日、東海道先鋒総督が江戸城に入った。この人数は約八百名ほどとされる。大奥法度も廃止となった。


2007/09/08 15:32 | 未分類
上手な日焼けと対策
紫外線にさらされると、表皮にシミやソバカスなどの色素沈着を助長し、トラブルは避けられない。しかし、どうしても小麦色に肌を焼きたい場合は、皮膚にダメージを与えないように注意する。肌に負担をかけない日焼けの方法としては、サンバーン(炎症)を決して起こさないことである。


日焼けの方法
太陽光下では最初にサンスクリーン剤(日焼け止め剤)をムラなく肌に塗付し、サンバーン(炎症)を起こすUVBをカットしながら段階的に焼いていく。海水浴などへ行った初日から長時間、太陽光下で焼くことは非常に危険である。個人差はあるが太陽光線に対しての抵抗力つまり、慣光性を超えて日焼けしてはならない。

午前10時から午後2時までの太陽光線の強い時間帯を避ける。
日光浴の時間は一日当たりトータルで3時間を超えない。
日焼け直後は肌が乾燥した状態なので、化粧水や乳液などで保湿を行う。これが皮膚を美しく焼く肝心のコツでもある。
赤みを感じる時は冷やしタオルなどでほてりを抑え、消炎ローション(カーマインローションなど)を塗る。
上記の作業を数日間のあいだ繰り返し、日数を経て、ある程度肌の色が褐色に変化したら、ようやくサンオイルに切り替える。つまりサンバーンを防ぎ、皮膚を急激な炎症から守ることで初めて、肌をムラなく黒く焼くことが可能になる。

アフターケア
日焼け後に皮膚が浮き、めくれてくることがあるが無理には剥がさないようにする。自然に剥がれてきたら美白剤入りの化粧品などを使い、皮膚の手入れを行う。日焼けの後のケアを継続することで、沈着しているメラニン色素は新陳代謝によりアカとなって剥がれ落ち、日焼けによるシミやソバカスは徐々に薄くなり、やがて消えることになる。

日焼けは通常太陽、稀に紫外線人工灯への過剰照射の結果として発生し、照射された紫外線がメラニンの保護能力を越えている時に、日焼けは起こる。 メラニンの成分量は個人差があるが、一般に、より浅黒い肌の人々は色白の人より多くのメラニンを持っており、これは浅黒い肌の人は日焼けがしにくいことを意味している。

紫外線はUVA(長波長紫外線)、UVB(中波長紫外線)、およびUVC(短波長紫外線)に分けられる。

地球の大気中のオゾンを透過する間にはいくらかの紫外線が取り除かれ、UVCは大気によってほとんど完全に取り除かれるが、15分未満で日焼けが生じる程度のUVAとUVBは、十分に残っている。以前は、UVBのみが皮膚ガンの原因となると考えられていたが、UVAとUVB両方が皮膚ガンを起こすという説もある。

日焼け現象には2種類ある。紫外線にあたった直後には発症せず、2~6時間後皮が赤くなり、痛みは6~48時間の後に最もひどくなる(サンバーン、sunburn)。24~72時間の間、色素沈着が進行する(サンタン、suntan)。日焼けが起こった3~8日後に、皮膚が剥離し始める。

サンバーンは紫外線UVBが表皮を透過し、真皮乳頭体まで達した結果、乳頭体内の毛細血管が炎症反応として充血を起こし、皮膚の色が赤くなった状態を指す。その際、紫外線量がメラニン色素の防御反応を超えていると、細胞組織が傷を受け、発熱や水泡、痛みが起きる。医学的にはこれを日光皮膚炎という。

サンタンは紫外線UVAがメラノサイトに働きかけ、メラニン色素の生成を促す。メラニン色素を多く含んだ表皮細胞が基底層から角質層に達するまで新陳代謝による時間のズレがある為、紫外線を浴びてからしばらく後で皮膚が浅黒く変色するのはこのためである。UVAは発赤や炎症を伴う事は無いが、真皮の深部まで到達しシワ、タルミの原因になる。

日焼けは熱傷深度Ⅰ~Ⅱ度の熱傷であり、障害部位において痛痒感、浮腫、赤変、皮膚剥離、発疹といった症状を引き起こし、その他全身症状として吐き気及び発熱と言った症状を呈する。一般に熱傷面積が広いため、熱傷深度の割には症状が重篤なものとなり、極端な日焼けでは、身体は衰弱し、入院を必要とする場合もある。

日焼けの最も恐れるべき危険性は将来の皮膚ガンのリスク増加である。紫外線は細胞レベルでDNA損傷を引き起こし、皮膚ガンのリスク増加をもたらす。破損した細胞は死に、吐き気と熱の原因となる毒素を放出し、多くの細胞が死んだ結果、皮膚剥離が生ずる。すべての日焼けは、永久的で不可逆的な損害を招き、水ぶくれになるような日焼けは悪性黒色腫のリスクを倍加する。

ある種の抗生物質、避妊薬及び精神安定剤は、服用者を紫外線に対して過敏にし、日焼けのリスクを増大させる。

欧米諸国において、日焼けは、個人の太陽に対する防御機構を増進するものとして望ましいものと捉えられている。この結果、日焼けになることと、日焼け用のサンルーム人気の増加をもたらしていた。 近年、CFCs(クロロフルオロカーボン:フロンの一種)によるオゾン層の破壊による日焼けの発生とその深刻な問題が、世界的に、特に南半球において増大しており、オゾン層破壊と周期的なオゾンホールの発生が、紫外線を危険なほどに高いレベルまで透過してしまっていることが懸念されている。

2007/09/08 15:25 | 未分類
しゃぶしゃぶのはじまり
中国料理の羊肉(シュアン羊肉)の主役である羊肉の代わりに、日本人に抵抗感の少ない牛肉を入れたものが始まりとされる。この鍋は本場北京の他、中国東北部でも一般的な冬の料理として食べるため、満州として日本が支配していた時代に日本人も多くが口にしたと考えられる。中国においてこの鍋は羊肉(カオ羊肉。羊肉とニラなどを調味液と共に大きな鉄板で炒めた料理。日本では時折ジンギスカン、アメリカではモンゴリアン・バーベキューと呼ばれる)と共に羊肉料理の最高レベルの料理とされ、肉は凍らせて紙のように薄く切るのがコツとされる。中国でもタレに練りゴマや醤油などを使用しているが、薬味にコリアンダーや茴香を使用したり、付け合わせにニンニクの蜂蜜漬けを食べたりすることが、日本のしゃぶしゃぶと異なっている。

日本での普及
現在の形式に落ち着いたのは、京都のお茶漬・水炊きの店(十二段家)の主人が中国で生活していた人から食べ方を聞き、日本人向けに羊肉を牛肉に替えてお茶漬の上に牛肉を乗せたのが始まりだとされる。 また、しゃぶしゃぶという名前は、1952年(昭和27年)に大阪のスエヒロが、自店の料理として出すときに命名したもので、1955年(昭和30年)に商標登録されている。 しゃぶしゃぶ専用の調理鍋の中央にある柱状の突起は、開発当時そこに炭を入れ鍋を加熱したという技術の名残である。ただし、中国においては火鍋子と呼ばれる同様の鍋が一般的に使用されている。


2007/09/08 15:20 | 日記

<<前のページ | HOME | 次のページ>>
忍者ブログ[PR]