死刑が執行されるまでの間、死刑囚は拘置所に拘禁される。拘置所により若干異なるが、死刑囚は執行までの間、便器・流し台・机・寝具等が収納された3畳ほどの居房の中で脱走・自殺防止用のカメラに24時間監視されながら生活をする。居房の窓と鉄格子の間は小さな穴の開いた金属板で覆われるため外の景色はほとんど見えず、通気性も大変悪く、ほとんどの拘置所には冷暖房も無い。
起床は午前7時、就寝は午後9時だが、カメラで監視を行うため、明かりを暗くして消灯は行わない。運動、入浴は週2回程度。但し最近は、拘置所側が規定を拡大解釈することによって、これより多い場合もあるらしい。
執行までの期間
刑事訴訟法の第475条では、死刑は判決確定後、法務大臣の命令により6ヶ月以内に執行することが定められているが、再審の請求や恩赦の出願等の期間はこれに含めないことも定められており、死刑確定から執行までほとんどが数年から数十年もの間、平均では7年程度を要するのが実際である。異例の早さで死刑が執行されたといわれる池田小児童殺傷事件の死刑囚でさえ、確定してから約1年の時間を要している。
また、在任中に信条、宗教上の理由などで執行命令書の署名を行わなかった法務大臣もいる。2005年10月31日に就任した法務大臣・杉浦正健は就任時に「(死刑執行命令書に)私はサインしない」と異例の発言を行い、一時間後に撤回している。
精神の異常を疑われたまま死刑判決を受けた者や、冤罪が疑われながら死刑判決を受けた者については、さらに執行が避けられる傾向にあり(執行された例もある)、外部交通が制限されるなか、長年にわたり何度も再審請求を繰り返して無罪を勝ち取った元死刑囚も多数存在している。
執行までの手続き
死刑判決が確定すると、判決謄本と公判記録は当該受刑者の死刑を求刑した検察庁に送られる。高等検察庁の検事長、あるいは地方検察庁の検事正は、これらの書類を基に、死刑囚に関する上申書を作成し法務大臣に提出する。上申書は、法務省刑事局に回される。同時に検察庁から法務省刑事局に裁判の確定記録が運ばれる。刑事局総務課は資料が全て揃っている事を確認し、刑事局担当の検事が記録を審査する。通常、死刑該当犯罪の場合、その裁判資料は膨大なものであるから審査には時間がかかる。特に、刑の執行を停止しなければならない件、非常上告の有無の件、再審の件、恩赦に相当するかどうかの件は慎重に確認される。審査の結果、死刑執行に問題がないと判断されると、検事は死刑執行起案書を作成する。死刑執行起案書は刑事局、矯正局、保護局の決裁を受け、これらの決裁の確認の後、死刑執行命令書として大臣官房へ送られる。ここまで、膨大な資料の確認と決裁のため、相当な時間がかかるが、この間に死刑囚が妊娠した場合や、精神に異常をきたした場合は、書類は刑事局に戻される。
死刑執行命令書は官房長の決裁を経て、法務大臣の下へ届く。本来であれば法務事務次官の決裁が必要だが、法務大臣と法務省の事務方代表である法務事務次官の決裁が食い違っては、政治的問題になるので、法務事務次官の決裁は、法務大臣の決裁を経た案件だけに行われる。
法務大臣の署名が行われない限り、死刑執行は不可能である。大半の法務大臣は署名を嫌がる。「これから死刑執行命令書のサインを行うので写真を撮ってくれ」と、数珠を片手に、赤鉛筆(命令書の署名は必ず赤鉛筆を使用する)を片手にポーズを構えた大臣が居たが、あまりの悪趣味に記者クラブの記者らに呆れられた。裁判資料を持ち込み悩みながら熟読し判断を下した大臣も居た。大臣の性格により様々であるが、法務省当局としては「死刑無し」の前例を出来る限り作らないように、大臣の任期終了前には相当な催促が行われると言う。ただし主義主張に無関係もしくは不明ながら任期が短い等の経緯により、結果として在任中死刑執行を一人も行わなかった法務大臣も、もちろん戦後複数存在する。
法務大臣が赤鉛筆で行なわれたと思われる署名、押印して執行命令書が作成されると、拘置所長に届けられ、5日以内に死刑が執行される。監獄法第71条2項の規定により、大祭祝日(国民の祝日)、土曜日、日曜日、12月31日・1月1日(元日)・1月2日には死刑の執行は行われない。
執行予定日は、死刑囚やその家族・マスコミ・被害者の家族等、外部には一切知らされない。過去においては当該死刑囚に前日または前々日に執行の予定を告げ、死刑囚の希望する食事を出来る限りの範囲で与え、特別の入浴を許可し、同囚や宗教教誨師や担当刑務官らを交え「お別れ会」を行う事も有った。現在では、死刑囚には当日の朝に執行を告げられ、午前中に執行されるというのが近年の傾向である。この告知方法については、毎朝、執行が予定されていない日においても死刑囚に不要な恐怖を与えて残虐であると内外から批判が強い。また、防御権の行使・遺言の伝達・家族間の別れの挨拶等を行うことも不可能になるため、死刑廃止国から強く批判されている。死刑存置国から正式にこれについて抗議は無い。なぜ無くなったかといえば、死刑通告を処刑をする前に通達すると、自殺されたり、または執行官が病気など理由をつけて休むことが多かったからである。
死刑執行の日、死刑囚の房には死刑囚の抵抗に備え、特別警備隊と呼ばれる、頑強な刑務官で構成された一隊が送られ、保安課長より死刑囚にこれから死刑を執行する旨が伝えられる。時間は午前九時から十一時の間が通常と言われている。淡々と従う者、抵抗を試みる者、恐怖で茫然自失となる者、反応は様々である。ここでは遺書を書く時間や、房や荷物を整理する時間は全く与えられず、即座に特別警備隊により刑場へ送られる。
死刑場には、手前の部屋に祭壇、奥の部屋に処刑場が設置されている。(白いカーテンにより区切られているという)死刑には拘置所長、立会検事、検察事務官、保安課長、教育課長、医官2名、刑務官5名以上、宗教教誨師が立ち会う。祭壇は回転式になっており、死刑囚の信仰する宗教に応じて、仏教、キリスト教、神道の祭壇を選ぶことが出来る。無宗教も選択できる。拘置所長による死刑執行指揮書の読み上げが行われる。宗教教誨師が最後の説教・説法を行う。その後、死刑囚は拘置所長や刑務官らと別れの挨拶を行うのが一般的である。死刑囚を落ち着かせるために拘置所長・教育課長・宗教教誨師が講話を行う。祭壇には供え物の生菓子が置かれており、教育課長から最後の飲食をすすめられる。拘置所長が死刑囚に最期に言い残したいことは無いか尋ねる。遺言が有れば遺言を残すことが出来るが、時間は限られている。一通り終わると死刑囚は処刑場へ誘導される。(宗教教誨師が仏教系の場合、処刑までの間、読経が行われるという)刑務官らにより目隠しと、腕の拘束、足の拘束が迅速に行われ、首にロープがかけられ(ロープの首に当たる部分は革で覆われている)、長さが調節される。拘置所長の合図により、刑務官らにより同時に5つのボタンが押される。(これは刑務官の精神的苦痛に配慮した仕組みである)床板が開き死刑囚は落下する。なおこの手順は死刑囚が従順な場合であり、激しく抵抗する者などは前記の儀式など行えるはずもなく、刑務官らの力により処刑場に引き立て処刑という事になる。概ね日本の死刑囚は、取り乱すことなく淡々と死に臨むと言われているが、後述するように死刑執行の様子は一切公表されることがなく、立ち会う者も拘置所所長、刑務官、検察官など行政府に属する者に限定されているため、実際のところは不明であるがゆえに、関係者の匿名の証言に情報を頼らざるをえない状況である。
