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2025/06/17 14:59 |
ソウルイーター
あらすじ
舞台は死神武器職人専門学校、通称『死武専』。

ここに通う「職人」のマカと「武器」のソウル・イーターを軸として物語を展開していく。 この学校は、「職人」と「武器」を育成することを目的とした学校で 「職人」と「武器」でペアとなり悪人の魂99個と魔女の魂1個を集めると「武器」は死神様の下に遣える「デスサイズ」という者になれる。


「職人」と「武器」
「職人」と「武器」で1つのペアとなる。 「職人」と「武器」は魂の波長が近いほど戦闘能力があがる。 「武器」は、職人の魂の波長を増幅し波長のコントロールをサポートする役割を持っており、実質戦闘に参加するのは「職人」である。 「武器」は自分の得意とする形態の武器に変化し、「職人」のサポートをする。また「武器」は体の一部を武器にすることができる者もいて、それを利用して「武器」一人だけで戦う「武器」もいる。(ジャスティンやギリコ) 「職人」には魂の種類や位置を感知したり、魂そのものを見る能力がある人もいる。


人物名右の声優は、ドラマCDのキャスト。

死武専
ソウル=イーター - 声優:保志総一朗
マカとペアを組む武器の少年で、本体は鎌。「COOL」な男を目指す。魂が好物。過去のクロナとの戦いで魔剣に斬られ、黒血が体内に入り込む。それ以降、ソウルの精神空間に「ダブルスーツを着た小鬼」が出現するブラックルームが現れる。尚、この状態で職人と共鳴すると、職人側にも「狂気」が現れる。
マカ=アルバーン - 声優:竹内順子
ソウル・イーターとペアを組んでいる鎌職人の少女。優等生だが、負けず嫌い。生魚は食べられないらしい。怒ると本の角で脳天を叩くマカチョップをくりだす。若年でありながら、退魔の波長を出す事ができる鎌職人伝統の大技「魔女狩り」を放つ。稀に「摩訶」という表記もされる。
ブラック☆スター - 声優:小林由美子
椿とペアを組む暗器職人。暗殺者とは思えないほど目立ちたがりでお調子者。だが死武専生の中でも魂は大きく、力のコントロールに長けている。また大の自信家でことある毎に「自分はビッグだ」と語り、小物扱いされる事を何より嫌う。逆にその性格故に常に自分にプレッシャーを与えているため、強力な魂を持つ。体術を得意とし、魂の波長を相手に直接送り込む事も出来る。殺しを生業とする一族、「星族」の唯一の生き残り。
椿(つばき) - 声優:能登麻美子
ブラック☆スターとペアを組む武器で、本体は5種類(鎖鎌、忍者刀、煙球、手裏剣、変わり身)に変化できる暗器。更に、かつては兄の本体であった「妖刀」の力を取り込み、自分の物とする。しかし使い手の力を急速に奪い取るため、あまり長い時間使うことはできない。優しい性格で、ブラック☆スターの数少ない理解者の一人である。容姿端麗の和風美女。アラクネが作った魔武器直系の一族「中務家」出身。
デス・ザ・キッド - 声優:本田貴子
死神様の息子。リズ、パティーのトンプソン姉妹とトリオを組む職人。死武専に入学しているが既に死神で、文武両道に長けた天才。清潔好きが行き過ぎて、性格は極度の神経質。特に左右対称にはかなりうるさい。そのため自分の髪の色が一部だけ違い、左右対称でないことをかなり気にしていて、そのことを他人に指摘されると途端に鬱になり死にたがる。そしてナイーブな面があり傷つきやすい。魂の力を自在に抑えることに長け、全開すると巨大な力を放つ。戦闘時には武器を使った戦闘法に加え、死神体術も操る。
リズ=トンプソン - 声優:甲斐田裕子
キッドとトリオを組む武器。本体は妹のパティーと二人で一対になる二丁拳銃で、弾は使い手の魂の波長を圧縮して放つという形の物。普段はしっかり、きっぱりしているが、幽霊などに対しては極端に臆病。昔は街で人々を脅してカツアゲをする不良姉妹だったが、たまたまキッドをカツアゲしたのがきっかけで、彼の元にいくこととなる。妹より胸が小さいことを気にしているようだ。
パティー=トンプソン - 声優:沢城みゆき
姉のリズと共にキッドとトリオを組む武器。子供っぽい性格で、頭のネジが抜けたような突飛な行動に出ることが多い。悪口はエグいものが多い。死武専の筆記試験ではキリンを作った。
クロナ
