エジプト、メソポタミア、地中海地域を結ぶ交通の要衝の地として、紀元前3000年ごろから形成された都市。中東でも最古の都市の1つである。
バラダ川の南側にあるダマスカス旧市街(Old Damascus)は、城壁に囲まれた歴史のある地域である。この城壁は、1世紀頃、ローマが最初に建設したと言われている。2004年現在残っているものは、13世紀から14世紀にかけて、十字軍やモンゴル帝国の侵略を防ぐために、アラブ人が建築したものである。城壁には、7つの門が残っている。旧市街地は、狭い入り組んだ道になっているが、東西に走る真っ直ぐな道(Straight Street)は、新約聖書にも登場している。
旧市街にあるスーク(市場)はアレッポ
世界最古のモスクといわれる、ウマイヤド・モスクも旧市街地にある。
エジプトとメソポタミアを結ぶ交通の要衝であり、紀元前3000年ごろから都市が形成しはじめたと考えられている。
アレキサンダー大王の東征以後は、ギリシャ、ローマ帝国の支配下に置かれる。
635年、アラブ人が侵入。661年から750年まで、ウマイヤ朝の首都として栄える。
1946年、シリアの首都となる。
ウマイヤ朝の支配下、715年に建築された世界最古のモスク。建設には10年以上の月日が費やされたといわれている。
イスラム教の4大聖地の1つに数えられており、シリア国内はもちろん、周辺のイスラム諸国から巡礼ツアーが訪れる。非イスラム教徒の入場も許可されているが、入る門は制限されている。また、成人女性の入場にはベール等で髪を隠すことが義務付けられている。
サラーフッディーン廟
ウマイヤド・モスクの北門近くにある十字軍を撃退した英雄サラーフッディーン(サラディン)を埋葬している建物。城砦近くには、馬に跨ったサラーフッディーンの銅像も建っている。

バラダ川の南側にあるダマスカス旧市街(Old Damascus)は、城壁に囲まれた歴史のある地域である。この城壁は、1世紀頃、ローマが最初に建設したと言われている。2004年現在残っているものは、13世紀から14世紀にかけて、十字軍やモンゴル帝国の侵略を防ぐために、アラブ人が建築したものである。城壁には、7つの門が残っている。旧市街地は、狭い入り組んだ道になっているが、東西に走る真っ直ぐな道(Straight Street)は、新約聖書にも登場している。
旧市街にあるスーク(市場)はアレッポ
世界最古のモスクといわれる、ウマイヤド・モスクも旧市街地にある。
エジプトとメソポタミアを結ぶ交通の要衝であり、紀元前3000年ごろから都市が形成しはじめたと考えられている。
アレキサンダー大王の東征以後は、ギリシャ、ローマ帝国の支配下に置かれる。
635年、アラブ人が侵入。661年から750年まで、ウマイヤ朝の首都として栄える。
1946年、シリアの首都となる。
ウマイヤ朝の支配下、715年に建築された世界最古のモスク。建設には10年以上の月日が費やされたといわれている。
イスラム教の4大聖地の1つに数えられており、シリア国内はもちろん、周辺のイスラム諸国から巡礼ツアーが訪れる。非イスラム教徒の入場も許可されているが、入る門は制限されている。また、成人女性の入場にはベール等で髪を隠すことが義務付けられている。
サラーフッディーン廟
ウマイヤド・モスクの北門近くにある十字軍を撃退した英雄サラーフッディーン(サラディン)を埋葬している建物。城砦近くには、馬に跨ったサラーフッディーンの銅像も建っている。