死刑は絞首により行われると定められているが、実際は縊首である。死刑囚は、落下した後数分から十数分、長くて20分以内には絶命するとされている。死刑囚の中には、脱糞や射精をしている者もいるという。日本では死刑囚に対し、死刑執行による痛みを感じさせることなく即死させる絞首刑の技術があるとされている。これは処刑台の床板が外れることで死刑囚が落下し、その衝撃で延髄損傷・頸骨骨折が起き、死刑囚は意識を失うとの立場からの説である。落下した死刑囚は糞尿を垂れ流し激しく痙攣するので、係の刑務官が取り押さえる。「10分経っても絶命しなければ釈放される」などの都市伝説があるが、落下後、念を入れて医官が血管内に空気や毒物などを注入した例もあり全くのデタラメである。
立ち会った医官により死刑囚の死亡が確認される、法律の規定により死亡が確認されてから5分間死体はそのままの状態で置かれる。検察官と執行施設の長により死刑執行始末書に押印・署名されて事件に関するすべてが終わる。立会人らには酒が振る舞われるという。執行に関わった刑務官らには死刑執行手当2万円が支給され(振り込みであると、刑務官は家族に死刑について気付かれるため、それを避けるよう手渡しで支給される)、午前の内にその日の仕事は終業とされ帰宅が許される。精神的苦痛と心労により、そのまま飲みに出かけ死刑執行手当を使い切る刑務官が多いという。死刑囚の遺体は、あらかじめ決めてあった引き受け先と24時間以内に連絡が取れれば引き取って葬儀をすることが可能であるが、実際に引き取られた死刑囚の遺体は少ない。連絡が取れない場合や引き受け先が無い場合は火葬後、無縁仏として合葬される。
日本の死刑の特徴の一つとして、徹底した密行主義が挙げられる。マスコミや被害者の家族等を死刑の執行に立ち合わせることは無い。死刑の執行予定が公表されないことは上述したが、執行後も死刑囚の氏名や罪状等、多くの情報が公表されない。最近、国会議員に刑場見学が許可されるまでは、国会議員や学者による要請であっても刑場の見学等は一律に許可されていなかった。死刑囚の最期の様子が伝えられることは無く、日記などの遺品の内の何種類かは死刑囚の家族にも返還されない。
近年の傾向として執行日が国会閉会中の木・金曜日に偏っていることが言われる。連続した平日に5日かけて執行準備が行えるという理由のほかに、国会での追及を避けること、続く休日にあえて執行を取り上げて追及するマスコミが少ないことも理由になっているはずだという批判が存在する。さらに近年は法務大臣の辞任間際に死刑執行命令がなされる傾向がある。また、凶悪事件が起きた直後にも執行されることも多い。これは、最も死刑に賛成する世論の強い時期に執行することにより批判をかわせること、および凶悪犯罪の結果は悲惨な死であるということを国民に知らしめる一般予防効果を狙うことが理由であろう。
以前は凶悪犯罪に対しすぐに死刑になる判例が多く、身代金を目的とした幼児の誘拐・殺人事件などはすぐに死刑になるケースが多かった。だが、最近では複数名の人間を殺害した被疑者に対してでないと死刑判決が出るケースが少ない。少年事犯に対する判決はかなり慎重である。また、裁判のなかで被疑者が反省の弁を述べなかったり、犯罪の共謀者と罪の擦り付け合いをしている場合も死刑判決が出るケースが多い。保険金目的の殺人など営利目的の殺人に対しても厳しい判決が下されるケースが多い。また無期懲役刑を受けた被疑者が仮出所後に殺人を行った場合も死刑判決を受けるケースが多い。(この場合、仮出所の判断に対して批難が起きる事がある)
起床は午前7時、就寝は午後9時だが、カメラで監視を行うため、明かりを暗くして消灯は行わない。運動、入浴は週2回程度。但し最近は、拘置所側が規定を拡大解釈することによって、これより多い場合もあるらしい。
執行までの期間
刑事訴訟法の第475条では、死刑は判決確定後、法務大臣の命令により6ヶ月以内に執行することが定められているが、再審の請求や恩赦の出願等の期間はこれに含めないことも定められており、死刑確定から執行までほとんどが数年から数十年もの間、平均では7年程度を要するのが実際である。異例の早さで死刑が執行されたといわれる池田小児童殺傷事件の死刑囚でさえ、確定してから約1年の時間を要している。
また、在任中に信条、宗教上の理由などで執行命令書の署名を行わなかった法務大臣もいる。2005年10月31日に就任した法務大臣・杉浦正健は就任時に「(死刑執行命令書に)私はサインしない」と異例の発言を行い、一時間後に撤回している。
精神の異常を疑われたまま死刑判決を受けた者や、冤罪が疑われながら死刑判決を受けた者については、さらに執行が避けられる傾向にあり(執行された例もある)、外部交通が制限されるなか、長年にわたり何度も再審請求を繰り返して無罪を勝ち取った元死刑囚も多数存在している。
執行までの手続き
死刑判決が確定すると、判決謄本と公判記録は当該受刑者の死刑を求刑した検察庁に送られる。高等検察庁の検事長、あるいは地方検察庁の検事正は、これらの書類を基に、死刑囚に関する上申書を作成し法務大臣に提出する。上申書は、法務省刑事局に回される。同時に検察庁から法務省刑事局に裁判の確定記録が運ばれる。刑事局総務課は資料が全て揃っている事を確認し、刑事局担当の検事が記録を審査する。通常、死刑該当犯罪の場合、その裁判資料は膨大なものであるから審査には時間がかかる。特に、刑の執行を停止しなければならない件、非常上告の有無の件、再審の件、恩赦に相当するかどうかの件は慎重に確認される。審査の結果、死刑執行に問題がないと判断されると、検事は死刑執行起案書を作成する。死刑執行起案書は刑事局、矯正局、保護局の決裁を受け、これらの決裁の確認の後、死刑執行命令書として大臣官房へ送られる。ここまで、膨大な資料の確認と決裁のため、相当な時間がかかるが、この間に死刑囚が妊娠した場合や、精神に異常をきたした場合は、書類は刑事局に戻される。
死刑執行命令書は官房長の決裁を経て、法務大臣の下へ届く。本来であれば法務事務次官の決裁が必要だが、法務大臣と法務省の事務方代表である法務事務次官の決裁が食い違っては、政治的問題になるので、法務事務次官の決裁は、法務大臣の決裁を経た案件だけに行われる。
法務大臣の署名が行われない限り、死刑執行は不可能である。大半の法務大臣は署名を嫌がる。「これから死刑執行命令書のサインを行うので写真を撮ってくれ」と、数珠を片手に、赤鉛筆(命令書の署名は必ず赤鉛筆を使用する)を片手にポーズを構えた大臣が居たが、あまりの悪趣味に記者クラブの記者らに呆れられた。裁判資料を持ち込み悩みながら熟読し判断を下した大臣も居た。大臣の性格により様々であるが、法務省当局としては「死刑無し」の前例を出来る限り作らないように、大臣の任期終了前には相当な催促が行われると言う。ただし主義主張に無関係もしくは不明ながら任期が短い等の経緯により、結果として在任中死刑執行を一人も行わなかった法務大臣も、もちろん戦後複数存在する。
法務大臣が赤鉛筆で行なわれたと思われる署名、押印して執行命令書が作成されると、拘置所長に届けられ、5日以内に死刑が執行される。監獄法第71条2項の規定により、大祭祝日(国民の祝日)、土曜日、日曜日、12月31日・1月1日(元日)・1月2日には死刑の執行は行われない。