ラグナロクの使い手。ラグナロクが体内に埋め込まれている。そのために黒血を体内に持ち、その「狂気」を使う。極度の人見知りだが、(主にラグナロクの苛めの所為で)怒りが頂点に達し、ハイになると口調が荒む。幼少の頃から誰にも接してもらえない人生を送っていたが、マカと戦った末に友達になれた。現在はラグナロクと共に死武専に体験入学中。メデューサの実の子供で、設定上として性別は不明。
ラグナロク
クロナとペアを組み、その体内に黒血として潜む武器で、本体は両手持ちの柄に両刃の黒刀。クロナの狂気を武器にするために生まれてきたのか、意地が悪く捻くれた性格。一応クロナの言うことを聞く一面がある。クロナの背中から出てきていることが多く、散々苛めるだけではなく竜のような姿に変わり飛行することもできる。クロナが成長してきたせいか最近体が縮んだ。そのせいかクロナへの苛めが多少ライトになった。名前の由来は北欧神話の「ラグナロク」からだと思われる。
デスサイズ(旧名・スピリット) - 声優:平田広明
デスサイズスのうちの一人でシュタイン、マカの母親とペアを組んでいた「武器」で、本体は鎌。マカの父親だが現在はマカの母親と離婚して親権は持っていない。極端な女好きの所為で、娘であるマカに毛嫌いされているが、実際はとても娘思いな(元)父親。現在はフランケン=シュタインとペアを組んでいる。
フランケン=シュタイン - 声優:宮本充
先輩、スピリット(現デスサイズ)とペアを組んでいた「職人」で、サディストな死武専教職員。死武専最強の職人と称されるほど強い。魂の波長を相手に送り込む能力に長け、武器無しでもかなりの戦闘能力を持つ。「ヘラヘラ」と笑っていることが多い。体中につぎはぎがあり、頭にはねじが刺さっているというフランケンシュタインの怪物のような男で、白衣を着ている。実験狂で、その欲求はあまりに深く自分の体を使って実験をすることすらある。さらにかつてペアを組んでいたスピリットを使って彼が寝ている間こっそりと毎夜人体実験を行い続けるという始末。阿修羅(後述)が目覚めたことで彼の狂気に同調しかけているという自覚がある。
ジャスティン=ロウ
デスサイズスのうちの一人でヨーロッパ担当。13歳でデスサイズスの一人になった史上最年少デスサイズで、その実力は本物。今は17歳。本体はギロチンで職人がいなくても一人で戦える。常に”爆音”と言って良い位の大音量で音楽を聴いているので他人の話を聞かないが、読唇術が使えるので一応会話をしようと思えばできる。フランシスコ・ザビエルのような髪型に見えるのだが、本当にハゲなのか只の帽子なのかはハッキリしていない。
マリー=ミョルニル
デスサイズスのうちの一人でオセアニア担当。常に眼帯をしている。死神様の命令でこの度死武専に戻ってきた。一応癒し系ではあるのだが、気の毒な位に男運が無い。その理由は、尽くし過ぎる性格につきあった男達が皆引いてきたから。実際、他人の世話を焼きたがる伏しがある。死神様は彼女の人畜無害な癒し系オーラでシュタインの中で目覚めかけている狂気を相殺させようと考えている。名前の由来は北欧神話の神トールの持つ槌ミョルニルだと思われる。
弓=梓
デスサイズスのうちの一人で長い黒髪にメガネのアジアンビューティー。本体は石弓。狙撃を得意とし、10km以内なら誤差1mmもなく狙撃する事が可能。あだ名は「キング・オブ・委員長」。東アジア担当だったが、マリーの代わりにオセアニア担当も兼任することになった。名前の由来は、「徒然草」の中の「梓弓」だと思われる。
死神様(しにがみさま) - 声優:大林隆介
『死武専』の長である人物で、死神。デス・ザ・キッドの父。その魂は町1つを覆い尽くすほど巨大。かつて狂気に走った初代鬼神を封印した張本人。そのため、今の町を出ることはできない。昔はかなり怖かったらしく、着けてる仮面もいかにも”死神”というような恐さだったが、子供に泣かれるので今の仮面に変えた。今では性格・口調はともにかなり軽くなった(でもキレると昔通りの口調に戻り、かなり恐い)が実力は本物。死武専の子供達を見守る目は温かい。本名はストレートに「死神(もしくは、デス)」であるのか、別にあるのか不明。
死人(シド) - 声優:赤城進
ナイグスとペアを組むナイフ職人で、渋くて堅気な性格の死武専教職員。過去、眉間に自由の女神が刺さって死亡、シュタインによってゾンビとして蘇ったが、眉間の穴はそのまま。生前の自分をさして「俺は~そんな男だった」と誇る事が多いが、自分の流儀に合わない事をした場合には「それも生前の話だ」との発言もあった。
ミーラ=ナイグス
シドと組んでいる武器で本体はナイフ。女性で、ミイラのように体全身に包帯を巻いている。今は死武専の臨時保健医として死武専にいる。