PR
1925年に開催されたパリ万国装飾美術博覧会で花開いた。博覧会の正式名称は「現代装飾美術・産業美術国際博覧会」(Exposition Internationale des Arts Decoratifs et Industriels modernes)、略称をアール・デコ博といい、この略称にちなんでアール・デコ様式と呼ばれるようになった。また「1925年様式」と呼ばれることもある。
キュビズム、バウハウス、古代エジプト美術、ロシア・バレエ、東洋美術などの影響が指摘されている。世紀末のアール・ヌーヴォーは植物などを思わせる曲線を多用した有機的なデザインであったが、自動車・飛行機や各種の工業製品、近代的都市生活といったものが生まれた時代への移り変わりに伴い、より機能的・合理的で簡潔なデザインが流行するようになった。アール・デコ様式の影響を受けた分野は絵画や彫刻、建築、服飾、宝飾、ポスター、生活雑貨など多岐にわたる。
建築様式としては、ニューヨークの摩天楼(クライスラービル・エンパイアステートビル・ロックフェラーセンターなど)が有名で一世を風靡した。しかし大恐慌によりアメリカ経済が力を失っていくのと同時にブームは去った。
日本でも昭和時代初期の一時期、アール・デコ様式が流行した。当時国際都市であった上海の近代建築にもアール・デコの影響が見られる(サッスーンハウス、フランスクラブなど)。
アール・ヌーヴォー同様、主に商業美術の分野で用いられたこと、及び装飾を否定するモダニズムの美学に合わないことから現代美術史上は全く評価されてこなかったが、近年では再評価が進んでいる。
建築
インテリア、家具にもアール・デコが用いられた。フランク・ロイド・ライトもアール・デコの流れに位置づけられることがある。
クライスラービル(アールデコの摩天楼)
エンパイアステートビル
ウォルドルフ=アストリア
エセックスハウス
マイアミのアールデコ建築群をマイアミ・デコと呼ぶことがある。
美術
ポスター・絵画
カッサンドル(A. M. Cassandre; 1901-1968; 本名アドルフ・ジャン=マリー・ムーロン; Adolphe Jean-Marie Mouron)
アイリーン・グレイ
ポール・コラン(Paul Colin; 1892-1985)
ジャン・カルリュ(Jean Carlu; 1900-1997)
ルネ・ラリック
シャルル・ルーポ(Charles Loupot; 1892-1962)
タマラ・ド・レンピッカ
ファッション
ファッションの分野でも広がりを見せた。それまで女性服はコルセットを着用し、ウエストと曲線美を強調するデザインであったが、この時代にはコルセット無しの活動的なデザインの服が作られ始めた。ドレスの多くはウエストの無いストンとした直線的なシルエットを持つ。
もともとアール・デコには日本の美術から影響を受けた側面があり、日本人の関わりも興味深い。
里見宗次(さとみ・むねつぐ;ムネ・サトミとも;1904-1996)
山名文夫(やまな・あやお;1897-1980)
オールド・ノリタケ(陶磁器、食器)
東京都庭園美術館(旧・朝香宮邸)
朝香宮はパリのアール・デコ博で本場の装飾芸術にふれ、フランスのデザイナーを起用して邸宅を建設した。
聖路加国際病院の装飾などにも影響が見られる。
東京都台東区日本堤の「廿世紀浴場」(銭湯)も「アールデコ風」とされることが多い

アールデコ・セラミック作品集
キュビズム、バウハウス、古代エジプト美術、ロシア・バレエ、東洋美術などの影響が指摘されている。世紀末のアール・ヌーヴォーは植物などを思わせる曲線を多用した有機的なデザインであったが、自動車・飛行機や各種の工業製品、近代的都市生活といったものが生まれた時代への移り変わりに伴い、より機能的・合理的で簡潔なデザインが流行するようになった。アール・デコ様式の影響を受けた分野は絵画や彫刻、建築、服飾、宝飾、ポスター、生活雑貨など多岐にわたる。
建築様式としては、ニューヨークの摩天楼(クライスラービル・エンパイアステートビル・ロックフェラーセンターなど)が有名で一世を風靡した。しかし大恐慌によりアメリカ経済が力を失っていくのと同時にブームは去った。
日本でも昭和時代初期の一時期、アール・デコ様式が流行した。当時国際都市であった上海の近代建築にもアール・デコの影響が見られる(サッスーンハウス、フランスクラブなど)。
アール・ヌーヴォー同様、主に商業美術の分野で用いられたこと、及び装飾を否定するモダニズムの美学に合わないことから現代美術史上は全く評価されてこなかったが、近年では再評価が進んでいる。
建築
インテリア、家具にもアール・デコが用いられた。フランク・ロイド・ライトもアール・デコの流れに位置づけられることがある。
クライスラービル(アールデコの摩天楼)
エンパイアステートビル
ウォルドルフ=アストリア
エセックスハウス
マイアミのアールデコ建築群をマイアミ・デコと呼ぶことがある。
美術
ポスター・絵画
カッサンドル(A. M. Cassandre; 1901-1968; 本名アドルフ・ジャン=マリー・ムーロン; Adolphe Jean-Marie Mouron)
アイリーン・グレイ
ポール・コラン(Paul Colin; 1892-1985)
ジャン・カルリュ(Jean Carlu; 1900-1997)
ルネ・ラリック
シャルル・ルーポ(Charles Loupot; 1892-1962)
タマラ・ド・レンピッカ
ファッション
ファッションの分野でも広がりを見せた。それまで女性服はコルセットを着用し、ウエストと曲線美を強調するデザインであったが、この時代にはコルセット無しの活動的なデザインの服が作られ始めた。ドレスの多くはウエストの無いストンとした直線的なシルエットを持つ。
もともとアール・デコには日本の美術から影響を受けた側面があり、日本人の関わりも興味深い。
里見宗次(さとみ・むねつぐ;ムネ・サトミとも;1904-1996)
山名文夫(やまな・あやお;1897-1980)
オールド・ノリタケ(陶磁器、食器)
東京都庭園美術館(旧・朝香宮邸)
朝香宮はパリのアール・デコ博で本場の装飾芸術にふれ、フランスのデザイナーを起用して邸宅を建設した。
聖路加国際病院の装飾などにも影響が見られる。
東京都台東区日本堤の「廿世紀浴場」(銭湯)も「アールデコ風」とされることが多い