執行予定日は、死刑囚やその家族・マスコミ・被害者の家族等、外部には一切知らされない。過去においては当該死刑囚に前日または前々日に執行の予定を告げ、死刑囚の希望する食事を出来る限りの範囲で与え、特別の入浴を許可し、同囚や宗教教誨師や担当刑務官らを交え「お別れ会」を行う事も有った。現在では、死刑囚には当日の朝に執行を告げられ、午前中に執行されるというのが近年の傾向である。この告知方法については、毎朝、執行が予定されていない日においても死刑囚に不要な恐怖を与えて残虐であると内外から批判が強い。また、防御権の行使・遺言の伝達・家族間の別れの挨拶等を行うことも不可能になるため、死刑廃止国から強く批判されている。死刑存置国から正式にこれについて抗議は無い。なぜ無くなったかといえば、死刑通告を処刑をする前に通達すると、自殺されたり、または執行官が病気など理由をつけて休むことが多かったからである。
死刑執行の日、死刑囚の房には死刑囚の抵抗に備え、特別警備隊と呼ばれる、頑強な刑務官で構成された一隊が送られ、保安課長より死刑囚にこれから死刑を執行する旨が伝えられる。時間は午前九時から十一時の間が通常と言われている。淡々と従う者、抵抗を試みる者、恐怖で茫然自失となる者、反応は様々である。ここでは遺書を書く時間や、房や荷物を整理する時間は全く与えられず、即座に特別警備隊により刑場へ送られる。
死刑場には、手前の部屋に祭壇、奥の部屋に処刑場が設置されている。(白いカーテンにより区切られているという)死刑には拘置所長、立会検事、検察事務官、保安課長、教育課長、医官2名、刑務官5名以上、宗教教誨師が立ち会う。祭壇は回転式になっており、死刑囚の信仰する宗教に応じて、仏教、キリスト教、神道の祭壇を選ぶことが出来る。無宗教も選択できる。拘置所長による死刑執行指揮書の読み上げが行われる。宗教教誨師が最後の説教・説法を行う。その後、死刑囚は拘置所長や刑務官らと別れの挨拶を行うのが一般的である。死刑囚を落ち着かせるために拘置所長・教育課長・宗教教誨師が講話を行う。祭壇には供え物の生菓子が置かれており、教育課長から最後の飲食をすすめられる。拘置所長が死刑囚に最期に言い残したいことは無いか尋ねる。遺言が有れば遺言を残すことが出来るが、時間は限られている。一通り終わると死刑囚は処刑場へ誘導される。(宗教教誨師が仏教系の場合、処刑までの間、読経が行われるという)刑務官らにより目隠しと、腕の拘束、足の拘束が迅速に行われ、首にロープがかけられ(ロープの首に当たる部分は革で覆われている)、長さが調節される。拘置所長の合図により、刑務官らにより同時に5つのボタンが押される。(これは刑務官の精神的苦痛に配慮した仕組みである)床板が開き死刑囚は落下する。なおこの手順は死刑囚が従順な場合であり、激しく抵抗する者などは前記の儀式など行えるはずもなく、刑務官らの力により処刑場に引き立て処刑という事になる。概ね日本の死刑囚は、取り乱すことなく淡々と死に臨むと言われているが、後述するように死刑執行の様子は一切公表されることがなく、立ち会う者も拘置所所長、刑務官、検察官など行政府に属する者に限定されているため、実際のところは不明であるがゆえに、関係者の匿名の証言に情報を頼らざるをえない状況である。
死刑は絞首により行われると定められているが、実際は縊首である。死刑囚は、落下した後数分から十数分、長くて20分以内には絶命するとされている。死刑囚の中には、脱糞や射精をしている者もいるという。日本では死刑囚に対し、死刑執行による痛みを感じさせることなく即死させる絞首刑の技術があるとされている。これは処刑台の床板が外れることで死刑囚が落下し、その衝撃で延髄損傷・頸骨骨折が起き、死刑囚は意識を失うとの立場からの説である。落下した死刑囚は糞尿を垂れ流し激しく痙攣するので、係の刑務官が取り押さえる。「10分経っても絶命しなければ釈放される」などの都市伝説があるが、落下後、念を入れて医官が血管内に空気や毒物などを注入した例もあり全くのデタラメである。
立ち会った医官により死刑囚の死亡が確認される、法律の規定により死亡が確認されてから5分間死体はそのままの状態で置かれる。検察官と執行施設の長により死刑執行始末書に押印・署名されて事件に関するすべてが終わる。立会人らには酒が振る舞われるという。執行に関わった刑務官らには死刑執行手当2万円が支給され(振り込みであると、刑務官は家族に死刑について気付かれるため、それを避けるよう手渡しで支給される)、午前の内にその日の仕事は終業とされ帰宅が許される。精神的苦痛と心労により、そのまま飲みに出かけ死刑執行手当を使い切る刑務官が多いという。死刑囚の遺体は、あらかじめ決めてあった引き受け先と24時間以内に連絡が取れれば引き取って葬儀をすることが可能であるが、実際に引き取られた死刑囚の遺体は少ない。連絡が取れない場合や引き受け先が無い場合は火葬後、無縁仏として合葬される。
日本の死刑の特徴の一つとして、徹底した密行主義が挙げられる。マスコミや被害者の家族等を死刑の執行に立ち合わせることは無い。死刑の執行予定が公表されないことは上述したが、執行後も死刑囚の氏名や罪状等、多くの情報が公表されない。最近、国会議員に刑場見学が許可されるまでは、国会議員や学者による要請であっても刑場の見学等は一律に許可されていなかった。死刑囚の最期の様子が伝えられることは無く、日記などの遺品の内の何種類かは死刑囚の家族にも返還されない。
近年の傾向として執行日が国会閉会中の木・金曜日に偏っていることが言われる。連続した平日に5日かけて執行準備が行えるという理由のほかに、国会での追及を避けること、続く休日にあえて執行を取り上げて追及するマスコミが少ないことも理由になっているはずだという批判が存在する。さらに近年は法務大臣の辞任間際に死刑執行命令がなされる傾向がある。また、凶悪事件が起きた直後にも執行されることも多い。これは、最も死刑に賛成する世論の強い時期に執行することにより批判をかわせること、および凶悪犯罪の結果は悲惨な死であるということを国民に知らしめる一般予防効果を狙うことが理由であろう。
以前は凶悪犯罪に対しすぐに死刑になる判例が多く、身代金を目的とした幼児の誘拐・殺人事件などはすぐに死刑になるケースが多かった。だが、最近では複数名の人間を殺害した被疑者に対してでないと死刑判決が出るケースが少ない。少年事犯に対する判決はかなり慎重である。また、裁判のなかで被疑者が反省の弁を述べなかったり、犯罪の共謀者と罪の擦り付け合いをしている場合も死刑判決が出るケースが多い。保険金目的の殺人など営利目的の殺人に対しても厳しい判決が下されるケースが多い。また無期懲役刑を受けた被疑者が仮出所後に殺人を行った場合も死刑判決を受けるケースが多い。(この場合、仮出所の判断に対して批難が起きる事がある)
PR
標高2,932mの北アルプス北部の山。南に続く後立山連峰とともに、南北に伸びる稜線の両側の傾斜が著しく異なる非対称山稜が発達している特徴的な山容を持つ。
東側の谷筋には冬季の膨大な積雪と周囲の山塊からの雪崩が集積した日本最大の雪渓である白馬大雪渓がある。雪渓の上部は夏期には日本有数のお花畑が広がる。また鑓ヶ岳中腹の標高2100メートル地点には、日本有数の高所にある温泉である白馬鑓温泉があり、白馬大池の北麓には蓮華温泉がある。