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2007/09/20 22:21 | アニメ
オペラの歴史
オペラの成立
「オペラ」(opera) という単語はイタリア語で「仕事」「作品」を意味し、この語自体は同義のラテン語 opus (単数属格形 operis) の複数形主格 opera に由来する。今日 opera は単独で歌唱によって進行される演劇ないし楽曲作品を意味するが、元来は opera musicale (音楽的作品)と呼んだものの省略から、この語義が生じた。

ルネサンス後期の16世紀末、フォレンツェで古代ギリシャの演劇を復興しようという動きが始まった。ギリシャ悲劇を模範に、歌うようなせりふを用いる劇が考えられた。今日、オペラとみなされる知られる限り最古の作品は、1597年ごろのヤコポ・ペーリによる『ダフネ』 (Dafne) であるが、作品は現存しない。のちのペーリの作品である『エウリディーチェ』は1600年以降に作曲されたもので、今日に残る最初のオペラ作品である。

ペーリはしばしばオペラの発明者であると考えられているが、今日でも上演される最古のオペラは1607年にマントヴァで初演されたクラウディオ・モンテヴェルディ作曲の『オルフェオ』である。この作品では先駆者の様式に従いながらも、調性や強弱の変化による緊張感を高めた、より劇的な表現が見られる。モンテヴェルディは後にヴェネツィアのサンマルコ聖堂で楽長の地位を得、同地に新設された専用のオペラ劇場のために優れた作品を生み出す。この時期にはイタリア各地でオペラが上演されるようになり、18世紀に掛けてナポリで隆盛を極めた。様式は朗唱だけでなく歌謡的なアリアの比重が高まり、伴奏の規模も拡大して、より充実した音響効果がみられるようになる。衣装や舞台装置も徐々に複雑できらびやかなものとなり、オペラ劇場は王侯貴族や富裕な市民の社交と娯楽の場としても発展した。


オペラ・セリア
もともとギリシャ悲劇の再来を目指した当時のオペラは後にオペラ・セリア(正歌劇)と呼ばれるようになる(セリアは英語の serious の意)。題材はやはりギリシャ神話に求められることが多いが、ローマ時代などの人物を扱ったものも見られる。

オルフェウスとエウリディケ(既出のペーリやモンテヴェルディら多数)
ディドとエネアス(パーセル)
テセウス/アリアドネ/ディオニュソス
ポッペアの戴冠(モンテヴェルディ)
ポントの王ミトリダーテ(ポントス王国のミトリダテス6世)、イドメネオ、皇帝ティートの慈悲(ティトゥス)(モーツァルト)

オペラ・ブッファ
これに対し、もっと世俗的な内容の作品がオペラ・ブッファ(喜劇オペラ)である。もともとは、3幕もののセリアの幕間劇として演じられたコメディが独立し、規模拡大したものである。初期の幕間劇で今日まで残るものとして、ペルゴレージの『奥様女中』がある。18世紀には独立されたジャンルとして発展し、パイジエッロ、チマローザ、サリエリなどが多数の作品を残した。中でも、モーツァルトがダ・ポンテの台本に作曲した『フィガロの結婚』『ドン・ジョヴァンニ』『コジ・ファン・トゥッテ』が有名である。


イタリアオペラとドイツオペラ
何世紀もの間、イタリアオペラが正統派オペラの形式であり、多くのオペラは、作曲者が主に英語やドイツ語を話していたとしても、イタリア語の台本に作曲された。

18世紀においてもなお、イタリア音楽こそが最高のものであるという認識が残っており、どこの宮廷でもイタリア人音楽家をこぞって重用した。その一方で今日名を残す多くのドイツ人作曲家が登場したが、彼らの多く、たとえばグルックやヘンデルはイタリア語オペラのみで、ドイツ語のオペラ作品は書いていない。また、また、ドイツの宗教的・国民的気風が快楽主義的なオペラという形式自体を嫌った側面もある。

ドイツ語オペラの作曲に意欲を燃やした最初の作曲家はモーツァルトである。なかでも死の年(1791年)に書かれた『魔笛』は優れた作品である。これは当時ジングシュピールと呼ばれたジャンルとして書かれた。本来のジングシュピールがせりふによる劇の進行のところどころに歌を配した文字通りの歌芝居であるのに対し、彼がヴィーン時代の初期に作曲した『後宮からの誘拐』(1782年)は、すでに堂々たるオペラになっている(音楽が主、語りが従)。伝えられる逸話によれば、上演に接したオーストリア皇帝ヨーゼフ2世はモーツァルトに対し「音符が少々多い」と感想を述べたところ、彼は「音符はまさに必要なだけございます」と答えたという。真偽はともかく、このジャンルに対する一般の認識と、作曲者の対抗心が対比されており興味深い。


ドイツオペラの誕生と興隆
このドイツ語オペラの流れは、その後もルートヴィヒ・ヴァン・ベートーヴェンの『フィデリオ』を生むが、真にドイツオペラをオペラ界の主要ジャンルとして確立させたのはヴェーバーの『オベロン』や『魔弾の射手』といった作品で、イタリアのセリアともブッファとも異なるドイツ・ロマン派音楽の特質を表しており、これはヴァーグナーへの道でもある。一方、オペラ・ブッファに対応するドイツオペラも誕生し、オペレッタとして大衆的な支持を得て発展した。一方でワーグナーの登場もあり、ドイツオペラは硬軟両面で急速に興隆していく。

とはいえ、ドイツ・オーストリアにおいてはオペラを全く書かなかった、あるいはめぼしい作品を残さなかった大作曲家としてシューベルト、メンデルスゾーン、シューマン、リスト、ブラームス、ブルックナー、マーラーらがおり、前世紀のバッハを含め、むしろこちらの方が多数派であることがわかる。ベートーヴェンにせよ1曲だけであり、それもさん然たる代表作とは言いがたい。その点、オペラ以外の作品が希少なぐらいなイタリアとは事情が異なる。モーツァルト、ワーグナー、R・シュトラウスの三巨峰がそびえ、魅力的なウィンナオペレッタの数々がふもとを彩るとはいえ、少なくとも作品系譜としてはイタリアオペラに一歩を譲る位置づけといえよう。

ただし、上演は別である。今日ドイツは140もの歌劇場を擁し、イタリアの3倍を超える上演数を誇る(しかもオーストリアとスイスを別勘定として)世界最大のオペラ大国である。