アールデコ・セラミック作品集
1874年、フランス人宝石細工師のルイ・フランソワ・カルティエがパリに開いたアトリエが始まり。1900年代に入って、彼の3人の孫達によって世界的なブランドとなった。
孫の一人ピエールはニューヨークへ進出、もう一人のジャックはロンドン、最後のルイはパリに店を構えた。特に3代目当主となったルイはアール・デコ様式のジュエリーやファッション性の高い時計を作り上げ、カルティエの名声を高めた。
また、アルベルト・サントス・デュモンから飛行中でも操縦桿から手を放さないですむようにと依頼されてルイが作った腕時計は「サントス」という名前で現在でも人気が高い。1904年にはイギリス王室御用達に指定された。
現在はフランスのコングロマリットのリシュモングループの傘下にある。

孫の一人ピエールはニューヨークへ進出、もう一人のジャックはロンドン、最後のルイはパリに店を構えた。特に3代目当主となったルイはアール・デコ様式のジュエリーやファッション性の高い時計を作り上げ、カルティエの名声を高めた。
また、アルベルト・サントス・デュモンから飛行中でも操縦桿から手を放さないですむようにと依頼されてルイが作った腕時計は「サントス」という名前で現在でも人気が高い。1904年にはイギリス王室御用達に指定された。
現在はフランスのコングロマリットのリシュモングループの傘下にある。

男性でも女性でもオーガズムの際に、さまざまな無意識な身体的反応が起こる。性器の充血、発汗、発声、下肢の筋肉の硬直、性器周辺の筋肉の痙攣などが一般的に観察される。また、オーガズム前後では性器以外の皮膚感覚や視覚・聴覚が鈍くなる。さらに、オーガズム中の脳はθ波と呼ばれる睡眠初期のときに出る脳波で充満した状態となり、ドパミンやセロトニンと言った脳内の快楽系神経伝達物質も活性化し、A10神経も反応を強くする。
オーガズム時、足指が開いた状態をバビンスキー反射と言うのは誤解
性交やオナニー、他人による性器への愛撫などにより性感帯を刺激することにより起こる。俗語では「イく」「来る」などともいう。文語では「達する」「昇天する」「気を遣る」などと表現されることもある。男性では多くの場合、オーガズム時に射精が起こり、女性では膣口にある括約筋の規則的な収縮などが見られる。
生理的にはくしゃみに似ているとも言われる。また、オーガズムに伴い陶酔的な幸福感が感じられる。オーガズムの直前に寂莫感(男性)や恐怖感(女性)を覚える場合もある。
オーガズムに至る時間は男性が非常に短く、逆に女性は時間がかかる。一方で、その後すぐに快感が衰える男性に対し、女性はオーガズム後、しばらくの間余韻が残るとされる。これには、男性は射精後プロラクチンを放出し、一気に性欲を低下させると考えられている。プロラクチンはドパミンによって抑制されるため、脳のオーガズムネットワークの活性化、ドパミンの分泌コントロールにより、赤い線の女性型オーガズムを体験する事も可能と言う報告が、多く言われている。
男女の性愛において男性の射精後男性の性的興奮が急速に衰える為、その時点で男性が性交渉を中止する場合があるが、女性の方はまだオーガズムに達していないため不満が残ることが多い。これを補うため、女性への労りとして後戯(女性への愛撫や抱擁)がしばしば行われる。
男女ともオーガズムパターンは多く存在し、多くの場合オーガズムの初期レベルは陰茎や陰核(クリトリス)の刺激によって引き起こされ、陰嚢や大陰唇など性器全体に広がる。 男性のオーガズムの場合は射精によるウェットオーガズムと、射精を誘発しない前立腺刺激を主体としたドライオーガズムが存在する。また前立腺ではなくペニスを直接刺激しながらも射精せずに何度でもオーガズムに至る事はマルチプルオーガズムと呼ばれている。 女性の場合はGスポットやPスポットと言った性感帯が存在すると言われ、男女ともオーガズムの深度もより変化し、脳波や神経伝達物質の量も著しく変化する。