雪渓、お花畑、岩場、山の温泉とさまざまに楽しめる要素があり、交通の便も比較的良いことから、夏季にはたくさんの登山者が訪れて混雑する。なお、山頂直下に位置する白馬山荘は日本最大の収容人員を誇る山小屋である。夏期の登山者の大半は大雪渓を経由して登るため、夏休みの時期には大雪渓上は長蛇の列となることが多い。しかし、雪渓上は数年ごとに落石事故によって死傷者が出ているので、注意が必要である。
主な登山道
猿倉-白馬尻-白馬岳(大雪渓ルート)
猿倉-白馬鑓温泉-鑓ヶ岳
栂池-白馬乗鞍岳-白馬大池
蓮華温泉-白馬大池
蓮華温泉-三国境-白馬岳
欅平-祖母谷温泉-清水岳-白馬岳
唐松岳方面-鑓ヶ岳-杓子岳-白馬岳-小蓮華岳-白馬大池
白馬岳-雪倉岳-朝日岳
交通
大雪渓・白馬鑓温泉
JR東日本大糸線の白馬駅から松本電鉄の路線バスで猿倉へ
白馬大池
JR東日本大糸線の白馬駅・信濃森上駅・JR東日本白馬大池駅から路線バスで栂池高原、更にロープウェーで栂池まで
JR西日本大糸線の平岩駅から糸魚川バスの路線バスで蓮華温泉へ
欅平
黒部峡谷鉄道本線欅平駅より
東側の谷筋には冬季の膨大な積雪と周囲の山塊からの雪崩が集積した日本最大の雪渓である白馬大雪渓がある。雪渓の上部は夏期には日本有数のお花畑が広がる。また鑓ヶ岳中腹の標高2100メートル地点には、日本有数の高所にある温泉である白馬鑓温泉があり、白馬大池の北麓には蓮華温泉がある。
雪渓、お花畑、岩場、山の温泉とさまざまに楽しめる要素があり、交通の便も比較的良いことから、夏季にはたくさんの登山者が訪れて混雑する。なお、山頂直下に位置する白馬山荘は日本最大の収容人員を誇る山小屋である。夏期の登山者の大半は大雪渓を経由して登るため、夏休みの時期には大雪渓上は長蛇の列となることが多い。しかし、雪渓上は数年ごとに落石事故によって死傷者が出ているので、注意が必要である。
主な登山道
猿倉-白馬尻-白馬岳(大雪渓ルート)
猿倉-白馬鑓温泉-鑓ヶ岳
栂池-白馬乗鞍岳-白馬大池
蓮華温泉-白馬大池
蓮華温泉-三国境-白馬岳
欅平-祖母谷温泉-清水岳-白馬岳
唐松岳方面-鑓ヶ岳-杓子岳-白馬岳-小蓮華岳-白馬大池
白馬岳-雪倉岳-朝日岳
交通
大雪渓・白馬鑓温泉
JR東日本大糸線の白馬駅から松本電鉄の路線バスで猿倉へ
白馬大池
JR東日本大糸線の白馬駅・信濃森上駅・JR東日本白馬大池駅から路線バスで栂池高原、更にロープウェーで栂池まで
JR西日本大糸線の平岩駅から糸魚川バスの路線バスで蓮華温泉へ
欅平
黒部峡谷鉄道本線欅平駅より
アコード誕生には多くの紆余曲折があり、幾多の会議の結果、1600cc2BOXというコンセプトに決定したが、その決定の背後には頓挫した大きな計画が影を落としていた。それがクラウン、セドリッククラスに投入する2000ccストレート6 CVCCを搭載したアッパーミドルカー開発計画の「653計画」である。当時、シビックの大成功で息を吹き返したホンダは、当時のコロナ、ブルーバード(現在のプレミオやアリオン、ブルーバードシルフィに相当する)クラスではなく、シビックよりも遥か上の高級乗用車の開発を行っていた。いくらシビックがヒットしていたとはいえ、まだ乗用車市場にしっかりとした根を張っていなかった中で、突如、大きいクラスへ挑戦しようとしていたところは如何にもホンダらしいアプローチといえる。だが、最終的にはシビックで自動車マーケットを戦い始めたばかりだったことが、不幸にもこの653の命運を決めてしまうことになったのだが、このクルマで培った経験と技術は、後のホンダ車にも引き継がれ、特にこの計画の受け皿になったアコード計画にとっては最も貴重な捨石となった。
ボディは4ドアで、スタイルはシビックに採用されたハッチゲートを持たず独立したトランクを設けた台形デザインを採用。特に、丸型4灯を持つフロントマスクの表情や、リアピラーを強く傾斜させたシルエットなど、後にこの計画の中止後に開発する初代アコードとの近似性が感じられるものだった。そのエクステリア・デザインを担当したのは、本田技術研究所の専務取締役を勤め、初代シビックをはじめ、後に初代アコードや、初代、2代目のプレリュード、ワンダー・シビック/初代CR-Xのエクステリア・デザインを手がける岩倉信弥(多摩美術大学教授、2004年8月現在)であった。
インテリア・デザインは、初代シビックを始め、初代アコードのインテリア・デザインをも手がけた元ホンダR&Dのエグゼティブチーフエンジニアの大塚紀元である。エンジンは、この頃コスワース移籍を模索し、最終的には残留することを決めた川本信彦が手がけ、一説によると、全長は当時のプリンスG型6気筒よりも12センチもコンパクトで、振動もバランサーシャフトが存在しないなか、ブロックの剛性配分で乗り切り、小型、軽量、静粛を実現していたという。そのような先進的なコンポーネンツの新しさもさることながら、最上級車ゆえに装備面でも当時の最先端技術を採用し、エアコン、パワーステアリング、カットパイルのカーペットの他、現在では当たり前となっているダッシュボードパネルの一体成型技術をものにしていた。
しかし、最終生産試作車を作り終え、金型発注が始まった段階で突如、本社役員会で開発中止の決定が下る。主な理由は、販売網にあった。シビックが大ヒットしていたとはいえ、本格的な販売網を整備していない状況のなかで、高級車を販売するにはあまりにもリスクが大きすぎた。代わりにホンダは、シビックよりもわずかうえの上級車を計画。それによって生まれたクルマが初代アコードとして日の目をみることとなる。ちなみにアコード計画には、653の開発に関わっていたスタッフがほぼ加わり、653で得たノウハウを惜しみなく投入された。
国内モデルは2002年10月10日にフルモデルチェンジ(アコードワゴンは2002年11月28日発売)。搭載エンジンはK20A型・2000ccとK24A型・2400ccの2種類で、ともにi-VTECを搭載し、すべてDOHCとなった。今回から欧州モデルと統合されて生産が日本に集約されている。よってセダンは再び3ナンバーとなった。キーコンセプトは「全身・全域 HONDA イズム」。
変速機はユーロRに6MT、その他のグレードにはSマチック付の5ATが搭載される。また、最近のホンダ車に見られる「鋭い目」はアコードから始まった。なお、安全対策としてドアミラーウインカーが標準装備されている。オプション設定だが、IHCC(インテリジェントハイウェイクルーズコントロール)やLKAS(レーンキープアシストシステム)が装備できる。CMソングは「カルメン」のアレンジ版。
欧州モデルには2200ccのコモンレール式ディーゼルターボが搭載された(※日本での販売予定は無い)。また、イギリスではテレビコマーシャル が話題になり、TBS系列の情報番組サンデーモーニングにも取り上げられた。 なお日欧版アコードは、北米ではホンダの高級車ブランド「アキュラ」において、「アキュラ・TSX」として発売されている。
ボディは4ドアで、スタイルはシビックに採用されたハッチゲートを持たず独立したトランクを設けた台形デザインを採用。特に、丸型4灯を持つフロントマスクの表情や、リアピラーを強く傾斜させたシルエットなど、後にこの計画の中止後に開発する初代アコードとの近似性が感じられるものだった。そのエクステリア・デザインを担当したのは、本田技術研究所の専務取締役を勤め、初代シビックをはじめ、後に初代アコードや、初代、2代目のプレリュード、ワンダー・シビック/初代CR-Xのエクステリア・デザインを手がける岩倉信弥(多摩美術大学教授、2004年8月現在)であった。