フランスオペラ
ジャン=バティスト・リュリによりフランス語で歌われる独立したフランスオペラの伝統が創始された。19世紀半ばには、フランス国内で上演されるオペラは一般的にフランスで書かれたものか、フランス語に翻訳されたものであった。フランスオペラの特徴は5幕でバレエを含む大規模な形式で、グランド・オペラ様式といわれた。代表的な作曲家はマイヤベーアである。ヴァーグナーやヴェルディもパリで自作を上演する際にはわざわざバレエを追加したくらいである(『タンホイザー』と『ドン・カルロス』)。この様式の大家としてはマイアベーアが人気を博し、『アフリカの女」『ユグノー教徒』など、今日でも上演される作品を残している。

イタリアのオペラ・ブッファに相当するオペラ・コミック(ドイツのジングシュピールやオペレッタのようにせりふを用いる)の誕生は18世紀にさかのぼるが、喜劇だけではなくせりふで演ずるオペラとして発展した。特にジャック・オッフェンバックの『地獄のオルフェ』(邦題『天国と地獄』)が国際的に爆発的な成功を納めた。オッフェンバックはヨハン・シュトラウス2世にオペレッタの創作を勧め、ウィンナ・オペレッタ誕生につながっていく。その後フランスではジョルジュ・ビゼーの『カルメン』などが生まれた。

なお、これらのうちマイヤベーアとオッフェンバックは元々ドイツ人であるが、作品はあくまでパリを拠点にフランス語で書かれたためフランスオペラとして扱われる。ただし、オッフェンバック作品は本人の生前からウィーン上演が好評を博したこともあり、死後はドイツ語訳上演のほうが多くなっている。このほかよく上演される作品として、トマ(『ミニヨン』)、グノー(『ファウスト』)、サン=サーンス(『サムソンとデリラ』)、マスネ(『マノン』『ウェルテル』)、シャルパンティエ(『ルイーズ』)、ドビュッシーの『ペレアスとメリザンド』などがある。


19世紀前半のイタリアオペラ
19世紀ヨーロッパの音楽界では、ロッシーニが『セビリアの理髪師』『アルジェのイタリア女』『チェネレントラ(シンデレラ)』などのオペラ・ブッファを量産するなど、引き続きイタリアオペラが主流の座を占めた。ヴィーンでもベートーヴェンはロッシーニの人気の足元にも及ばぬ状況であった。またオペラ・セリア様式の作品も、題材はギリシャ古典から中世以降に下った時期になったが悲劇として継続しており、ドニゼッティの『アンナ・ボレーナ』(イングランド国王ヘンリー8世の王妃アン・ブーリン)『マリア・ストゥアルダ』(スコットランド女王メアリー・スチュアート)、『ランメルモールのルチア』などが知られる。ベッリーニもまた『清教徒』『ノルマ』『カプレーティ家とモンテッキ家』(ロメオとジュリエット)などのセリアの作曲で知られる。もっともドニゼッティはブッファの傑作『愛の妙薬』でも有名であり、ロッシーニも『タンクレディ』『オテロ (ロッシーニ)』(シェイクスピア原作)『湖上の美人』(ウォルター・スコットの原作)『セミラーミデ』(ヴォルテールの原作)といったセリア作品や、『泥棒かささぎ』といったセミ・セリア作品及び『グリエルモ・テル』(シラーのヴィルヘルム・テルによるグランドオペラ)でも評価を得ている。


ヴァーグナー
オペラの発展は、ヴァーグナー(ワーグナー)とヴェルディによって、19世紀に最も劇的な段階を迎えた。

ヴァーグナーは、通奏低音で伴奏される比較的小音量のレチタティーヴォに、フルオーケストラ伴奏によるアリアがところどころ挿入され、アリアの終了の度に熱心な聴衆の拍手喝さいにより演奏が中断されるという伝統的なオペラの形式を拒んだ。それに替わりレチタティーヴォとアリアが混然一体となり、また常にオーケストラにより伴奏されるという、通して歌われる様式を導入した先駆者となった(このため拍手は幕間にだけ行われるようになった)。さらにヴァーグナーはライトモティーフを大々的に使用した。ライトモティーフは、かつてカール・マリア・フォン・ヴェーバーの使用例もあるが、物語中の登場する登場人物、道具や概念などを音楽で描こうという音楽的な工夫である。例えばある人物が舞台に登場するときや、舞台にいなくても他の登場人物が彼(彼女)について触れるときに、その人物を表すライトモティーフを奏でることであたかも映像を見ているような描写的効果を得ている。

ヴァーグナーはまた、楽劇とよばれる独特のオペラで作品の大規模化ももたらした。より重厚な響きを求めて大編成化したオーケストラに歌唱が埋没せぬよう、聴衆が舞台のみに集中して鑑賞するように、彼は自分自身の作品を上演する専用の劇場を必要とするに至り、バイエルンのルートヴィッヒ2世からの資金援助を受けて、オーケストラ・ピットを舞台の下に押し込めるという特異な構造の劇場をバイロイトに建設した。そこで上演される『ニーベルングの指輪』は4つの楽劇に分かれた巨大作品で、四夜を費やして演奏される。これを通して観ると約15時間程になり、空前絶後の大規模作品である。(現在はシュトックハウゼンの「光」という一週間を要する作品があり、規模の上ではこれを上回る。)