オーガズム時、足指が開いた状態をバビンスキー反射と言うのは誤解
性交やオナニー、他人による性器への愛撫などにより性感帯を刺激することにより起こる。俗語では「イく」「来る」などともいう。文語では「達する」「昇天する」「気を遣る」などと表現されることもある。男性では多くの場合、オーガズム時に射精が起こり、女性では膣口にある括約筋の規則的な収縮などが見られる。
生理的にはくしゃみに似ているとも言われる。また、オーガズムに伴い陶酔的な幸福感が感じられる。オーガズムの直前に寂莫感(男性)や恐怖感(女性)を覚える場合もある。
オーガズムに至る時間は男性が非常に短く、逆に女性は時間がかかる。一方で、その後すぐに快感が衰える男性に対し、女性はオーガズム後、しばらくの間余韻が残るとされる。これには、男性は射精後プロラクチンを放出し、一気に性欲を低下させると考えられている。プロラクチンはドパミンによって抑制されるため、脳のオーガズムネットワークの活性化、ドパミンの分泌コントロールにより、赤い線の女性型オーガズムを体験する事も可能と言う報告が、多く言われている。
男女の性愛において男性の射精後男性の性的興奮が急速に衰える為、その時点で男性が性交渉を中止する場合があるが、女性の方はまだオーガズムに達していないため不満が残ることが多い。これを補うため、女性への労りとして後戯(女性への愛撫や抱擁)がしばしば行われる。
男女ともオーガズムパターンは多く存在し、多くの場合オーガズムの初期レベルは陰茎や陰核(クリトリス)の刺激によって引き起こされ、陰嚢や大陰唇など性器全体に広がる。 男性のオーガズムの場合は射精によるウェットオーガズムと、射精を誘発しない前立腺刺激を主体としたドライオーガズムが存在する。また前立腺ではなくペニスを直接刺激しながらも射精せずに何度でもオーガズムに至る事はマルチプルオーガズムと呼ばれている。 女性の場合はGスポットやPスポットと言った性感帯が存在すると言われ、男女ともオーガズムの深度もより変化し、脳波や神経伝達物質の量も著しく変化する。