インテリア・デザインは、初代シビックを始め、初代アコードのインテリア・デザインをも手がけた元ホンダR&Dのエグゼティブチーフエンジニアの大塚紀元である。エンジンは、この頃コスワース移籍を模索し、最終的には残留することを決めた川本信彦が手がけ、一説によると、全長は当時のプリンスG型6気筒よりも12センチもコンパクトで、振動もバランサーシャフトが存在しないなか、ブロックの剛性配分で乗り切り、小型、軽量、静粛を実現していたという。そのような先進的なコンポーネンツの新しさもさることながら、最上級車ゆえに装備面でも当時の最先端技術を採用し、エアコン、パワーステアリング、カットパイルのカーペットの他、現在では当たり前となっているダッシュボードパネルの一体成型技術をものにしていた。
しかし、最終生産試作車を作り終え、金型発注が始まった段階で突如、本社役員会で開発中止の決定が下る。主な理由は、販売網にあった。シビックが大ヒットしていたとはいえ、本格的な販売網を整備していない状況のなかで、高級車を販売するにはあまりにもリスクが大きすぎた。代わりにホンダは、シビックよりもわずかうえの上級車を計画。それによって生まれたクルマが初代アコードとして日の目をみることとなる。ちなみにアコード計画には、653の開発に関わっていたスタッフがほぼ加わり、653で得たノウハウを惜しみなく投入された。
国内モデルは2002年10月10日にフルモデルチェンジ(アコードワゴンは2002年11月28日発売)。搭載エンジンはK20A型・2000ccとK24A型・2400ccの2種類で、ともにi-VTECを搭載し、すべてDOHCとなった。今回から欧州モデルと統合されて生産が日本に集約されている。よってセダンは再び3ナンバーとなった。キーコンセプトは「全身・全域 HONDA イズム」。
変速機はユーロRに6MT、その他のグレードにはSマチック付の5ATが搭載される。また、最近のホンダ車に見られる「鋭い目」はアコードから始まった。なお、安全対策としてドアミラーウインカーが標準装備されている。オプション設定だが、IHCC(インテリジェントハイウェイクルーズコントロール)やLKAS(レーンキープアシストシステム)が装備できる。CMソングは「カルメン」のアレンジ版。
欧州モデルには2200ccのコモンレール式ディーゼルターボが搭載された(※日本での販売予定は無い)。また、イギリスではテレビコマーシャル が話題になり、TBS系列の情報番組サンデーモーニングにも取り上げられた。 なお日欧版アコードは、北米ではホンダの高級車ブランド「アキュラ」において、「アキュラ・TSX」として発売されている。
江戸、白河藩屋敷(東京都港区)で生まれる。父の勝次郎は4歳のときに死去し、母とも死別したとされる。9歳頃に、江戸市谷に天然理心流の道場を開く近藤周三の内弟子となり、試衛館にて後に新選組結成の中核となる近藤勇、土方歳三らと同門になる。若くして天然理心流塾頭を務める。沖田は無類の天才剣士であったと言われるが、江戸の頃の教え方はかなり荒っぽいものであったらしい。後年になると穏やかな教え方へと変化した。
1863年の浪士組結成に参加して上洛、分裂後は近藤らに従い残留し、新選組を結成する。沖田の一番隊は常に重要な任務をこなし、剣豪ひしめく新選組の中でも一、二を争う程多くの人を斬ったと言われ、この時期では9月の芹沢鴨暗殺、内山彦次郎暗殺など手がけた。
64年6月の池田屋事件で、討幕派数人を切り伏せ活躍したものの、直後に肺結核により喀血して倒れる(諸説あり)とされていたが、その後の新選組史において依然として活躍していることから、この日に肺結核が発症したとは考えにくい。
病が進行して第一線で活躍することがなくなるのは1867年以降で、鳥羽伏見の戦いは参戦できず大坂に護送される。鳥羽伏見の敗戦後、隊士と共に海路江戸へ戻り、甲陽鎮撫隊に参加する(諸説あり)も中途での落伍を余儀なくされる。以後は幕臣の松本良順により千駄ヶ谷の植木屋に匿われたとされ、1868年に死去、享年27。
慶応元年2月、総長の山南敬助が脱走した事件では、追っ手として差し向けられ近江草津で捕らえる。山南は沖田の介錯で切腹した。沖田は山南を兄のように慕っていたとされるが、故郷への手紙では山南の死に関して軽く触れるに留められている。
沖田が人を斬ったことを記す初めての記録は文久3年3月24日の夜。清河八郎の呼びかけに集まった浪士組の一番隊の殿内義雄だった。
近藤勇斬首から2ヶ月後、近藤勇の死も知らずに亡くなった。 辞世の句は「動かねば闇にへだつや花と水」とされる。墓所は、東京都港区元麻布三、専称寺ほか。
佐久間象山の息子三浦啓之助がある隊士にからかわれた。後日、土方と沖田が碁を打っている側で三浦がからかった隊士を背後から斬りつけると、沖田は腹を立て「この馬鹿野郎」と叫び三浦の襟首を引っつかんで頭を畳に押し付け引きずり回し、三浦は鼻の皮を真っ赤にすりむいたという話が伝わっている。
死の際には、植木屋の庭に現れる黒猫を斬ろうとして幾度となく失敗し、己の衰えを痛感した沖田は「ああ、斬れない。婆さん(付添いの老婆)、俺は斬れないよ」と嘆いていたという(ただし、この話は子母沢寛による創作であると言われる)。
死の間際まで「(近藤)先生はどうされたのでしょうね、お便りは来ませんか?」と、師を気遣う言葉を幾度となく口にしたとも伝えられている。近藤の死に関して周囲の者は固く口止めされていたため、沖田は近藤の死を知らずに逝ったわけである。これに先立って、甲陽鎮撫隊が出陣する際に近藤が沖田を見舞うと、普段は明るい沖田がこのときだけは声を上げて泣いたという。
一般に近藤、土方、沖田の三人が非常に親しく、特に土方と沖田は兄弟のような関係であったと思われているが、これも司馬遼太郎、子母澤寛の創作によるところが多い。土方と沖田が特別親しかったことを示す資料自体は存在しないが、沖田が土方の手紙の執筆代理をした記録が残っている。小説や文献には腕を組んで歩いていたとか、土方の遊楽にはよく連添われたとかいう伝説や記述も見受けられるが、実際には沖田と土方は特別親密であったわけではないらしい。腕を組んでいたというのも誇張で、実際には屯所の周りを数人で散歩していた隊士のなかにたまたま土方と沖田が混ざっていた程度のことらしく、仕事以外では二人で行動を共にすることは少なかったようで、二人の仲は悪くはないが特別良くもなく、肉親のように固い絆で結ばれているようなことは無かったようである。 しかし、師である近藤勇とは師弟関係の絆が相当強かったようで、試衛館時代から父親のように慕っていたと伝わっている。新選組結成以降も近藤には最も忠義を尽くし、自分の死の間際にまで近藤の安否を心配し続けていたのである。
剣技
沖田の剣技で有名なのが「三段突き」である。左八相の構えから踏み込みの足音が一度しか鳴らないのに、その間に3発の突きを繰り出すという目にも止まらぬ速さなのだが、相手は一突きもらったと思った瞬間、既に三度突かれていたということである(その後会得した者が居ない為、真相は不明)。しかしそのような剣とは裏腹に、当の本人はいつも冗談を言っては笑っていた陽気な人物であったようだ。屯所界隈の子供達ともよく遊んであげていたようで、作家の司馬遼太郎は新撰組を題材とした作品を執筆する際、幼い頃に沖田に遊んでもらったという老婆を取材している(取材が1960年前後とすると、明治維新が1868年なので、かなり高齢ではあるものの実際の沖田総司を目にした人々が生きていたのである)。