ヴァーグナーの楽劇の題材は北欧神話や中世の物語を扱っており、その意味ではオペラ・セリアの延長線上にあるともいえる。中世ドイツのマイスター(職人の親方たち)を題材にした『ニュルンベルクのマイスタージンガー』は唯一の喜劇的作品であるが、ロッシーニの喜劇に比べるとはるかに生真面目ともいえる。


ヴェルディ
ヴェルディはヴァーグナーのような音楽の革命家ではなかったが、オペラ・セリアの伝統的形式を継承発展させる形で作曲した。彼のオペラの登場人物は、まだ市井の一般人ではないが、神話的人物や叙事詩的英雄というわけでもなく、現代的な(彼の同時代という意味で)オペラセリアを再構築したということもできる。彼は初期の作品で、イタリア独立運動を支持する人々の愛国心を高揚させて大いに支持を受けた。ついで、登場人物の人間性に鋭く迫って劇的に表現する作風を確立し、音楽としてもドラマとしても完成度の高い中期の傑作群を創作した。グランドオペラ風の『アイーダ』と(オペラではないが)死者のためのミサ曲『レクイエム』を最後にいったんリタイアしたあと、作曲家ボーイトらのすすめで再度筆をとり『オテロ』『ファルスタッフ』をのこした。


ヴェリズモ・オペラ
ヴェリズモ・オペラは、イタリアで発生したヴェリズモ文芸運動がオペラに波及したものとみることも、自然主義文学のオペラへの影響とみることもできる。そこでは市井の人々の生活が、病苦・暴力といった暗部をも含む形で描写される。マスカーニの『カヴァレリア・ルスティカーナ』(田舎騎士)は、シチリアの小村における悲劇であり、ヴェリズモ・オペラの初期の傑作である。またレオンカヴァルロの『道化師』では、現実と仮想世界との区別の付かなくなった道化師カニオが舞台上で妻を殺してしまう。この傾向のオペラは1890年代から20世紀初頭にかけて多くの模倣・追随者を生んだ。


ロマン派オペラの終焉
リヒャルト・シュトラウスは、『サロメ』、『エレクトラ』で大きな反響を得た。前者の官能を刺激する色彩的な音楽は賛否両論を生み、後者の大胆な和声は伝統的な響きに慣れ、それらを好む聴衆からは猛反発を受けた。しかし、R.シュトラウスのオペラ作家としての地位は固まり、詩人ホフマンスタールとともに様々な新機軸を出した。後年、円熟した擬古的な作風の『ばらの騎士』『アラベラ』『ナクソス島のアリアドネ』などで音楽的完成度と大衆的な人気をともに確保して、モーツァルト・ヴァーグナーと並ぶ「ドイツの3大オペラ作曲家」と呼ばれるようになった。しかし、晩年の作品はロマン派の最盛期を過ぎた残照のような位置づけであることは否めない。

ジャコモ・プッチーニは、ヴェリズモオペラの影響を受けつつも、イタリアオペラの伝統に沿った作品を書いた。彼は庶民的な題材と美しいメロディをほどよくバランスさせ、親しみやすいなかにも完成度の高い作品群を作って人気を博した。出世作『マノン・レスコー』と引き続く『ラ・ボエーム』は好評を持って迎えられ、彼の地位を確立した。『蝶々夫人』では歴史的な失敗を喫したが、今日ではあらゆるオペラのなかでも人気の高い作品として知られるようになった。

R.シュトラウスとプッチーニは、ロマン派のオペラの幕を引いたといってよい。これ以降は、演劇と音楽が協調してできたオペラの役割は、映画あるいは今日ではテレビが担うことになる。


諸国の国民的オペラ
ロシアの国民主義のオペラはグリンカにより創始され、ロシア5人組によって継承発展された。ムソルグスキーの『ボリス・ゴドゥノフ』は名高い。また、リムスキー=コルサコフは『金鶏』『サドコ』など多数の作品を残した。チャイコフスキーは『エフゲニー・オネーギン』や『スペードの女王』で知られるが、彼のバレエ音楽とともにむしろ西欧風の作品といえる。20世紀に入ると、ショスタコーヴィチが『ムツェンスク郡のマクベス夫人』という近代オペラの傑作に数えられる作品を生んだ。

またスペインではサルスエラとして知られる、民族音楽風味を取り入れた独自様式のオペラが作られた。これはフランスのオペラ・コミックやドイツ・オーストリアのオペレッタに近い位置づけである。


戦後オペラ史
第二次大戦後、前衛の世代は何がざん新かということを問い詰めるために、極度に禁欲的な姿勢で創造に臨むことになる。規模も大きく、経済的事情と手間暇のかかるオペラという存在は、早くも前衛作曲家の目の敵とみなされた。だいたい、声楽家が現代音楽にかかわるというキャシー・バーベリアンのようなケースがまれで、声域にあわせて移調が可能なジャンル、つまり声域が合わなければ役を降りられるという過剰な演奏家擁護の姿勢は現代化に最も不利な属性である。

そのような中、オペラ創作にハンス・ヴェルナー・ヘンツェが先頭を切ってきた。しかし、現時点では彼のオペラ創作は必ずしも前衛イディオムをフル活用したとは言えず、疑問の残る出来である。前衛の時代に書かれた最も素晴らしいオペラは、前衛イディオムを批判的に使うことが可能だったベルント・アロイス・ツィンマーマンの「兵士達」であることに異論はなかろう。