秘湯ブームなどで、マスコミや本にも取り上げられ、単なる好奇心だけで来て入浴するという従来のマナーを知らない入浴者が男女とも増えている。
男性入浴者が、見ず知らずの女性を好奇な目で見ることはマナー違反である。女性が湯に出入りする時、湯船の外を歩く時などは、女性への視線をそらすことが男性入浴者のマナーである。女性にすり寄ったり、触れたりするのはもってのほかである。
男性入浴者が、見ず知らずの女性に自らの性器をあからさまに見せ付けることもマナー違反である。
タオル、手ぬぐいあるいはバスタオルの類は、基本的に湯船内に持ち込み禁止である。女性が肌を隠すためにバスタオルを持ち込んで入浴し、湯を含んだバスタオルが重く持って帰るのが嫌なためその場に置き去ってくるということも発生している。
親しい男女が入浴するときでも、周りに他人がいるときには、変にいちゃついくのはもちろん、性的行為に及ぶのはマナー違反である。
マナーの低下が、混浴風呂の減少や水着着用につながっている。逆に貸切り風呂は増加した。男女が性別を意識することなく湯船でくつろぎ、語り合うことができることが混浴の良さであり大切なことである。
規制
各地方自治体の制定する条例により、混浴が禁止されている場合がある。
東京都は、混浴時は水着着用を義務にしている。
三重県では、12歳以上の混浴が禁じられている。
兵庫県では、6歳以上の混浴が禁じられている。
2006年8月、兵庫県は三木市営の公衆浴場「吉川温泉よかたん」の家族風呂が混浴にあたるとの解釈を突然持ち出し使用禁止を指導、三木市はこれを拒否するなど混乱が生じている。
歴史
古くは、大きな湯船の共同浴場は一般的でなく、大きな湯船といえば天然の温泉が溜まってできた野湯であった。そのため、男湯・女湯という概念はなく、混浴は、自然発生的にできたものである。なお、同じ温泉でも、西洋は水着を着て運動温熱療法的な使われ方をしたのに対して、日本では裸で肩まで浸って静養するという文化の違いが生まれた。
時代が下ると、温泉地では、泉源から湯船まで温泉を引いた今で言う共同浴場もできてきたが、まだ、男湯と女湯の区別もなかった。
江戸時代に入ると、大都市で銭湯が大衆化した。銭湯に垢すりや髪すきのサービスを湯女(ゆな)にやらせる湯女風呂などが増加した。松平定信は、1791年、江戸の銭湯での男女混浴を禁止する男女混浴禁止令を出したりして、風紀の取り締まりの対象にもなった。
明治時代に入ると、男女混浴は風紀を乱す元、前時代的と見られる元として原則禁止となる

男性入浴者が、見ず知らずの女性を好奇な目で見ることはマナー違反である。女性が湯に出入りする時、湯船の外を歩く時などは、女性への視線をそらすことが男性入浴者のマナーである。女性にすり寄ったり、触れたりするのはもってのほかである。
男性入浴者が、見ず知らずの女性に自らの性器をあからさまに見せ付けることもマナー違反である。
タオル、手ぬぐいあるいはバスタオルの類は、基本的に湯船内に持ち込み禁止である。女性が肌を隠すためにバスタオルを持ち込んで入浴し、湯を含んだバスタオルが重く持って帰るのが嫌なためその場に置き去ってくるということも発生している。
親しい男女が入浴するときでも、周りに他人がいるときには、変にいちゃついくのはもちろん、性的行為に及ぶのはマナー違反である。
マナーの低下が、混浴風呂の減少や水着着用につながっている。逆に貸切り風呂は増加した。男女が性別を意識することなく湯船でくつろぎ、語り合うことができることが混浴の良さであり大切なことである。
規制
各地方自治体の制定する条例により、混浴が禁止されている場合がある。
東京都は、混浴時は水着着用を義務にしている。
三重県では、12歳以上の混浴が禁じられている。
兵庫県では、6歳以上の混浴が禁じられている。
2006年8月、兵庫県は三木市営の公衆浴場「吉川温泉よかたん」の家族風呂が混浴にあたるとの解釈を突然持ち出し使用禁止を指導、三木市はこれを拒否するなど混乱が生じている。
歴史
古くは、大きな湯船の共同浴場は一般的でなく、大きな湯船といえば天然の温泉が溜まってできた野湯であった。そのため、男湯・女湯という概念はなく、混浴は、自然発生的にできたものである。なお、同じ温泉でも、西洋は水着を着て運動温熱療法的な使われ方をしたのに対して、日本では裸で肩まで浸って静養するという文化の違いが生まれた。
時代が下ると、温泉地では、泉源から湯船まで温泉を引いた今で言う共同浴場もできてきたが、まだ、男湯と女湯の区別もなかった。
江戸時代に入ると、大都市で銭湯が大衆化した。銭湯に垢すりや髪すきのサービスを湯女(ゆな)にやらせる湯女風呂などが増加した。松平定信は、1791年、江戸の銭湯での男女混浴を禁止する男女混浴禁止令を出したりして、風紀の取り締まりの対象にもなった。
明治時代に入ると、男女混浴は風紀を乱す元、前時代的と見られる元として原則禁止となる