沖田の剣については、新選組内部以外からの声もある。小島鹿之助は新選組結成前(文久2年(1862年)7月)に「この人剣術は、晩年必ず名人に至るべき人なり」(『小島日記』)と述べているし、新選組に批判的な西村兼文は「近藤秘蔵の部下にして、隊中第一等の剣客なり」(『壬生浪士始末記』)と言い、さらに新選組と敵対した阿部十郎は「沖田総司、是がマァ、近藤の一弟子でなかなか能くつかいました」「沖田総司、大石鍬次郎という若者は、ただ腕が利くだけで、剣術などはよくつかいました」「大石鍬次郎、沖田総司、井上、是らは無闇に人を斬殺致しますので」(『史談会速記録』)など、殊に敵に回した場合に筆頭の脅威となる剣客であったことが伺える。ちなみに千葉弥一郎(新徴組隊士で、沖田の義兄と同僚)の言葉に「われわれからみたらやっと目録(低い段位)くらいの腕前」と、唯一の否定的見解が見られる。
沖田の刀
小説などにおいて、沖田総司の所有する刀として「菊一文字則宗」の名が挙げられる。これは子母澤寛などの伝記により「沖田の刀は“菊一文字細身のつくり”」とされていたことから司馬遼太郎が著作『新撰組血風録』の中で創作した物語が広まったものである。しかし則宗作の刀は、日本刀が常用されていた当時でさえ非常に貴重な古刀であり、経済的にも実戦で多用する必要性からも沖田が所有した可能性はほとんど無いと推察され、研究者の間で取り上げられることはまず無い。現在では沖田が所有した実際の刀は、一般に「加州清光」とされている。あるいは、則宗以外にも幾つか存在した“菊に一”の紋を打った細身の刀の1つではないかとする説もある。いずれにせよ他の隊士と同様、在京中に何度か刀を交換した可能性も高い。
美少年
作家司馬遼太郎の作品以降、沖田は小説・ドラマなど創作世界においては頻繁に美少年として描かれてきた。沖田の容貌に関して、現在残っている沖田の肖像画は、昭和4年に沖田家の人を元に書かれたものであり、八木家の者や新選組に関わった人物の証言では、「美少年であった」とは書き残してはおらず、容姿に関する記述としては、「ヒラメ顔で色黒」、「肩の張り上がった」、「猫背」と書かれたものが残っている。(『竜馬におまかせ!』『月明星稀 - さよなら新選組』ではこの説に近い設定となっている。)この記述から浮かび上がる人物像として、美少年説に疑義を唱える指摘もある。沖田が美少年であるというイメージは、司馬遼太郎の小説『燃えよ剣』をはじめ、その流れをくんだ『幕末純情伝』(美少女として描かれている)など多数の作品での、沖田に関する描写などによる誤解であると思われる。
沖田の肖像については、1977年出版の「激録新撰組」(原康史著 東京スポーツ新聞社刊)表紙に沖田と称する写真が掲載されていた。同書には新選組隊士と称する若い武士の写真が多数収録されており、件の写真も沖田と同年代と見られる武士姿ではあるが、研究者には疑問視する向きも多い。
沖田総司の恋
創作の世界で沖田は、司馬遼太郎の小説以降、一般に純情な青年として描かれることが多かった。町医者の娘とプラトニックな恋愛をするなどの描き方がほとんどで、実際に沖田の周囲では近藤や土方などのように花柳界の女性の影は見えない。ただ、壬生光縁寺には過去帳に「沖田氏縁者」と書かれた女性の記録があり、これが沖田の恋人ではないかとも言われている。研究者によるとこの女性は石井秩という未亡人で、連れ子(娘)が1人居たという。沖田はこの女性との間に1女をもうけたという話もあるが、決め手に欠けるとも言われる。なお、新選組にはもう一人「沖田承之進」(慶応元年4月、土方らが江戸で募集した隊士の1人)という沖田姓の隊士が居り、過去帳の「沖田氏」は承之進の方では無いか、との説もある。
発病時期
沖田総司といえば、創作作品において必ずといって良いほど池田屋での戦闘中に激しく喀血し、倒れこむ。しかし現在は上述のとおり、研究者の間ではこの説は取られていない。同事件で沖田が喀血したと明記するのは『新選組始末記』(子母澤寛)のみで、沖田は事後の長州残党狩り(明保野亭事件参照)にも参加しているし、翌月の禁門の変にも近藤・土方・武田・永倉と共に出動していた記録(『甲子戦争記』西村兼文)があり、喀血するほど労咳が進行していたら、無理を強いて出動させるとは思えないのがその理由である。
一方、慶応2年(1866年)頃、幕府典医松本良順が新選組を集団検診した際に「肺結核の者が1名居た」と記しており、これが沖田総司ではないかとする説もある。慶応3年(1867年)には明らかに周囲が認識し得るほど発病していた模様で、2月頃罹病したとする『両雄実録』(小島鹿之助)、不動堂村へ屯所を移転した9月頃に大病を患ったとする『壬生浪士始末記』(西村兼文)、さらに10月13日付で小島鹿之助が近藤へ送った書簡にも沖田の異常を気遣う文面が見られる。以上から、沖田が戦闘に耐えがたいほど重篤な状態に陥ったのは、慶応3年秋~冬頃であったと思われる。
なお、『新選組始末記』をはじめとする池田屋喀血・昏倒シーンの元となったのは永倉新八の『新選組顛末記』と考えられるが、こちらには吐血・喀血の文字こそ見られないものの沖田が昏倒したことが記されており、初夏の蒸し暑い異常な高温下での激しい戦闘によって一時的に軽度の熱中症を起こした等、少なくとも近藤や永倉など周囲の者には肺のほうの異常は感じさせない状態であったと考えられている
1863年の浪士組結成に参加して上洛、分裂後は近藤らに従い残留し、新選組を結成する。沖田の一番隊は常に重要な任務をこなし、剣豪ひしめく新選組の中でも一、二を争う程多くの人を斬ったと言われ、この時期では9月の芹沢鴨暗殺、内山彦次郎暗殺など手がけた。
64年6月の池田屋事件で、討幕派数人を切り伏せ活躍したものの、直後に肺結核により喀血して倒れる(諸説あり)とされていたが、その後の新選組史において依然として活躍していることから、この日に肺結核が発症したとは考えにくい。
病が進行して第一線で活躍することがなくなるのは1867年以降で、鳥羽伏見の戦いは参戦できず大坂に護送される。鳥羽伏見の敗戦後、隊士と共に海路江戸へ戻り、甲陽鎮撫隊に参加する(諸説あり)も中途での落伍を余儀なくされる。以後は幕臣の松本良順により千駄ヶ谷の植木屋に匿われたとされ、1868年に死去、享年27。
慶応元年2月、総長の山南敬助が脱走した事件では、追っ手として差し向けられ近江草津で捕らえる。山南は沖田の介錯で切腹した。沖田は山南を兄のように慕っていたとされるが、故郷への手紙では山南の死に関して軽く触れるに留められている。
沖田が人を斬ったことを記す初めての記録は文久3年3月24日の夜。清河八郎の呼びかけに集まった浪士組の一番隊の殿内義雄だった。
近藤勇斬首から2ヶ月後、近藤勇の死も知らずに亡くなった。 辞世の句は「動かねば闇にへだつや花と水」とされる。墓所は、東京都港区元麻布三、専称寺ほか。