そして前衛の時代が終わり、前衛の世代が金銭的に潤ったことを背景にオペラという概念を「音楽劇」という側面から、作曲家一人一人が個別に考える時代に入った。

ルイージ・ノーノのようにいくつかの試行を経て「耳で聞く悲劇」という様式へ収斂させた「プロメテオ」。
数々の演奏家が別々に個別の音楽を奏でる「ミュジ・サーカス」というアイデアが存分に生かされたジョン・ケージの「ユーロペア1~5」。
演出、衣装、振付、作曲、演技全てを一人で管轄し、ダ・ヴィンチ型才能を駆使するシルヴァーノ・ブッソッティの「ロレンザッチョ」。
「オペラはストラヴィンスキーで終わった。これからは音楽が劇を操作する“音楽劇”でなくてはならない」という欲望を実らせたルチアーノ・ベリオの「オウティス」。
25年超をかけて一週間かかる長大な自叙伝的オペラを完成させたカールハインツ・シュトックハウゼンの「光」は歌手ではなく、器楽奏者が主役になる。
人造言語に基づき、原言語の意味を過激なパフォーマンスで問うハンス・ヨアヒム・ヘスポスの「イオパル」。彼の器楽作品は音を出さない行為も音楽として扱うが、この考え方はジョン・ケージの4分33秒に近い領域に属する。これをマウリッシオ・カーゲルの諸器楽作品と同じくムジーク・テアターとして扱う音楽学者もいる

2007/09/20 22:09 | 未分類
鬼子母神
仏教諸神の一。サンスクリット語のハーリティーの漢訳。ハーリティーを音写した訶梨帝母(かりていも)とも言う。

元は鬼神・般闍迦の妻で、500人(一説には千人または1万人)の子の母でありながら、常に他人の子を捕えて食べてしまうため、釈迦は彼女が最も愛していた末子・愛好を隠して子を失う母親の苦しみを悟らせ、仏教に帰依させた。以後、仏法の護法神となり、子供と安産の守り神となった。盗難除けの守護とも言われる。

インドでは、とりわけ子授け、安産、子育ての神として祀られ、日本でも密教の盛行に伴い、小児の息災や福徳を求めて、鬼子母神を本尊とする訶梨帝母法が修せられたり、上層貴族の間では、安産を願って訶梨帝母像を祀り、訶梨帝母法を修している。また、法華経では十羅刹女(じゅうらさつにょ)とともに鬼子母神が、法華信奉者の擁護と法華信仰弘通を妨げる者の処罰を誓っていることから、日蓮はこれに基づき文字で表現した曼荼羅本尊に鬼子母神の号を連ね、鬼子母神と十羅刹女に母子の関係を設定している。このことが、曼荼羅諸尊の彫刻化や絵像化が進むなかで、法華信奉者の守護神としての鬼子母神の単独表現の元となった。

その像は天女のような姿をし、子供を1人抱き、右手には吉祥果(ザクロ)を持つ。ザクロは人肉の味がするから、とも言われるが、これは後になって付け加えられた話である。

鬼子母神は、法華経守護神として日蓮宗の寺院で祀られることが多く、「おそれいりやの鬼子母神」で知られる、東京都台東区入谷の鬼子母神(真源寺)、東京都豊島区雑司が谷の法明寺鬼子母神堂、千葉県市川市の中山法華経寺の鬼子母神が有名である。縁日は毎月8の付く日(8日,18日,28日)である。

2007/09/20 22:00 | 未分類
帆船の歴史
初期の帆船(紀元前)
人類がいつ帆船を発明したかは良く分かっていない。エジプトのナイル渓谷の遺跡には、帆をもった舟らしき壁画が残されている。この壁画は約8000年前に描かれたと推定されている。

古代ギリシア、古代ローマでは、軍船は帆と櫂を併用するガレー船であったが、商船は純粋な帆船であった。これらの帆船は1本のマストに四角帆が船の前後方向に対し斜めに張られたものであったが、紀元元年前後のローマ帝国では、2本のマストを持つ帆船も現れだした。


アラブの帆船 (7世紀~15世紀)
アラブ人は、イスラムの共同体や信用制度を基礎として、インド洋を中心として、東アフリカから果ては中国にまで及ぶ、帆船による海上貿易ネットワークを構築し、インド洋は「イスラムの海」の様相を呈していた (勢力図が変化したのは16世紀にポルトガルなどヨーロッパ諸国が進出してからである)。アラブ人は独特な海図と航海術を発展させ、夜間の航海も可能にした。『アラビアンナイト (千夜一夜物語)』の「船乗りシンドバッド」は、10世紀ごろのアラブ人船乗りの世界を描いている、と言われている。 また同海上貿易ネットワークは、インド化したアラブ人を出現させたように、アラブ化したインド人船乗りも出現させた。多くのインド商人が帆船でソファーラ(モザンビーク)周辺に行き、銑鉄を高額で買い付け回り、インドに輸出していた模様なども、アラブ人イブン・アル・ワルディの旅行記に記されている。 三角帆を特徴としたアラブ独特の帆船は、今でもザンジバル島(アフリカ)、パキスタン、モルディブ、インドネシアなど広範囲で使用されており、「ドーニー」 (ドーニィ) や「ダウ」などと呼ばれている。