佐久間象山の息子三浦啓之助がある隊士にからかわれた。後日、土方と沖田が碁を打っている側で三浦がからかった隊士を背後から斬りつけると、沖田は腹を立て「この馬鹿野郎」と叫び三浦の襟首を引っつかんで頭を畳に押し付け引きずり回し、三浦は鼻の皮を真っ赤にすりむいたという話が伝わっている。
死の際には、植木屋の庭に現れる黒猫を斬ろうとして幾度となく失敗し、己の衰えを痛感した沖田は「ああ、斬れない。婆さん(付添いの老婆)、俺は斬れないよ」と嘆いていたという(ただし、この話は子母沢寛による創作であると言われる)。
死の間際まで「(近藤)先生はどうされたのでしょうね、お便りは来ませんか?」と、師を気遣う言葉を幾度となく口にしたとも伝えられている。近藤の死に関して周囲の者は固く口止めされていたため、沖田は近藤の死を知らずに逝ったわけである。これに先立って、甲陽鎮撫隊が出陣する際に近藤が沖田を見舞うと、普段は明るい沖田がこのときだけは声を上げて泣いたという。
一般に近藤、土方、沖田の三人が非常に親しく、特に土方と沖田は兄弟のような関係であったと思われているが、これも司馬遼太郎、子母澤寛の創作によるところが多い。土方と沖田が特別親しかったことを示す資料自体は存在しないが、沖田が土方の手紙の執筆代理をした記録が残っている。小説や文献には腕を組んで歩いていたとか、土方の遊楽にはよく連添われたとかいう伝説や記述も見受けられるが、実際には沖田と土方は特別親密であったわけではないらしい。腕を組んでいたというのも誇張で、実際には屯所の周りを数人で散歩していた隊士のなかにたまたま土方と沖田が混ざっていた程度のことらしく、仕事以外では二人で行動を共にすることは少なかったようで、二人の仲は悪くはないが特別良くもなく、肉親のように固い絆で結ばれているようなことは無かったようである。 しかし、師である近藤勇とは師弟関係の絆が相当強かったようで、試衛館時代から父親のように慕っていたと伝わっている。新選組結成以降も近藤には最も忠義を尽くし、自分の死の間際にまで近藤の安否を心配し続けていたのである。
剣技
沖田の剣技で有名なのが「三段突き」である。左八相の構えから踏み込みの足音が一度しか鳴らないのに、その間に3発の突きを繰り出すという目にも止まらぬ速さなのだが、相手は一突きもらったと思った瞬間、既に三度突かれていたということである(その後会得した者が居ない為、真相は不明)。しかしそのような剣とは裏腹に、当の本人はいつも冗談を言っては笑っていた陽気な人物であったようだ。屯所界隈の子供達ともよく遊んであげていたようで、作家の司馬遼太郎は新撰組を題材とした作品を執筆する際、幼い頃に沖田に遊んでもらったという老婆を取材している(取材が1960年前後とすると、明治維新が1868年なので、かなり高齢ではあるものの実際の沖田総司を目にした人々が生きていたのである)。
沖田の剣については、新選組内部以外からの声もある。小島鹿之助は新選組結成前(文久2年(1862年)7月)に「この人剣術は、晩年必ず名人に至るべき人なり」(『小島日記』)と述べているし、新選組に批判的な西村兼文は「近藤秘蔵の部下にして、隊中第一等の剣客なり」(『壬生浪士始末記』)と言い、さらに新選組と敵対した阿部十郎は「沖田総司、是がマァ、近藤の一弟子でなかなか能くつかいました」「沖田総司、大石鍬次郎という若者は、ただ腕が利くだけで、剣術などはよくつかいました」「大石鍬次郎、沖田総司、井上、是らは無闇に人を斬殺致しますので」(『史談会速記録』)など、殊に敵に回した場合に筆頭の脅威となる剣客であったことが伺える。ちなみに千葉弥一郎(新徴組隊士で、沖田の義兄と同僚)の言葉に「われわれからみたらやっと目録(低い段位)くらいの腕前」と、唯一の否定的見解が見られる。
沖田の刀
小説などにおいて、沖田総司の所有する刀として「菊一文字則宗」の名が挙げられる。これは子母澤寛などの伝記により「沖田の刀は“菊一文字細身のつくり”」とされていたことから司馬遼太郎が著作『新撰組血風録』の中で創作した物語が広まったものである。しかし則宗作の刀は、日本刀が常用されていた当時でさえ非常に貴重な古刀であり、経済的にも実戦で多用する必要性からも沖田が所有した可能性はほとんど無いと推察され、研究者の間で取り上げられることはまず無い。現在では沖田が所有した実際の刀は、一般に「加州清光」とされている。あるいは、則宗以外にも幾つか存在した“菊に一”の紋を打った細身の刀の1つではないかとする説もある。いずれにせよ他の隊士と同様、在京中に何度か刀を交換した可能性も高い。
美少年
作家司馬遼太郎の作品以降、沖田は小説・ドラマなど創作世界においては頻繁に美少年として描かれてきた。沖田の容貌に関して、現在残っている沖田の肖像画は、昭和4年に沖田家の人を元に書かれたものであり、八木家の者や新選組に関わった人物の証言では、「美少年であった」とは書き残してはおらず、容姿に関する記述としては、「ヒラメ顔で色黒」、「肩の張り上がった」、「猫背」と書かれたものが残っている。(『竜馬におまかせ!』『月明星稀 - さよなら新選組』ではこの説に近い設定となっている。)この記述から浮かび上がる人物像として、美少年説に疑義を唱える指摘もある。沖田が美少年であるというイメージは、司馬遼太郎の小説『燃えよ剣』をはじめ、その流れをくんだ『幕末純情伝』(美少女として描かれている)など多数の作品での、沖田に関する描写などによる誤解であると思われる。
沖田の肖像については、1977年出版の「激録新撰組」(原康史著 東京スポーツ新聞社刊)表紙に沖田と称する写真が掲載されていた。同書には新選組隊士と称する若い武士の写真が多数収録されており、件の写真も沖田と同年代と見られる武士姿ではあるが、研究者には疑問視する向きも多い。
沖田総司の恋
創作の世界で沖田は、司馬遼太郎の小説以降、一般に純情な青年として描かれることが多かった。町医者の娘とプラトニックな恋愛をするなどの描き方がほとんどで、実際に沖田の周囲では近藤や土方などのように花柳界の女性の影は見えない。ただ、壬生光縁寺には過去帳に「沖田氏縁者」と書かれた女性の記録があり、これが沖田の恋人ではないかとも言われている。研究者によるとこの女性は石井秩という未亡人で、連れ子(娘)が1人居たという。沖田はこの女性との間に1女をもうけたという話もあるが、決め手に欠けるとも言われる。なお、新選組にはもう一人「沖田承之進」(慶応元年4月、土方らが江戸で募集した隊士の1人)という沖田姓の隊士が居り、過去帳の「沖田氏」は承之進の方では無いか、との説もある。
発病時期
沖田総司といえば、創作作品において必ずといって良いほど池田屋での戦闘中に激しく喀血し、倒れこむ。しかし現在は上述のとおり、研究者の間ではこの説は取られていない。同事件で沖田が喀血したと明記するのは『新選組始末記』(子母澤寛)のみで、沖田は事後の長州残党狩り(明保野亭事件参照)にも参加しているし、翌月の禁門の変にも近藤・土方・武田・永倉と共に出動していた記録(『甲子戦争記』西村兼文)があり、喀血するほど労咳が進行していたら、無理を強いて出動させるとは思えないのがその理由である。
一方、慶応2年(1866年)頃、幕府典医松本良順が新選組を集団検診した際に「肺結核の者が1名居た」と記しており、これが沖田総司ではないかとする説もある。慶応3年(1867年)には明らかに周囲が認識し得るほど発病していた模様で、2月頃罹病したとする『両雄実録』(小島鹿之助)、不動堂村へ屯所を移転した9月頃に大病を患ったとする『壬生浪士始末記』(西村兼文)、さらに10月13日付で小島鹿之助が近藤へ送った書簡にも沖田の異常を気遣う文面が見られる。以上から、沖田が戦闘に耐えがたいほど重篤な状態に陥ったのは、慶応3年秋~冬頃であったと思われる。