中国の帆船(13~15世紀)
ヴェネツィアの旅行家マルコ・ポーロ(Marco Polo,1254年 -1324年)は20年近く元朝のクビライ・ハーンに仕えた。そのときのことを口述した『東方見聞録』において、元朝の南方交易用の帆船は、4本のマストを持ち乗員は60名程度であること、竜骨(キール)によって船体は高い強度を保っていること、浸水しても沈没を免れる隔壁構造の船体を採用していること、羅針盤によって正確な遠洋航行が可能であることを報告している。また、中国や黄金の国「ジパング」など、東方に莫大な富が存在していることを紹介し、後の大航海時代において東方を目指す強力な推進力となった。

ヨーロッパの大航海時代に先立ち、中国の明朝では鄭和が1405年から1433年にかけて7回の大航海を行った。航海した範囲は東南アジア、インド、アラビア半島、アフリカ東岸にまでわたった。これらの航海には長さ173m、幅56mにも及ぶ巨大な帆船が用いられた。


大航海時代 (15~16世紀)
ポルトガルのエンリケ航海王子(1395年 - 1460年)は、インド航路を開拓するために、船乗りの援助や帆船の改良に力を注いだ。 当時、東方との交易は、イスラム商人によって高い関税がかけられていたため、直接、中国やインドなどから香料、香辛料、絹、陶磁器などを入手するルートを開拓する必要があったのである。大型帆船には様々な改良が加えられた。それまでの帆船は1本マストであったが、この頃から3本マストの帆船が現れてきている。特にキャラベル船の誕生は、帆船の活動範囲を大幅に拡大した。キャラベル船は3本のマストに三角帆(ラテン帆)を採用することで、逆風でも前進できることが特徴である。クリストファー・コロンブスの第一回目の航海におけるサンタ・マリア号の僚艦、ニーニャ号とピンタ号がキャラベル船である。15世紀、キャラベル船とほぼ同時期に開発されたキャラック船は遠洋航海による大量輸送を可能にし、それまで主にヨーロッパのみを活動域とし、量も小規模に完結しがちだった商取引を、大西洋やインド洋を越え、なおかつ大量の物品を扱うものとすることをも可能とした。

このような背景のもと、いわゆる大航海時代が幕開いた。バーソロミュー・ディアスによる喜望峰の発見、コロンブスによるアメリカ大陸の発見(1492年)、ヴァスコ・ダ・ガマによる喜望峰を経由するインド航路の発見(1498年)など、次々と帆船による偉業が達成された。 そして、ついに1519年から1522年にかけてフェルディナンド・マゼランによる世界一周航海がなされている。


軍艦の発展 (16~18世紀)
16世紀に入ると帆船の主流はキャラベル船、キャラック船からガレオン船に代わっていった。ガレオン船は船首楼より高い船尾楼を持つことが特徴である。従来、竜骨の長さは船幅の2.5倍程度だったが、3倍まで船体の全長が長くなったことも特徴に挙げられる。ガレオン船は商船としても用いられたが、大量の大砲を搭載できたことから主に軍艦として用いられた。大航海時代の主役はポルトガルとスペインであったが、1588年、フランシス・ドレークらが率いるイギリス艦隊がスペインの無敵艦隊を破り、状況は一変する。スペインは大西洋の制海権を失い、イギリスが一大海運国として台頭するきっかけとなった。

17世紀後半から18世紀にかけて、軍艦は艦隊を組み、大火力による艦隊決戦をしばしば行うようになる。この時期に行われた有名な海戦としてトラファルガーの海戦(1805年)が挙げられる。艦隊の主力は「戦列艦」と呼ばれる2~3層の砲列甲板に合計50~130門の大砲をもつ艦種であった。戦列艦は20世紀の軍艦における戦艦や巡洋艦に相当する。戦列艦に比べ軽快な、1~2層の砲列甲板に合計20~50門の大砲をもつ「フリゲート」と呼ばれる艦種も登場してきた。18世紀初頭には従来の「舵取り棒」に代わって操舵輪が用いられるようになり、より効率のよい操船が可能になった。


ティークリッパー(19世紀)
19世紀には紅茶を運ぶための快速船「ティークリッパー」が中国からイギリスまで新茶を届ける速さを競い合った。最初に届けられた 新茶は高値で取引されるため、船主に莫大な利益をもたらしたのである。この競争は「ティーレース」と呼ばれ、「カティーサーク」、「サーモピレー」などのティークリッパーがしのぎを削りあった。ティークリッパーは外洋を高速で帆走できるよう、 標準よりも長細い船型をしている。例えば「カティーサーク」では縦の長さは横幅の6倍に達している。微妙な操船が困難になる細長い船型が可能になった背景には、蒸気機関によるタグボートが普及し、曳航によって出入港が出来るようになったことがあげられる。

19世紀は帆船から蒸気船に主役が交代した時代でもあった。19世紀前半あたりでは、石炭の補給の問題から蒸気船は比較的短距離の航路での運用に限られていたが、給炭地が整備され、蒸気機関の性能が向上するにつれ蒸気船の優位性が明らかになってきた。蒸気船の優位を決定的にしたのは、1869年のスエズ運河の開通である。スエズ運河一帯はほとんど無風であるため、蒸気船の独壇場だったのである。帆船はその恩恵に与ることが出来ず、上述の「ティークリッパー」の多くは中国航路から、オーストラリアからの羊毛輸送に転向を余儀なくされ、やがて姿を消していった。