なお、『新選組始末記』をはじめとする池田屋喀血・昏倒シーンの元となったのは永倉新八の『新選組顛末記』と考えられるが、こちらには吐血・喀血の文字こそ見られないものの沖田が昏倒したことが記されており、初夏の蒸し暑い異常な高温下での激しい戦闘によって一時的に軽度の熱中症を起こした等、少なくとも近藤や永倉など周囲の者には肺のほうの異常は感じさせない状態であったと考えられている
ボディビルディングと薬物とのかかわりは古く、他のスポーツに先駆けて既に40年以上前の時点で薬物の洗礼を受けたと言われる。結果として、ボディビルを良く知らない者が筋肉隆々のボディービルダーを見ると、その発達した肉体に驚嘆しつつも、ボディービルダーは誰も彼もが『薬物を使用(ドーピング)してる』という誤ったイメージを持つようになってしまった。具体的に「薬物」が何を指すのか、どこで手に入るのか、どういった類のものなのか、ということを知らないまま、薬物の使用に対して悪く言う人も少なくない。極端な例を挙げるなら、ボディビルダーがよく摂取する単なる栄養補助食品(サプリメント)にすぎないプロテインの粉末やアミノ酸の錠剤等を、薬物と混同してしまっている者もかなり存在する。
現代では、ボディービルダーの『二極分化』が進んでいると言われ、一方では何の制限も無く薬物を使用し怪物のような肉体を作り上げ、その異常なまでに発達した筋肉で人々の注目を集めるタイプのボディービルダー(IFBBミスターオリンピア等)が存在し、もう一方ではいっさい薬物を使用する事無く、自然なサプリメント摂取と地道なトレーニングを積み重ね、ナチュラルである事にこだわり続けるタイプのボディビルダーが存在する。後者を『ナチュラルビルダー』と呼ぶ事もある。
通常、この両者は同じコンテストに出場する事は無く、各々に専用のコンテストが存在し「住み分け」がなされている。ナチュラルビルダーが出場するコンテストにおいては、一般的に(ナチュラルである事を標榜していても、ローカルなコンテストでは、予算の関係で検査ができない事もある)厳重な薬物検査が実施され、違反者は即失格となる。中には、薬物を使用していながら、使用していないと偽ってナチュラルビルダーのコンテスト(筋肉の大きさだけを問うのであれば、ナチュラルの方がレベルが低い)に出場する者もいるため、検査項目にポリグラフ(嘘発見器)を使用しているコンテストもある。
薬物使用ビルダーが、薬物大量摂取による後遺症で健康を損ねたり、あるいはそれが原因で死亡する事が問題となり、それまで公然の秘密とされていたボディビルの薬物汚染に批判が集まり、検査が実施されるに至った。しかし、コンテストにおけるボディビルダーを「健康美」の対象としてではなく、「見世物」と考える観客も多く、そういった人々は怪物のような肉体を見る事のみを望み、ボディビルダーの健康には関心が無かった。入賞者に賞金の出る「プロボディビルダー」の大会では、興行のためにそういった観客の「需要」を無視する事ができず、薬物検査をせず、暗に薬物使用を認める事になった。一旦は薬物検査を実施しておきながら、その結果コンテストが不人気となってしまい、慌てて薬物検査を取りやめたプロの大会も存在する。
以前までは、『薬物使用可=プロのコンテスト』『薬物使用不可=アマチュアのコンテスト』という公式があったが、薬物検査を欺く技術が発達したため、現在ではアマチュアコンテスト出場者であってもナチュラルビルダーとは言えず、単に『プロライセンスを持たない者のコンテスト』という意味になりつつある。また、最近の健康志向の風潮からナチュラルビルダーに対する評価が上がり、『プロのナチュラルビルダー』というカテゴリーも存在するようになった。
薬物使用(ドーピング)を如何ほどまで許容すべきか、と言う論争は、ボディービルディングに限らず、多くの競技スポーツの間で共通して見受けられる問題である。多少は許容すべきという意見があれば、一切廃すべきという意見もあり、難しい問題として残る。
また、薬物を使えば、誰でも簡単に筋骨隆々になれるというわけではない。薬物を使用しようがしまいが、ハードなトレーニングを実施しない限り筋肉は発達しない。
現代では、ボディービルダーの『二極分化』が進んでいると言われ、一方では何の制限も無く薬物を使用し怪物のような肉体を作り上げ、その異常なまでに発達した筋肉で人々の注目を集めるタイプのボディービルダー(IFBBミスターオリンピア等)が存在し、もう一方ではいっさい薬物を使用する事無く、自然なサプリメント摂取と地道なトレーニングを積み重ね、ナチュラルである事にこだわり続けるタイプのボディビルダーが存在する。後者を『ナチュラルビルダー』と呼ぶ事もある。
通常、この両者は同じコンテストに出場する事は無く、各々に専用のコンテストが存在し「住み分け」がなされている。ナチュラルビルダーが出場するコンテストにおいては、一般的に(ナチュラルである事を標榜していても、ローカルなコンテストでは、予算の関係で検査ができない事もある)厳重な薬物検査が実施され、違反者は即失格となる。中には、薬物を使用していながら、使用していないと偽ってナチュラルビルダーのコンテスト(筋肉の大きさだけを問うのであれば、ナチュラルの方がレベルが低い)に出場する者もいるため、検査項目にポリグラフ(嘘発見器)を使用しているコンテストもある。
薬物使用ビルダーが、薬物大量摂取による後遺症で健康を損ねたり、あるいはそれが原因で死亡する事が問題となり、それまで公然の秘密とされていたボディビルの薬物汚染に批判が集まり、検査が実施されるに至った。しかし、コンテストにおけるボディビルダーを「健康美」の対象としてではなく、「見世物」と考える観客も多く、そういった人々は怪物のような肉体を見る事のみを望み、ボディビルダーの健康には関心が無かった。入賞者に賞金の出る「プロボディビルダー」の大会では、興行のためにそういった観客の「需要」を無視する事ができず、薬物検査をせず、暗に薬物使用を認める事になった。一旦は薬物検査を実施しておきながら、その結果コンテストが不人気となってしまい、慌てて薬物検査を取りやめたプロの大会も存在する。
以前までは、『薬物使用可=プロのコンテスト』『薬物使用不可=アマチュアのコンテスト』という公式があったが、薬物検査を欺く技術が発達したため、現在ではアマチュアコンテスト出場者であってもナチュラルビルダーとは言えず、単に『プロライセンスを持たない者のコンテスト』という意味になりつつある。また、最近の健康志向の風潮からナチュラルビルダーに対する評価が上がり、『プロのナチュラルビルダー』というカテゴリーも存在するようになった。
薬物使用(ドーピング)を如何ほどまで許容すべきか、と言う論争は、ボディービルディングに限らず、多くの競技スポーツの間で共通して見受けられる問題である。多少は許容すべきという意見があれば、一切廃すべきという意見もあり、難しい問題として残る。
また、薬物を使えば、誰でも簡単に筋骨隆々になれるというわけではない。薬物を使用しようがしまいが、ハードなトレーニングを実施しない限り筋肉は発達しない。