帆船の衰退後 (20世紀~)
20世紀初頭にはアメリカの「トマス・W・ローソン」や、ヨーロッパ~チリ間の硝石輸送で大規模な帆走商船隊を編成したドイツのF・ライツ社が所有した「プロイセン」など、鉄・鋼鉄製の船体で大型・多マストの帆船が建造されたが、もはや帆船は海運の主役ではなくなっていた。イギリスに於いては19世紀末から帆船の建造が行われなくなっていたが、フランスでは1881年より帆船に対する補助金制度があったため、帆船時代の末期においても多くのフランス籍の大型商用帆船が就航していた。当時、フランス帆船は空荷で世界一周をしても、補助金によって十分な利益を挙げることができると言われていた。

第一次世界大戦でドイツ潜水艦による商船無差別攻撃などにより数多くの商用帆船が失われ、またフランスの補助金制度も打ち切られたため、所有していた英米仏の船会社は貨物運航を汽船に切り替えた。ドイツのライツ社は戦後賠償で失った船の一部を買い戻して再建を図ったが、結局1930年代前半迄に船員養成用の数隻を残して売却し汽船に置き換えた。両大戦間の時代はフィンランドの船主グスタフ・エリクソンが世界中で放棄された高性能の大型帆船を買い集めて大規模な帆走商船隊を編成し、ヨーロッパ~オーストラリア間で穀物輸送に当たっていた。当時は汽船の時代になってもなお航海士の免許に帆船の乗船経験を必要とした国が少なくなかったため、エリクソンの船団にはそのような実習生が多数乗船し、人的な面での需要もまだ残っていた。

しかし、エリクソンの帆走商船隊も第二次世界大戦で大半の船を失い、1947年の彼の死と共に終わりを告げた。最後まで残っていたのは南米のチリ沿岸で運航されていた1隻と、西ドイツの船主が練習船兼穀物輸送の貨物船として使用していた2隻だったが、1957年9月22日に西ドイツの「パミール」が南太西洋上で台風の直撃を受けて遭難沈没し、大半の乗員と実習生が犠牲となる惨事が起き、姉妹船の「パサート」も運航継続を断念、翌1958年6月18日にチリ沖で肥料輸送に就いていた「オメガ」が沈没し、ここに大型商用帆船は海上から姿を消した。

その後、大型帆船の活躍の場は海軍の士官や民間の船員養成の練習船など、限定されたものになってしまった。しかしながら、21世紀に入ってスタークリッパー社が、前述のプロイセン号をモデルにした5本マスト・シップ型の大型帆船「ロイヤル・クリッパー」を初めとする3隻の帆走クルーズ客船をカリブ海域に投入し、商業用途への回帰が注目されている。

2007/09/20 21:55 | 未分類
月見の名所
満願寺(島根県松江市)
岩国城と吉香公園(山口県岩国市)
九段坂(東京都千代田区)
大覚寺大沢池(京都府京都市)
玄宮園(滋賀県彦根市)
姫路城(兵庫県姫路市)
伊賀上野城(三重県伊賀上野)
信州姨捨(長野県千曲市)

狭義には、太陰太陽暦(旧暦)の8月15日(十五夜)と9月13日(十三夜)の夜の月見を指す。旧暦の8月15日を「中秋」と呼ぶため中秋の名月(ちゅうしゅうのめいげつ、ちゅうじゅう)ともいう。また、旧暦8月は、秋(7-9月)のちょうど中頃なので「仲秋」と呼ぶ、そのため仲秋の名月と表記する場合もある。グレゴリオ暦(新暦)での該当日は、8月15日

古来より旧暦8月(グレゴリオ暦(新暦)では9月ごろ)は観月に最も良い時節とされていた。この夜は、月が見える場所などに祭壇を作り薄(すすき)を飾って月見団子・里芋・枝豆・栗などを盛り、御酒を供えて月を眺めた(お月見料理)、豊作を祈る満月法会など。このことから芋名月とも言う。中国でも同様の習慣があり、月餅を作ってお供えする。日本に伝わって、月見団子に変ったという。韓国でも、この時期、月見の習慣があり、チュソク(秋夕)といい、勤めも休みになり、郷里で親族と共に祝うお正月、お盆に次ぐお祭りになっている。ソンピョン(松餅)というお菓子をつくる。

十三夜は日本独自の風習であり、ちょうど食べ頃の大豆や栗などを供えることから、この夜の月を豆名月または栗名月という。十五夜と十三夜どちらか片方の月見しかしないのは「片月見」と言って嫌われた。

秋や冬は空気が乾燥して月が鮮やかに見え、かつ、秋は湿度も低く夜でもそれほど寒くないため、名月として鑑賞されるようになった。 中国、日本では、月を愛でるという習慣が古くからあり、日本では縄文時代ごろからあるといわれ平安時代ごろから中国から月見の祭事が伝わると貴族などの間で観月の宴や舟遊び(直接月を見るのではなく船などにのったりして水面に揺れる月を楽しむ)など歌を詠んだり酒を飲んだりした、 ヨーロッパでは満月は人の心をかき乱し、狂わせるものであったようで、月の女神が死を暗示したり、狼男が月を見て変身するというのは、その典型的な例で、とても月を眺めて楽しむという気分にはなれなかったようだ。

2007/09/20 21:51 | 日記

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